現地案内板より抜粋
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2022/08/22 22:34
義統期の大友館の様子 (2017/04/22 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/08/22 22:30
大野城跡全体図 (2017/12/03 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/08/22 21:29
市街地一帯が城域 (2022/07/30 訪問)
下妻市役所に車を置かせてもらい、道路を渡ると城址公園があります。
城址公園には石碑と説明板が立っていました。
この辺りに遺構はありません。
現在の市街地一帯が城域で当時は沼沢地に造られたようです。
常陸の平城は湿地に造られたところがいくつかありますね。
特徴の一つでしょうか。
周辺も少し歩いてみましたが明確な遺構にたどり着くことはできませんでした。
探せば土塁が残っているとの話もあるようです。
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2022/08/22 20:32
遺構はわずかだが見所は多い (2022/08/09 訪問)
鶴岡公園西駐車場に駐輪しましたが他にも無料駐車場がいくつか用意されています。
現在本丸は鶴岡公園となっており、大寶館,藤沢周平記念館,荘内神社および護国神社が置かれています。
遺構は堀,石垣,土塁,櫓跡がわずかに残る程度であまりありません。
ただ、藩校である致道館は建物がかなり残されていますし、致道博物館でも貴重な建物や資料が見ることができます。
見所は多く、所要時間は3時間かかりました。
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2022/08/22 18:25
石垣を最大限に使った日本三大山城 岩村城🏯 (2022/03/20 訪問)
遺構度 ★★★★☆ 復元度 ★★☆☆☆
施設充実度 ★★★★★ お勧め度 ★★★★★
日本三大山城でもあり、女城主の里としても知られる岩村城に行ってきました!
標高がある山城なのにも関わらず、石垣をふんだんに使用しており、本丸はもちろん、門の石垣や櫓台が途中にも多く見られました。
苗木城、美濃金山城とともに訪れることをおすすめします。
【歴史】
鎌倉幕府時代に遠山氏によって築かれ、戦国時代まで統治し続けた。戦国時代になると織田、徳川、武田によって争奪戦が繰り広げられた。
遠山氏の養子として織田信長は5男の勝長を送り、その叔母であるおつやの方がおんな城主として采配を振るった。その後武田信玄の猛攻により、おつやの方が武田の家臣と結婚するという条件で降伏するも、信長は長篠の戦いで弱った武田軍から岩村城を奪還した。
以後、城主はコロコロと変わったものの、明治時代に廃城令が出されるまで存続した。
【遺構】
やはり一番の見所は本丸の六段壁などの石垣です。六段壁は石垣を補強するために作った石垣が積まれたものだそうで補強のためにここまでの石垣を作ってしまうのだからすごいなと思いました。一段だけでも圧巻ですが、六段もあると言葉が出ないです笑六段壁以外の場所にも石垣が用いられている他、空堀や土塁なども見ることが出来ます。
また藩主邸跡には正門、太鼓櫓などが復元されています。
城下町も残っており、江戸の町並みを楽しむことが出来ます。NHK朝ドラ「半分、青い。」のロケ地にもなっています。
【施設】
岩村城の登山道の入り口に岩村歴史資料館、民俗資料館があり、岩村城や岩村の町について知ることが出来ます。岩村城の絵図なども見ることが出来、勉強になりました。
2022.3.20現在 登山道の途中で石垣崩落の影響?により、足場の悪い不安定な階段を登る場所があるため、小さい子供連れの方や足が不自由な方は厳しいかもしれないです。
【インフォメーション】
●24時間営業(山城のみ)
100名城スタンプ:岩村歴史資料館受付窓口
[開館時間]
(4月~11月)9:00~17:00
(12月~3月)9:30~16:00
[入場料]
(民俗資料館と共通)
一般:300円
シルバー(65歳以上):200円
高校生以下:無料
[休館日]
月曜日(祭日と重なった場合は翌日)
年末年始
