みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:切山城 (2022/07/30 訪問)

宿泊先のホテルルートイン美川インターから、国道304号線の堀切町方面進入口(36.596952、136.742641)から進入し、この地点(36.603491、136.748303)から林道に進入しました。
林道を進むと案内板(36.601145、136.745908)があり、付近に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)に築かれたと云われ、城主は不破彦三直光と伝えられています。

東側と西側から林道があるようですが、東の林道が舗装されており距離も短いという事前情報より、東側の林道から進入しました。
主郭は土塁が巡っており、東側と西側に虎口があり、東側の虎口には土橋があります。
主郭の北側と西側に堀切、東側に竪堀が確認できます。
写真はたくさん撮りましたが、ピンボケ写真が多く、とても投稿できません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=松根城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

肉球

一回りしてみました (2022/08/23 訪問)

大半が河川工事のため消滅しています。が
諏訪曲輪には武家屋敷が残り土塁を確認することが出来ます。
町中にあるお休み処坂長に袖蔵と文庫蔵があり、どちらも中を見学することが出来ます。
画像掲載していませんが福法寺に古河城乾門、正定寺には古河藩江戸下屋敷表門が移築されています。 
お城北西部にあたる観音寺曲輪の土塁も頼政神社付近で確認できます。
ここから本丸跡の案内板まで土手を歩きましたが結構遠く感じました。
案内板の縄張り図を見ると土手脇に建つ住宅は三の丸の東端になるのではと希望的な観測。
そのほか桜町曲輪の獅子ヶ崎土塁、その向かいにある長屋門が見どころです。
加須市内の民家に裏門が移築されていますが道路から撮りました。裏門とはどこの門かは?です。
無料の駐車場も歴史博物館付近にあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

なるほど古いのかも (2022/02/23 訪問)

松平氏初代・親氏による築城との伝承も残り松平郷城館群として国史跡にも指定された古いお城。現地に立った際の直観ではあまり古くは見えなかったが文章をまとめているうちになるほどたしかに古いかもという気持ちになってきた。

+ 続きを読む

赤い城

新善光寺と龍泉院 (2022/07/30 訪問)

城跡はほとんどが畑や住宅地になっています。
新善光寺に説明板が立っています。
お寺の前に小川が流れています。
堀だったのでしょうか。
奥の墓地の外側には堀も残ります。
場所を移動し龍泉院。
この辺りが主郭だったのでしょうか。
ここの墓地横にも堀と土塁が残ります。
時期的に藪でしたが。
小貝川と観音川に挟まれた常陸名物湿地帯の城。
結城成朝が築きましたが戦国時代には結城氏と小田氏が争いました。
周辺を歩くと他にも遺構があるかもしれませんね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

ゆるやかコースで。 (2020/08/08 訪問)

この日は体調が悪く,かなり体が重く感じました。登城道はゴツゴツとした岩場が多いということもあり,ゆるやかコースをチョイス。
眺望のことを考えると,もう少し天候が良ければ…って思いました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

Red☆53

残る空堀見事! (2022/08/20 訪問)

コロナ禍…久しぶりに人出の少なそうな城(失礼)を選んで出かけてみました。

本丸跡が城址公園になっています。土塁や堀などの遺構が見事に残っていて見応えがあります。二の丸跡には「さくら市ミュージアム」があります。
ただ…残念ながら「さくら市ミュージアム」は9月16日(金)まで休館です(訪ねられる方、ご注意ください)。
入館できずとても残念でした。
この時期、防虫剤をお忘れなく🤗
林の中ですから虫が多いです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

肉球

礼羽館・設楽氏陣屋 埼玉県加須市礼羽 (2022/08/23 訪問)

城びと未登録の伝承地です。
住宅街に建つ伝承礼羽館の標柱には
吾妻鏡によると建保元年(1213年)五月二日に和田義盛が挙兵し鎌倉幕府を襲撃しました。義盛の三男義秀の乱入を防ごうとして義秀に討たれた武士の中に礼羽氏の礼羽蓮乗の名がみえます。礼羽には番場、早道場、沖坊など礼羽氏に関する地名がみられます。このあたりには礼羽氏の館があったとされるところと古くからの言い伝えられています。礼羽氏が館を構えたのでその地名がついたのか地名をとってその姓にしたのかは不明ですが礼羽氏とこの地は深い関わりがあります。
と記されています。
礼羽氏の標柱から東へ30メートルのところには設楽氏の陣屋跡の標柱があり
約400年前、徳川家康に従って江戸入りをした旗本、設楽甚三郎貞清は、加須・礼羽・馬内・戸崎の旧四ヶ村を賜りました。低湿地だった旧四ヶ村は文禄三年(1594)に利根川を東に流す大工事の結果、水田として開発され以降、明治になるまで設楽家の知行地となっていました。設楽家は江戸に屋敷を持ち、年貢徴収などの領地支配のため、加須のこの地に陣屋を置きました。設楽家累代の墓地は市内馬内の香積寺にあります。
と記されています。
どちらも伝承とされていますので確定された場所ではないようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

