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イオ

とことん江戸城(小石川門~柳原土手) (2022/06/24 訪問)

(続き)

神田川に架かる小石川橋の南詰が門跡で、交差点の北東側に説明板が建てられています。JRの高架のあたりに枡形があったようですが、明治に撤去されて常磐橋の石材に転用されています。高架の南側、新三崎橋の西詰に大量に転がっている石は小石川門の石材とも考えられるようです。

小石川後楽園にも行きたいところでしたが、開園前なので諦めて先を急ぎます。かつて水道橋の下流には神田上水の巨大な懸樋が神田川をまたいで架けられており、跡地には石碑が建てられています。そしてお茶の水坂を上って、聖橋から仙台濠と中央線・総武線・丸ノ内線が交差する光景を楽しもうと思っていたのですが……外堀通りは聖橋の下を通っていて、聖橋へ直接には上がれないんですね!? まわり道してまで聖橋に上がる気力も時間もなかったので、聖橋の下からの眺めで我慢です。それでも神田山を開削して台地を断ち切り、神田川を東に付け替えて外堀とした壮大な土木量は感じることができました。さすがに仙台藩の土木技術は伊達ではありませんね。

湯島聖堂や神田明神にも行くつもりでしたが、時間がなくなってきたので寄り道せずに筋違門へ。旧万世橋駅のあたりが門跡で、門の遺構は消滅していますが、駅舎西側の旧中山道沿いに説明板があります。将軍が上野寛永寺や日光東照宮に参詣する際に通る門のため、御成門とも呼ばれたようです。

筋違門と浅草橋門の間の神田川南岸には水害に備えて土手が築かれ、柳が植えられていたことから柳原土手と呼ばれていました。土手沿いの柳森神社には桂昌院(徳川綱吉生母)が創建したと伝わる福寿社があり、タヌキの狛犬(狛狸?)が配されています。また、富士講の石碑群や力石など、江戸の習俗を感じさせるものがいろいろと見られます。

さて、外郭めぐりもあとは浅草橋門を残すのみですが、ここで時間切れ。和泉橋で神田川を渡って秋葉原駅からホテルに戻り、キャリーを引きながら出張3日目の仕事に向かいました(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:太田本郷城 (2022/07/30 訪問)

布市城からの転戦です。浮田家住宅駐車場(36.659080、137.243885)に駐車して、城址碑と説明板前(36.660064、137.243298)に向かいました。

1572年(元亀3年)加賀・越中の一向一揆が東進して火宮城を攻め落とし富山城を占拠すると、1573年(元亀4年)上杉謙信の配下で越中方面の総指揮官であった越中国松倉城主河田長親によって築かれたようです。
1578年(天正6年)上杉謙信が急死した後、織田信長に仕えていた神保長住が越中に入国すると、長住は津毛城に入り、斎藤新吾利治が太田本郷城に陣を構えました。
月岡野の戦いを経て今泉城を落とした織田勢は、一時的に越中国攻略の足場を築きました。
その後の太田本郷城の動向は不明のようですが、1578年(天正6年)12月に椎名駿河守(椎名景直)なる者が上杉方から織田方へと寝返って、その見返りとして信長より越中国太田保を賜り、彼が太田本郷城へ入った可能性もあるようです。
斎藤利治(新五)が治めたという説もあるようですが、彼は以後本能寺の変に至るまで織田信忠に付き従っています。
なお、江戸時代の越中国今泉の十村に利治の後裔を称する斎藤家があったそうです。

円光寺の西の交差点付近に「太田本郷城趾」の石碑及び「説明板」が建てられています。
また南方に、1690年(元禄3年)加賀藩より禄高500石にて代々奥山廻役を任されていた豪農浮田家の住宅があります。
浮田家住宅は時間的に閉まっていたので見学できませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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ろっし

お城探訪 (2022/08/27 訪問)

小さい城跡ですが深い堀切には見応えあり。
入り口には虎口もあり、高い土塁に囲まれ立派な城跡でした。

只、奥の方は藪化しておりクモの巣が凄かった

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:布市城 (2022/07/30 訪問)

蜷川館からの転戦です。小柴家墓所入口付近(36.641626、137.238692)に路駐後、興国寺駐車場(36.640857、137.235951)に向かいました。

