庄城からの転戦です。登り口案内板前(36.617761、137.031933)に路駐しました。
長禄年間(1457~60年) 後花園院皇子・淳良親王が安川に滞在したときに、黒田太左衛門尉を般若野荘の荘官に任命しましたが、太左衛門尉は横暴を振るい悪党を従え安川城に籠ったといいます。
ただし、淳良親王は伝承上の人物です。当時、般若野荘を治めていたのは公家の徳大寺実淳であり、荘園経営の立て直しのため1474年(文明6年)に同地に下向しています。
また、実淳の孫・実通は、1541年(天文10年) 同地を視察中に殺害されました。背景には荘園の領主と地頭の対立があり、それが越中古城記の伝承となったと考えられます。
別の記録では、太左衛門尉は長尾為景によって落命したといいます。これらの伝承から、安川城は鬼ヶ城とも呼ばれてきました。
安川城の登り口に案内板があります。安川城到着予定時間が30分遅れの為、登城を諦め登り口で引き返しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=増山城に向かいます。
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