(17人目)「本多忠勝」の続きです。
関ケ原当時の居城は「大多喜城」でしたが、今回は関ケ原後の居城「桑名城」を訪れてきました。
本多忠勝は関ケ原の戦効で、従来の大多喜5万石に加え新たに桑名10万石が与えられ、1601年に長男の忠政とともに桑名城に入ります。そこで忠政に家督を譲りここで隠居しました(大多喜5万石は次男の忠朝が継ぎます)。そして4重6階の天守と51基の櫓が立ち、城下町もこの時整備され、桑名は城下町・宿場町として繁栄したそうです。
現在の桑名城跡は九華公園として整備され、市民の憩いの場となっていました(写真③④⑤)。桑名駅から長島温泉方面行のバスに乗り7分、九華公園入口に着くと、本多忠勝の像が出迎えてくれます(写真①②:忠勝様~! 迫力満点です)。天守は1701年に焼失、他の櫓も明治時代に焼き払われたため残っていませんが、唯一城の北側(三の丸)に、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が再現されていました。蟠龍とはすわっている龍の事で、航海の安全を願うという意味があるそうです。ここには、東海道「七里の渡し」があるので、その監視と安全を願って建てられたものと思われます。(写真⑥⑦⑧⑨)
桑名に入って隠居した忠勝は、関ケ原から10年後の1610年に享年63才で没したそうです。家康を守り抜く事に40年間命をかけた忠勝ですが、結局最後は家康より6年早く死んでしまいました。これも何か皮肉なものです。今の「どうする家康」の雰囲気からは想像がつきません🤔。
私はこの蟠龍櫓に立ち、七里の渡し(揖斐川・木曾川)を眺めてみました(写真⑩)。晩年をここ桑名で過ごした忠勝は、桑名城天守から同じようにこの景色を眺め、どのような思いで家康を守り抜いた40年間を振り返っていたのでしょうか? 自分が命をかけて守り抜いた男が天下を取ったのを見届け、きっと自分の人生に満足していたのではないでしょうか?・・・
ここ桑名城は「千姫」ゆかりの地でもあります。
次は話が関ケ原からちょっとそれますが、余談(千姫物語)へ続きます。
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