おっちゃん

小浜宿歴史散策マップ (2017/07/30 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

首里城公園総合案内図 (2014/06/29 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

座喜味城跡公園案内図 (2014/06/29 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

肉球

住宅と工場と化しています (2022/08/23 訪問)

お城の北東部にあった郭部分に古城天満宮が建てられているだけで
ほとんどが住宅と工場になって遺構の確認はできませんでした。
羽生城は江戸時代初期に廃城となっていましたが幕末になり
古城天満宮の西300メートルくらいの所にある高山稲荷神社の付近に
幕府の陣屋が築かれましたが官軍に攻められ一年ほどで消滅。
こちらも住宅街となっています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

とことん江戸城(北町奉行所) (2022/06/23 訪問)

北町奉行所は、江戸期の大半を南町との月番交代で江戸町方の行政と司法を担った幕府の機関で、江戸後期に呉服橋門内に設けられて明治まで続きました。

跡地は東京駅と丸の内トラストタワー本館になっていて地表面に遺構は見られませんが、発掘調査で上水道や井戸、石組下水溝が発見されています。丸の内トラストタワーN館の南東隅には北町奉行所跡の説明板があり、発掘された石組下水溝が移設復原されています。発掘された石組下水溝は奉行所の北東隅にあたるため、鬼門除けとして隅落としされた状態のまま移設されています。また、東京駅八重洲北口付近にも北町奉行所跡の説明板があり、なぜこの位置に? と疑問に思いましたが、グラントウキョウの整備に伴って現在地に移設されたようです。

ところで、南町奉行が大岡越前なら北町奉行は遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元です。時代劇の影響で北町奉行として知られますが、後に南町奉行も務めており、お白州で桜吹雪…ではなくても、やはり名奉行だったんでしょうね。菊川駅の近くに鬼平こと長谷川平蔵も住んでいた南町奉行の頃の役宅があるようなので、いつか行ってみたいものです。
 

+ 続きを読む

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:藤島城 (2022/07/29 訪問)

波多野城からの転戦です。西超勝寺前の駐車場(36.089691、136.272011)に駐車しました。
山門前(36.089784、136.271488)の城碑と説明板は確認しましたが、寺の北側にある土塁を確認し忘れました。

築城年代は定かではないようです。 藤島城は近接する林城としばしば混同されるようですが、足羽七城(小黒丸城、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城)の一つだそうです。
1338年(延元3年・建武5年)南朝方杣山城の新田義貞が、北朝方の足利高経が籠る府中を攻め落とすと、高経は足羽へ逃れました。
新田方は河合城に三万余騎の軍勢を集め、軍勢を分けて足羽七城を攻めたてます。
この時新田義貞は北朝方へ寝返った平泉寺衆徒の籠る藤島城攻めの加勢にが向かったが、途中小黒丸城から藤島城へ援軍に向かっていた足利方と遭遇し、燈明寺畷で義貞は討死しました。(藤島の戦い)

攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:波多野城 (2022/07/29 訪問)

勝山城からの転戦です。城山登山駐車場(36.087736、136.342007)に駐車しました。駐車場に案内板がありました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代初頭、承久の乱の戦功により、志比庄の地頭を賜った波多野義重が相模より移り、領地監視のため築いたとされます。
波多野氏は相模国波多野荘を出自とし、波多野義重が越前国志比庄地頭職として下向したのが始まりのようです。
その後、波多野氏が数代にわたって、城山を使用しました。戦国時代には朝倉氏に従い、1573年(天正元年)織田信長の朝倉氏討伐後に廃城となりました。

波多野城は説明板によると標高473.8mの城山に築かれており、現在は登山道が整備されています。
駐車場から林道を2.3Kmくらい(結構長いです)熊よけ鈴を鳴らしながら歩くと林道終点に登り口があり、柵、説明板が建てられています。
登り口から急坂を登って行くと西尾根に着きます。
西尾根を歩いて行くと堀切が見え、右手に畝状阻塁(腰曲輪の平場に形成されたものなので、畝状竪堀ではなく畝状阻塁というそうです)が確認できます。ただ埋まっていて深くはありません。
北側に3郭、堀切を挟んで主郭(3段になっています)。ここに波多野城の城址標柱が立てられています。
主郭の北東側に堀切と畝状竪堀、北西側にも堀切が確認できます。
主郭から南側に続く尾根を進むと2郭に着きます。2郭東側に畝状竪堀、南東側に堀切、南側に畝状竪堀が確認できます。
非常に整備されており、とても見学し易い城跡です。(写真をたくさん撮りましたが10枚に絞り込みました)
攻城時間は75分くらいでした。次の攻城先=藤島城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:勝山城 (2022/07/29 訪問)

小山城からの転戦です。勝山市役所駐車場(36.060831、136.499889)に駐車し城碑を確認した後、勝山城博物館(36.044034、136.519991)に向かい模擬天守を確認しました。