1334年(南朝暦興国5年)に越中守護となった桃井直常が築いたと云われ、周囲に桃井氏菩提寺の興国寺や同氏祈願所の龍高寺、幕府が諸国に作らせた越中国安国寺(廃寺)がありました。
足利一門の斯波高経と桃井直常が覇権を巡り数十年にわたり激しい抗争を繰り広げられていましたが、1370年(応安3年)に、南朝方の桃井直和(直常の子)が長沢城に籠もります。
越中国守護斯波義将(高経の子)はこれを攻め、両者は長沢にて戦い直和は討死し、桃井勢は飛騨国へと落ち延びました。
桃井氏が越中を去った後、戦国時代に畠山播磨守長光が入城したそうですが、室町期の大田保は守護畠山氏と対立する管領細川家領であり、疑問が残るそうです。
その後、1600年(慶長5年)につちかた雄久が徳川幕府から布市以南10,000石を与えられ、布布藩が成立すると、その陣屋がおかれたという伝説もあり、同藩廃藩とともに廃城となったようです。

大田保の南部に築かれた平城で、興国寺の北東の水田内にある小柴氏の墓所が城跡とされます。
興国寺に直常と奥方の位牌が安置され、境内に直常の墓と伝えられる五輪塔があるようですが、確認していません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=太田本郷城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:蜷川館 (2022/07/30 訪問)

津毛城からの転戦です。最勝寺付近の空スペース(36.645332、137.207457)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、蜷川氏によって築かれたと云われています。
蜷川氏は山城国氏軍の大領宮道氏の後裔とも云われ、1180年(治承4年)の越中国砺波郡・新川郡を領し、新川郡蜷川郷に住んで蜷川氏を称したといいます。
1505年(永正2年)蜷川治部少輔は月岡野で戦死したと伝えられ、1506年(永正3年)守山城主神保氏に攻められ蜷川城は落城したそうです。
アニメ「一休さん」(懐かしい!)に室町将軍足利義満の側近として登場する蜷川新右衛門は、蜷川館主であった蜷川新右衛門親当がモデルだそうです。

蜷川館は南北二郭であったといい、南郭が現在の最勝寺境内、北郭は富山県健康増進センターになっているようです。
現在は、最勝寺境内にわずかに土塁が見られるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=布市城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:津毛城 (2022/07/30 訪問)

猿倉城からの転戦です。福沢小学校校門前(36.602845、137.256477)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に桃井直常が籠もったとも伝えられています。
戦国時代には越後の上杉氏の家臣で村田秀頼、河田長親などが在城して守ったようです。
上杉謙信が没すると飛騨より神保長住が織田軍の先陣として越中へ侵攻し、増山城を攻め落とし、さらに斎藤新五郎が援軍として加わると、上杉勢の河田・椎名らと月岡野で戦い大勝したそうです。
その後、上杉勢は津毛城から今泉城へ退き、津毛城には神保長住が入城しましたた。

城址は福沢小学校などが建っている付近のようですが、遺構は消滅しており、案内板や石碑らしきものも何もありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=次の攻城先=蜷川館に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:猿倉城 (2022/07/30 訪問)

城生城からの転戦です。猿倉展望台駐車場(36.556073、137.225214)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1571年(元亀2年)飛騨の塩屋筑前守秋貞が猿倉山に登って城の普請をしており、この頃には城が築かれていたようです。
秋貞は1578年(天正6年)に佐々成政に下り越中国岩木城に拠ったが、秀頼によって飛騨へ追い返されたようです。
その後、猿倉城は再び越中へ侵入した秋貞が家臣を入れて支配したが、1583年(天正11年)上杉方の斎藤信利が拠る越中国城生城を攻撃中に上杉景勝の援軍が到着して敗退し、追撃する上杉軍に追いつかれて射殺されました。
その後、猿倉城は飛騨国国司姉小路自綱の勢力下に入り、1585年(天正13年)に起こった富山の役で金森長近に落とされたようです。
また、一説には越中国弓庄城に拠っていた土肥氏が一時治めていたともいいます。

猿倉城は猿倉山山頂に築かれており、現在は「風の城」として公園整備されていて、その一角に石碑がたっています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=津毛城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:城生城 (2022/07/30 訪問)

