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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:高遠城の移築搦手門(長野県岡谷市) (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の15城目は高遠城の移築搦手門(長野県岡谷市)です。
花岡城から転戦。久保寺駐車場(36.043480、138.058848)に駐車しました。

有賀城に向かう途中なので、高遠城の移築搦手門を見学しました。
大手門は高遠城址(長野県伊那市)にありますが、搦手門は長野県岡谷市の久保寺に移築されています。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:花岡城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の14城目は花岡城です。
岡谷城から転戦。花岡公園駐車場(36.052460、138.0512)に駐車しました。

『諏訪旧跡年代記』によると、城主は目まぐるしく変わったようで、承久の頃(1219-21)は有賀四郎、応永年中(1394-1427)には有賀美濃入道性存の一子豊後の守、天文年中(1532-54)有賀備後守、その後浜氏になったといいます。
武田信繁が領し、板垣信方が湖尻の砦を構えたということは『箕輪記』にもあるらしい。
1567年(永禄10年)の『諏訪五拾騎面々』の中には、花岡藤兵衛の名があり、同氏は武田信玄に従っていたことが分るが、花岡城在住は不明です。
これより先、諏訪西方衆である花岡氏は1542年(天文11年)に諏訪に侵攻した武田信玄に臣従しましたが、1548年(天文17年)に信玄が「上田原の戦い」で村上義清に敗れると、花岡忠常も小笠原長時や藤沢頼親などに呼応して反乱を起こしています。
しかし武田軍に制圧されて、花岡城も落城し、そのまま廃城となったようです。

現在城址は「花山公園」として整備されており、土塁の遺構を確認することができます。また諏訪湖が一望できます。
攻城時間は15分くらいでした。

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肉球

赤い瓦と緑の瓦 (2021/06/24 訪問)

何度か訪れたことがある福井城ですが
山里口御門が復元されてからは初めてです。

小さな門ですがここだけで薄緑色した瓦と
枡形を囲う赤瓦と2種類の瓦を楽しめます。
笏谷石に狭間を加工し土塀に張られた部分や
円柱状に加工された瓦が目を引きました。
 

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赤い城

菅寺尾城 (2021/06/27 訪問)

横浜の寺尾城と区別するため菅寺尾城とも呼ばれています。
寺尾台団地になっていて遺構はほとんど残っていません。
城址にあたる部分は遊歩道になっています。
曲輪や空堀の跡っぽい部分が残っていました。
諏訪氏一族の寺尾氏よって築かれ、戦国期には北条氏の配下となりました。

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にのまる

【お城川柳】

陸の孤城難攻すぎてギガなくす

ただの迷子

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イオ

【お城川柳】

在りし日に 思いをはせる 城の跡

物理的存在としての城ももちろん好きなんですが、自分がよく知る歴史(思い入れがあればなお良し)の舞台となった城では、まさにこの地に信長が、長政とお市の方が、大谷刑部がいたんだなぁ…などと、往時に思いをはせるのも大きな楽しみになっています。

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肉球

北ノ庄城 福井県福井市 (2021/06/24 訪問)

福井城見学したあと柴田神社に向かう途中の歩道脇に
福井城百間堀の石垣の一部が窓越しに覗くことができるところがありました。
窓が汚れていてよく見えませんでしたが。
20数年ぶりに訪れましたが社殿も建て替えられ綺麗に整備され
福井城の日向門石垣や北ノ庄城の石垣一部など
以前にはなかったものが見学できました。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県岡谷市)岡谷城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の13城目は岡谷城です。
高山城から転戦。花見ヶ丘児童遊園地駐車場入口(36.060745、138.042333)から入り、駐車しました。

築城時期など不明であり、城主としては大熊城と同じく、上社大祝家の一門・千野氏と云わっているそうです。

明確な遺構は見つけられませんでした。公園と墓地です。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県塩尻市)高山城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の12城目は高山城です。
北熊井城から転戦。通行止め橋付近路肩(36.114855、137.984402)に駐車しました。

史実は不明。花岡城に行く途中で寄ってみましたが、曲輪が見れるくらいですね。
橋前で工事中。橋を渡っていいか確認して攻城。橋前の交通量は多いです。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県塩尻市)北熊井城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の11城目は北熊井城です。
高島城(常光寺山門)から転戦。北熊井城説明板前(36.129828、137.982265)に着きました。

北熊井城の築城時期は不明ですが、埴原牧の別当から武士になった村井氏が築城したとされます。
戦国時代には小笠原氏の家臣の城であったと考えられるが、「塩尻峠の合戦」で小笠原長時が武田信玄に大敗を喫すると、ほぼ同時期に落城し、武田家によって改修されたと考えられています。
その結果、1万程度でも収容できる城となり、恐らく松本侵攻への拠点にも一時なったものと推測できるようです。
高白斎記によると1545年6月15日頃に、熊野井の城が自落とあるので、武田勢の侵攻の際に、降伏したと考えられています。
現在城址には土塁や堀切が残っており、とくに本丸東側に設けられた三重堀切は良好な状態で保存されています。