御城印販売場所:まち並みふれあいの舘(岩村城下町内)
[開館時間]
9:00~16:00
駐車場:あり
所要時間:1時間30分
トイレ:あり
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2022/08/22 17:36
難攻不落 天下の名城 (2022/08/16 訪問)
難攻不落の名城である、小田原城に行ってきました
この城は、大森氏によって築かれた城です。
しかし、二代目の大森藤頼の時に、伊勢宗瑞(北条早雲)によって落とされました。
そして大改修され、山を利用した城となりました。
それが八幡山を主郭とした小田原古城です。
ここからは細かく説明していきます。
《大森氏と勢子の計》
この城は大森頼春によって築城された城です。
大森氏は、大森頼春の代に台頭しました。
一時期は伊豆、相模西部を支配し、この小田原城を本城にしました。
しかし、三代目となる藤頼の代に伊勢宗瑞の策略である
勢子の計という、鹿が小田原城の裏山に入ったと嘘の文を送り
小田原城の裏から奇襲を掛ける作戦にはまり、小田原城を奪われ
小田原城は大森氏から伊勢氏(ここからは北条氏とします)にわたりました
次の文は、少し後に書くので、ご了承下さい
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2022/08/22 14:34
2022/08/22 13:27
2022夏の青春18キップ8日目:将軍山城 (2022/07/27 訪問)
中尾城から徒歩25分くらいで、京都トレイル(バプテスト病院)(35.034230、135.797047)に着きました。
1520年(永正17年)管領・細川高国は、近江守護六角定頼、丹波守護代内藤貞正の援軍を得て、築城し陣を構えます。
桂川原の戦いで高国が再び近江へ逃亡すると、将軍山城は六角定頼の援助のもと被官内藤彦七が城主となっていました。
大物崩れで、1531年(享禄4年)に高国が自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元軍に奪取されました。
1546年(天文15年)将軍足利義晴が細川晴元と対立するようになると、義晴は北白川城を大改修しました。
1547年(天文16年)3月、足利義晴は征夷大将軍を子・義輝に譲り自らは大御所となり、細川晴元を討つために洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城します。
しかし、細川晴元の家臣三好長慶軍が同年7月12日、相国寺に2万の軍勢で陣を張り周辺地域を焼き討ち。同月19日、足利軍は将軍山城を自焼させ、義晴・義輝父子は近江坂本へ脱出しました。
1561年(永禄4年)六角義賢が畠山高政と組んで京へ出陣し、家臣永原重澄を将軍山城へ入れましたが、三好方は松永久秀が将軍山城を攻め、守将永原重澄を討ち取りました。
その後幕府は軍勢の拠点を中尾城、霊山城へ移した為、将軍山城は部分的にしか使用されなかったようです。
1570年(元亀元年)9月から11月まで志賀の陣(織田信長と浅井・朝倉が対峙)となり、明智光秀がこの城に入って数カ月延暦寺を牽制しますが、織田信長の京都支配が確立すると、その軍事的意義を失って廃城になったそうです。
通常は狸谷山不動尊から登るようですが、バプテスト病院前の道から登るのが最短コースのようなので、こちらから登る予定でしたが、天候不順で雷が鳴っており登城せず登城口で引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。その後、明日の攻城先=東山霊山城を目指す為、バスと電車で本日の宿泊先がある祇園四条駅に向かいました。
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2022/08/22 13:23
思い立って高遠 (2022/08/21 訪問)
新大阪ー名古屋(新幹線)6:00ー6:48
名古屋ー伊那バスセンター(名鉄バス、高速バス)7:30ー10:30
伊那バスセンターー高遠駅(路線バス)10:45ー11:08
城公園徘徊後、松本(宿泊地へ)
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2022/08/22 13:23