井田主馬ヶ城からの転戦です。本丸ルート入口付近(36.574779、137.177985)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、斎藤氏によって築かれたと云われています。
斎藤氏は南北朝時代の斎藤左衛門大夫入道常喜が、婦負郡楡原保一帯を所領として以来の豪族で、戦国時代末期に斎藤信利が織田信長の武将佐々成政によって追われるまで、この辺り一帯に勢力を持っていたそうです。
1552年(天文21年)上杉氏に属していた願海寺城主寺崎民部左衛門盛永と天神林付近で戦って敗れ、井田館はこのとき落城したようです。
その後、上杉氏に属していましたが1578年(天正6年)に上杉謙信が没すると、飛騨から侵攻した織田氏に従い、上杉方の今泉城攻めなどで戦功を挙げました。
しかし、1581年(天正9年)には弓庄城主土肥氏とともに上杉氏と結び織田の武将佐々成政に敵対します。
1583年(天正11年)佐々成政と神保氏張の軍勢によって城生城は攻められ落城、城主斎藤信利は姉小路頼綱を頼って飛騨へ逃れ、後に徳川家康に仕えて江戸時代は旗本として続いたそうです。
斎藤氏の後は、佐々成政の家臣佐々與左衞門、前田氏の家臣青山佐渡・篠島織部と続きますが、慶長年間には廃城となったようです。

県道25号線横に案内板があり、本丸ルート入口があります。
本丸ルート入口付近に路駐しましたが、長時間路駐できそうにないので、入口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=猿倉城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:井田主馬ヶ城 (2022/07/30 訪問)

富崎城からの転戦です。北側入口(36.591676、137.152936)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、城主は斎藤主馬、主馬判官、斎藤左源太などが伝えられています。
斉藤氏は貞治年間(1362年〜1368年)に斎藤常喜が婦負郡南部一帯を領し、戦国時代には城生城を居城としていました。
井田主馬ヶ城は城生城以前に利用されていたと推測され、1552年(天文21年)に斉藤氏は天神林付近で上杉謙信に従っていた願海寺城主寺崎民部左衛門盛永と戦って敗れ、麓の井田館はこのとき落城したと伝えられています。

井田主馬ヶ城は井田川と久婦須川が合流する地点の東岸の山頂に築かれています。
主郭部は山頂のようですが、縄張り図がない為、どこまで登っていいのかわからず途中で引き返しました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=城生城に向かいます。

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ぴろちゃん

特別公開 素敵💕 (2022/08/27 訪問)

職場の方と特別公開ツアーに参加しました。とてもとても歩いて疲れたけど、近くに天守が見えたり当時の建築に感動したり有意義な時間でした。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:富崎城 (2022/07/30 訪問)

長沢西城からの転戦です。案内板手前の空スペース(36.642043、137.118594)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1441年(嘉吉元年)に神保八郎左衛門が居城していたと伝えられています。
それから百年ほど経て、富山へ進出した神保長職(ながもと)が天文年間(1532年〜1555年)に本格的に築城したようです。
永禄年間(1558年〜1570年)に長職は上杉謙信に攻められ蓮花寺の深沼で討死したと伝えられていましたが、実際には1562年(永禄5年)に上杉謙信に降り増山城へ移ったようです。
その後、上杉氏の支城として利用され、1578年(天正6年)に上杉謙信が没すると、織田信長に仕えていた神保長住が織田氏の先陣として飛騨より越中へ侵攻し、上杉勢と戦いました。
1581年(天正9年)長職の旧臣寺嶋牛之助・小島甚助らが織田氏に対して挙兵、富崎城を本拠に織田氏に対抗しましたが、同年5月富崎城を攻められると城に火を放ち大道城へと逃れました。
その後佐々成政の支城となり、城生城の斎藤氏攻めの拠点として使われたようですが、詳細は不明のようです。
成政が秀吉に降伏した1585年(天正13年)頃には、廃城となったようです。

富崎城は山田川に面した台地の北端に築かれており、 背後の北側には山田川が流れています。
説明板によるとA郭、B郭、C郭、D郭の4つで構成されているようです。
D郭から城内に進入しA郭に入るようですが、説明板までは行けますが、その先は草が自分の背丈くらいあり、郭内に入ることが出来ません。
付近を散策して登城できる場所を捜しましたが見つかりませんでした。
C郭の南側にある外堀は確認できました。。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=井田主馬ヶ城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:長沢西城 (2022/07/30 訪問)

長沢東城からの転戦です。車は、富山市婦中ふるさと自然公園駐車場(36.657737、137.114464)に置いたまま、長沢西城入口に徒歩で向かいました。

詳細は不明のようですが、南北朝時代に桃井直常らの軍勢が長沢へ出兵しており、この頃に利用されたのではないかと推測されています。
また佐々成政の家臣寺島牛之助が一時在城していたとも云われています。
少なくとも、1585年(天正13年)富山の役によって越中国が平定された後には、陣城としての存在価値を失い、廃城となったと思われるようです。

長沢城はこの西城と東城を併せた名称で、便宜上長沢西城とも呼ばれています。現在は遊歩道が整備されています。
長沢城にも長沢東城と同じで、所々に現在地表示のある案内板が設置されています。
本日の予定時間オーバを取り戻す為、説明板付近で引き返しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=富崎城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:長沢東城 (2022/07/30 訪問)