歩きやすい平山城で、耕作地に囲まれていますが、深い空堀が非常に良く残っており、見応えがあります。
北熊井城は本城の他、東1~東2、竹の花、西1~西3で構成されていますが、右ひざ痛の為、本城付近の見学だけしました。チラシや杖なども用意されてます。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:高島城(常光寺山門 移築門) (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の10城目は高島城(常光寺山門 移築門)です。
赤木北城から転戦。常光寺駐車場(36.133598、137.978986)に駐車し、常光寺山門(高島城の移築門)を見学しました。

高島城自体は長野県諏訪市にありますが、ここ常光寺(長野県塩尻市)山門は高島城から移築されたものです。
北熊井城に行くついでに寄ってみました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県塩尻市)赤木北城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の9城目は赤木北城です。
埴原城から転戦。城址入口の空スペース(36.162879、137.972080)に駐車しました。

戦国時代、小笠原氏の城として赤木氏により赤木南城と共に使用されたと考えられています。

攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:埴原城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の8城目は埴原城です。
水番城から転戦。蓮寺華・埴原城駐車場(36.187055、138.008412)に駐車し、獣除けフェンス(36.188080、138.010250)まで200mくらいでした。

埴原城は信濃国の守護・小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)が拠った城で、埴原勅旨牧(御牧)が荘園化された頃(鎌倉時代)に牧場地帯から 西の松本盆地の南部に下り、村井に館(小屋城)を構えて村井氏を称したようです。
その頃に要害城として埴原城を構えたのが この城の始まりとされています。
室町時代に小笠原氏が信濃守護職として入部した為、その支配下に入りました。
戦国時代に入ると甲斐の武田氏が 信濃に侵攻を始め、小笠原氏は本城の林城の南にある埴原城の整備強化をはかりました。
1548年(天文17年)塩尻峠の戦いの後、1550年(天文19年)武田晴信により真っ先に攻撃され落城しました。
この後、林城など小笠原氏の諸城は続々と落城し、信濃守護小笠原氏はこの地を追われることになります。
武田氏滅亡後、小笠原長時の三男である小笠原貞慶が徳川家康の支援を得て深志城などを奪還した際にこの城も取り戻して改修しています。
現在城址には石垣や土塁、畝状竪堀群などの遺構を確認することができます。

主郭より各尾根に遺構が残る大きな山城で城域が広すぎます。若干の右ひざ痛が残る中、90分かけて攻城しましたが半分も見学できていないと思います。
主郭付近は石積も良好に残っていますが、登城路にマウンテンバイク跡が残っていたのには驚きました。
攻城時間は90分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】

蜘蛛の巣をリンボーダンスでくぐり抜け

ぎっくり腰注意

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にのまる

【お城川柳】

見覚えのある道毎回迷う道

記憶にある道を通って同じ間違いを繰り返す。

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にのまる

【お城川柳】

街なかの工事現場に反応し

城跡の発掘か?

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フーマー

お城川柳

復活を祝し開けてる球磨焼酎

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小城小次郎

七夕の日に (2021/05/02 訪問)

永禄11年の七夕の日、浦上氏と勢力を二分する力を持っていた金川城の松田元賢とその父元輝は舅の宇喜多直家によって葬り去られたという。

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赤い城

生田緑地 (2021/06/27 訪問)

向ヶ丘遊園駅から徒歩で15分。
生田緑地の中、枡形山の頂上部にあります。
明確に残っている遺稿はありませんが西の冠木門から進むと堀切の跡。
埋められていて何となくの地形を感じることしかできません。
主郭部には微妙な展望台の他、遊具などもあり地元の方の憩いの場になっているようです。
扇谷上杉氏と山内上杉氏の戦いの中で北条早雲が入城した城。
今では戦があった地とは思えない感じでした。

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キンヤ

林通勝の先祖である越智氏の今は小学校に石碑がある城 (2021/06/21 訪問)

織田家重臣の林通勝の先祖である越智氏の城で、今は金城小学校の敷地になっています。

平日に行き、小学生の下校時間を見計らって、インターホンで職員室に問い合わせると、先生が出て来て下さり、校庭に入らせて頂き、石碑を撮影できて感謝です。
林泉寺跡とある左に小さく旧田幡城址と刻まれてます。
林泉寺は今は小学校の北東側に移転しています。

石碑を見学する場合、場所は校庭内の東側にあり、小学校が休みの時や生徒がいる時は厳しいと思われますので、注意が必要です。

石碑の隣に、清正橋の石もありました。
調べると、小牧市にあった石橋で、名古屋城築城にあたり、岩崎山から石材が切り出され運ばれる際に加藤清正が命じて作らせたという言い伝えから、清正橋とも呼ばれるそうです。
しかし、何故ここにその石があるかは、すみませんが分かりません。

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