2022夏の青春18キップ8日目:中尾城 (2022/07/27 訪問)
船岡山城からの転戦ですが、折角なので銀閣寺を見学した後、銀閣寺から徒歩5分ちょっとで、「嗚呼中尾城」看板前登城口(35.027939、135.799243)に着きました。
1549年(天文18年)足利義晴によって築かれたと云われています。
室町幕府12代将軍足利義晴が、京への復帰を目論んで慈照寺(銀閣寺)の裏山に築いた城が、中尾城と考えられているようです。
築城翌年の1550年(天文19年)に義晴が病死すると、子の足利義輝が細川晴元とともに入城しますが、1550年(天文19年)に三好長慶によって攻められ自焼して落城しました。
その後、三好軍によって破却されたそうです。
この城は二重の壁の間に石を詰めたことが『穴太記』に記されており、これが鉄砲対策と考えられていて、文献でわかる最古の事例とされているそうです。
登城路の目印「嗚呼中尾城」の看板を捜しましたが見つかりません。
あとで確認しましたが、GPS座標はあっていると思います。しかし、自分は見つけることはできず登城を断念しました。
中尾城攻城前に見学した銀閣寺の写真を投稿します。
攻城時間の15分は登城路の目印「嗚呼中尾城」の看板を捜した時間です。次の攻城先=将軍山城へ徒歩で向かいます。
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2022/08/22 13:15
2022夏の青春18キップ8日目:船岡山城 (2022/07/27 訪問)
御土居から15分くらい歩いて、公園中腹トイレ(35.039444、135.742521)に着きました。
1467年(応仁元年)山名宗全によって築かれました。
応仁の乱で西軍山名氏が北方の要所として築いたが、1468年(応仁2年)東軍細川勝元が攻めよせ、火をかけて落とし、守将小鴨安芸守ら五十余名が討ち死にしたそうです。
その後は東西両軍とも利用しなかったため、廃城となっています。
山全体が公園となっており、遺構らしきものは、公園中腹あたりの公衆トイレ付近に見られる堀跡くらいでしょうか。
1875年(明治8年)創建の建勲神社には「本能寺の変」で討死した織田信長が主祭神として祀られており、信長に関連する御朱印も豊富に揃っていましたが、集めていないので横目で見るだけです。
途中から雨が降りはじめ、遠くで雷も聞こえてきたので早めに撤退です。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=中尾城を攻城する為、千本北大路/京都市営バス停➡銀閣寺道/京都市営バス停にバスで向かい、まずは銀閣寺を見学します。
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2022/08/22 13:09
2022夏の青春18キップ8日目:御土居 (2022/07/27 訪問)
小泉城からの転戦ですが、折角なので金閣寺を見学した後、金閣寺参道入口から徒歩20分ちょっとで、鷹ヶ峯石碑説明板前(35.049889、135.735154)に着きました。
そこから5分ちょっと歩いて、鷹ヶ峯南入口(35.045816、135.736212)に着きました。
御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,築いた土塁です。
御土居の建造が始まったのは1591年(天正19年)の1月から閏1月(太陰暦)ごろで、同年の3月ごろにはほぼ完成していたそうです。
豊臣政権が崩壊すると、道路を分断していた部分の御土居が取り壊され、多くの出入口が設けられていました。
例えば現在の四条河原町付近で四条通を塞いでいた部分は、1601年(慶長6年)に撤去されています。
また市街地東部では、木屋町、先斗町など御土居の東側の鴨川河原まで町が広がり、1670年(寛文10年)に寛文新堤が完成して堤防としての必要もなくなったため、御土居は寺社や公家に払い下げられ、取り壊されて住宅地などになったそうです。
ただし、これらを除く部分の御土居は多くが残り、幕府によって竹林として管理されていて、江戸時代中期には角倉家(すみのくらけ)が管理を担当していました。
御土居は取り壊されるだけとは限らず、移築されることもあったようで、1641年(寛永18年)に始まる東本願寺の新たな寺内町の開発に伴い、御土居は高瀬川とともに東側に移されました。