1580年(天正8年)柴田勝家の一族である柴田勝安によって築かれました。
柴田氏が羽柴氏によって滅ぼされると成田重政、長谷川秀一と替わりました。
江戸時代に入ると、1601年(慶長6年)福井に封じられた結城秀康の支配となりましたが、1624年(寛永元年)松平直基が30,000石で封じられ、勝山藩の藩庁が置かれました。
その後、松平直良が入りますが、1644年(正保元年)直良が移封されると廃城となり、勝山の地は一時期、天領となりました。 
1691年(元禄4年)美濃国高須から小笠原貞信が22,000石で入封し、以後明治維新まで小笠原氏8代がこの地を治めました。

1709年(宝永6年)2代信辰の時、城址への築城許可が下り、本丸の普請が開始しましたが、財政上普請は中断しました。
60年後の1770年(明和7年)5代信房の時再開され、二ノ丸を築き藩主の御殿をそこに移設し、7代藩主小笠原長貴の代に完成しました。
1822年(文政5年)本丸より出火し、門、高塀、土蔵を残して焼失しましたが、1826年(文政9年)に再建されます。
8代長守の時、明治維新となり1871年(明治4年)廃城となった後、城の建物は取り壊され天守台と堀の一部を残し埋め立てられました。

案内板と石碑は勝山市民会館前の庭にあります。
姫路城に似た日本一の高さの模擬天守を持つ勝山城博物館は、相互タクシーの創業者・多田清氏により平成4年に建てられました。
この模擬天守は歴史上の勝山城とは位置・形式ともに関係はないそうですが、模擬天守前面に水堀が掘られています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=波多野城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:小山城 (2022/07/29 訪問)

亥山城からの転戦です。木道登り口付近(35.966059、136.523947)に路駐しました。

築城時期は定かでないようですが、応仁の乱(1467年~77年)頃、斯波義敏と斯波氏家督を争った越前守護・斯波義廉により築かれ、家臣二宮将監を守将としたそうです。

木道を登り左(南)に行くと尾根に出ます。北西側に進むと二郭手前に堀切、さらに進むと二郭先に二重堀切があります。
戻って、左に登ると長径50mほどの広く楕円形の主郭があり、主郭南側に低い土塁があります。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=勝山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:亥山城 (2022/07/29 訪問)

越前大野城からの転戦です。日吉神社駐車場(35.983708、136.492916)に駐車しました。

土橋庄と呼ばれた当地に、南北朝時代、南朝方の堀口氏政により築城されました。 
元亀・天正(1570~92年)頃、朝倉景鏡、杉浦壱岐、原彦次郎、二宮左近が当城に拠っていました。

現在城址は日吉神社境内となっています。
遺構かどうかわかりませんが、日吉神社西側に幅20m程の水堀があります。
小山城に向かう途中に、大野市役所の西側に朝倉義景の墓(義景公園P(35.980550、136.485522))に行ってみました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=小山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:越前大野城 (2022/07/29 訪問)

戌山城からの転戦です。搦手門側にある南第一駐車場(35.984633、136.4836)に駐車しました。
越前大野城は2回目の攻城です。前回(2017/11/04)は次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城2日間」で来ました。

前回は、越前大野城攻城前の一乗谷城でカメラを落としカメラが使用できなくなり、スマホの写真だけになってしまったので、今回はリベンジを含めての再攻城です。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=亥山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:戌山城 (2022/07/29 訪問)

伊自良氏館からの転戦です。伊自良氏館から当初予定したルートは通行止めになっていた為、迂回ルートを捜してみくら清水口付近(35.98519、136.46863)に着きました。
当初予定したルートでは17~18分で着くところ、35分かかってしまいました。

室町時代、幕府の重臣(管領)斯波氏の一族斯波義種により築かれました。
3代目城主斯波持種の子義敏と義廉との家督争いに端を発した斯波氏の内紛に乗じ、朝倉氏に攻め落され、一族の朝倉下野守経景の居城となりました。
1573年(天正元年)朝倉氏滅亡後、織田信長の武将金森長近の城となり、1577年(天正4年)大野城を築くまで、越前美濃の国境の要として重要視されました。

みくら清水口(城内の飲料にされたと伝わります)の登山道入口から登りました。説明案内板が建てられています。
主郭から三方(北西側、北東側、南側)に伸びる尾根に曲輪を配しています。
北東側の大きな堀切には階段やロープが設置されていました。北西側と南側には時間の都合で行っていないのでわかりません。
堀切のオンパレードと畝状竪堀があり、堀切好きの自分は大満足です。(投稿写真を10枚に絞り込むのが難しいです)
主郭から越前大野城の天守が見えると言われていましたが、生い茂る木や草に邪魔されて見えませんでした。(見る方向は間違っていないと思いますが?)
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=越前大野城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:伊自良氏館 (2022/07/29 訪問)

成願寺城からの転戦です。伊自良温泉駐車場(35.957311、136.421717)に駐車しました。
そこから歩いて、伊自良いやしの里(35.957130、136.420968)に向かいました。

詳細は定かではないようですが、鎌倉時代から活躍した伊自良氏の館で、戦国時代は朝倉氏に従い、その後大野城の金森長近に仕え、江戸時代には大野へ移り加藤宗月(依田康勝)に従ったようです。

かみあしみがわの川沿にある土塁が遺構?と思います。
伊自良いやしの里は現在は閉館中です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=戌山城に向かいます。

+ 続きを読む

ページ727