増山城からの転戦です。富山市婦中ふるさと自然公園駐車場(36.657737、137.114464)に駐車しました。

詳細は不明のようで、戦国時代に築かれたもので長沢城の家老屋敷とも云われています。

長沢東城は長沢城と谷を挟んだ東側に築かれています。
遊歩道が整備されていますが、長沢東城の入口まで、1Kmくらい歩くと東屋があり、「ここより300mほど先に長沢東城あり、また450m先に長沢西城あり」という案内表示があります。
あちこちに案内板が設置されており、しかも、縄張図に現在地が示されています。
本日の予定時間オーバを取り戻す為、説明板付近で引き返し長沢西城に向かいました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=長沢西城に向かいます。

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浅小井四郎長家 (2022/08/27 訪問)

 JR安土駅から徒歩にて登城しました。近いかと思っていましたが30分もかかってしまいました。皆さんが投稿されているように案内板は朽ちて説明が書いてあったと思われる所は剥がれてなくなっていました。遺構らしいものもなく、周辺の水路が堀跡という情報もありましたが、よくわかりませんでした。また30分かけて安土駅に戻りました。

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観音寺騒動 (2022/08/27 訪問)

 六角義弼(義治)に滅ぼされた六角氏の重臣後藤氏の館跡です。土塁、堀の一部、門跡の石垣、が残っています。ただ石垣も堀も草木のため見にくかった。
近江八幡駅南口から近江鉄道バスに乗り羽田西バス停にて下車。徒歩5分くらいで館跡に行くことができます。

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鯰江貞景 (2022/08/27 訪問)

 織田信長に追われた六角義賢、義治父子が一時期反抗の拠点にしたこともある城です。土塁などが一部残っています。案内板は鯰江バス停前、鯰江自治会館、鯰江農業集落排水処理施設の3カ所にあります。

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お鍋の方 (2022/08/27 訪問)

 八日市駅より近江鉄道バスに乗り紅葉橋北バス停にて下車。徒歩5分くらいで案内板まで行くことができます。石垣が残されているようですが、雑草が茂っていて隠されていました。周囲にも石垣はありますが、いつの時代のものか判断できません。

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ヒロケン

水面に映る天守閣 (2022/08/19 訪問)

岡山城付近には、旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘があり、その石山にあった城を手に入れて本拠地としたのが、戦国の梟雄と謳われた宇喜多直家公です。直家公の子である、宇喜多秀家公が岡山の丘に本丸を構え、今に残る岡山城を築きました。この岡山の丘の名が市名・県名となる礎となりました。その後、の城主となった小早川秀秋公・池田氏により城と城下町が整えられさらに拡張され今に至ります。

現在の岡山城の外観は戦時焼失した天守そのままに再建されています。また、国指定重要文化財に指定されている、月見櫓・西の丸に残る西手櫓が現存し、また、旭川を挟み日本三大名園の一つである後楽園があり、岡山市最大の観光スポットとして県内外からの観光客に親しまれています。

現在、岡山城は「令和の大改修」で工事中のため、岡山城の主郭部には入れません。令和3年6月1日以降~令和4年11月の予定です。皆さんの投稿で、入れないことは分っていましたが、主郭部全域とは思いもよらず、今回は天守の遠景のみで我慢しました。(*_*)
ただ、岡山の地は自身の故郷であり、18歳までを過ごした地で岡山城には何度訪れたか数え切れません。岡山城周辺を歩いて過去を懐かしみ、ほっとする時間を過ごすことが出来ました(*^▽^*)

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朝田 辰兵衛

トイレと本丸石垣… (2020/07/24 訪問)

見どころは「出丸石垣と熊野川の眺望」ですが,実際に訪れてみると「トイレと本丸石垣」も良いんじゃね…と思いました。ある意味,現代との融合…。
この日は,突如としてゲリラ豪雨が降るという,とんでもない天候でした。赤木城登城を取り止めての新宮城でしたが,それでもゆっくりできる状況ではありませんでした。

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赤い城

磯部館 茨城県桜川市 (2022/07/30 訪問)

磯部稲荷神社が館跡です。
詳細は不明ですが神社東側に二重の堀が残っています。
かつては堀が館跡を囲っていたと思われます。
神社の浦土塁も僅かに残っていました。
手軽に拝める二重堀、意外な穴場でした。
常陸に来たらこの時季お土産はメロン、シーズンは終盤ですが美味しかったです。

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