枳殻邸(渉成園)の築山の位置は移築前の御土居に重なるため、土塁を再利用したと考えられているようです。
御土居の延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれたようです。
土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残だそうです。
現在9箇所(紫竹、盧山寺、西ノ京、北野、平野、紫野、鷹ヶ峯(北区旧土居町3)、鷹ヶ峯(北区旧土居町2)、大宮)が指定地となっています。
全ての御土居を巡る時間はありませんので、今回は鷹ヶ峯2か所だけを見学しましたが、柵があって近づけないようになっているので、構造などはよく分かりません。
御土居攻城前に見学した金閣寺の写真も併せて投稿します。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=船岡山城へ徒歩で向かいます。
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2022/08/22 13:01
2022夏の青春18キップ8日目:小泉城 (2022/07/27 訪問)
革嶋城からの転戦です。西院駅から徒歩4~5分くらいで、西院春日神社入口付近(35.004752、135.730118)に着きました。
築城時期は不明のようですが、小泉氏代々の居城です。
天文年間(1532年~1555年)の京の様子を描いたとされる『上杉本洛中洛外図屏風』に「さいのしろ」として描かれており、城主に「小泉秀清」の名が確認できるようです。
1550年(天文19年)に細川晴元が小泉城を攻めたことが『言継卿記』に記されており、三好氏の京における拠点として機能していたようです。
1552年(天文21年)に細川晴元が西岡一帯を放火して京に迫り、小泉秀清は城を焼いて霊山城の足利義輝に合流しました。
その翌年に足利義輝と三好長慶が対立すると三好方に付き、義輝方に城を包囲されるも撃退しています。
長慶の死後は松永久秀に従い、1566年(永禄9年)に久秀と対立する三好三人衆に攻められています。
1568年(永禄11年)に織田氏が上洛すると、九条河原城主・和久壱岐守とともに城を焼いて三好方に付いたことが確認できるようです。
その後の小泉氏と小泉城の動向は不明のようです。
西院春日神社と、その周辺の住宅地をブラブラと歩きましたが、城の痕跡は見られませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=御土居を目指す為、電車とバスを使って西院駅から千本北大路/京都市営バスに向かい、まずは金閣寺を見学します。
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2022/08/22 12:56
2022夏の青春18キップ8日目:革嶋城 (2022/07/27 訪問)
物集女城からの転戦です。桂駅から徒歩7~8分くらいで、革嶋城公園(34.975048、135.702064)に着き、その後、革嶋春日神社(34.975350、135.701871)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、革島氏によって築かれたと云われています。 革島氏は佐竹源氏で鎌倉時代初期に本所近衛家から革島荘の下司職に補任され下向、革島氏を称したそうです。
革島城は革島春日神社一帯に築かれていたそうです。
神社の南側に小さな『革嶋城公園』があるが、特に案内板もなく、公園名が城跡を示している程度です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小泉城を目指す為、電車で桂駅から西院駅に向かいます。
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2022/08/22 11:03
内濠越しに眺める天守・高石垣は圧巻です (2005/08/08 訪問)
木造復元四重天守閣大洲城探訪が主の四国旅、前日宇和島城、復元天守に登閣、眺めしつくした大洲城、時間の関係で松山城は三の丸、二の丸下、道後温泉本館、湯築城を車窓見学して、松山の宿に宿泊。
朝早くに近くの四国八十八ヶ所めぐり51番石手寺を参拝、土産に家内趣味の砥部焼の丈夫な器を購入し現在も大切に使って居ます、高速で香川へ、途中に弘法大師ゆかりの善通寺参拝、長く高い石段を登って金刀比羅宮参拝讃岐の眺めは最高。
丸亀城は50数年前に初登城、今回17年前の平成17年8月上旬に金毘羅さん参拝、昼を済ませ二度目かな?家内と登城しました、内濠、内濠越しに高い石垣、天守閣を眺め、久しぶりの感激、躍動感に胸震えます、大手土橋を渡り大手枡形門、見返りの坂道を登って、高石垣が眼前に、石垣を触ったり上部の高石垣天端を眺めたり、三の丸、二の丸、本丸、小振りな現存12天守の一つである天守閣に登る、天守からの眺め、本丸からの眺めは素晴らしく最高です。
近世の丸亀城は秀吉の四国征伐後、讃岐を生駒正親が拝領し高松城築城、隠居城として丸亀城を築城、関ヶ原で東軍についた子の生駒一正は讃岐一国17万石余を拝領し丸亀城は完成したが元和の一国一城令で廃城、生駒氏のお家騒動で寛永17年(1640年)減封転出、寛永18年(1641年)山崎家治が5万3千石で入封し城の再建し現在の姿に、山崎氏三代続くが世継ぎ無く改易、代わって万治元年(1658年)京極氏が6万6千石で入封、七代続き明治を迎える。
丸亀城は生駒氏、山崎氏、京極氏に引き継がれて現在の姿に天守閣、大手桝形一の門二の門、御殿表門が現存です。
さて4年前の平成30年(2018年)7月の大雨で高石垣が崩落被害に遭い、現在復旧復興工事中です、被害見舞いと早い復旧復興を願って居ります。 頑張れ丸亀城❕
この後は瀬戸大橋を渡ってふるさと鳥取へ、途中に瀬戸大橋唯一のPA、与島PAに寄り、休憩し瀬戸大橋、瀬戸内海、遠く讃岐富士を眺める、丸亀城は目視出来ず。
2泊3日四国旅は復元したての大洲城木造復元四重天守閣を観覧するが主目的でしたので満足旅でした、平成16年には新発田城三階櫓が7月、大洲城天守閣が9月に完成しています。
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2022/08/22 08:30
とことん江戸城(南町奉行所) (2022/06/23 訪問)
南町奉行所は、江戸期の大半を北町との月番交代で江戸町方の行政と司法を担った幕府の機関で、江戸中期に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転して明治まで続きました。
跡地は有楽町イトシアになっていて遺構はありませんが、発掘調査で石組下水溝や井戸、穴蔵などが発見されており、有楽町駅前広場には南町奉行所跡の石碑と発掘された石材で復元した石組下水溝が、地下広場には発掘された穴蔵をモニュメントとして展示し、両脇には水道木樋を再利用したベンチ、向かい側の柱の周囲にも発掘された石材によるベンチ(写真を撮りそびれました…)が設けられています。
ところで、南町奉行というと真っ先に大岡越前守忠相の名が思い浮かびますが、日比谷公園の西隣、弁護士会館や東京家庭裁判所のあたりにかつて上屋敷があり、弁護士会館の南東隅に屋敷跡の説明板が設けられています。官庁街の一角ではありますが、名奉行の屋敷跡が外務省や農水省などでなく裁判所と弁護士会だとは、何とも出来過ぎた話ですね。
# 訪問時は石碑の向かい側の有楽町マルイでお城EXPO POPUP SHOP×「センゴク」原画展が開催中でしたが、時間が合わず観覧はかないませんでした。残念…。
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2022/08/22 07:08
2022夏の青春18キップ8日目:物集女城 (2022/07/27 訪問)
寺戸城からの転戦です。洛西口駅から徒歩15~16分くらいで、城跡付近(34.962801、135.695139)に着き、その後、物集女公民館(34.962143、135.694523)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、室町時代に物集女氏によって築かれたと云われています。 物集女氏は秦氏の一族とされ、物集女荘の代官としてこの地の有力者でした。
戦国時代には物集女忠重がいましたが、上洛した織田信長は細川藤孝を勝龍寺城主としてこの辺りを支配させました。
忠重はこれに従わず、1575年(天正3年)勝龍寺城で謀殺されました。これによって物集女城も廃城となりました。
主郭は私有地のようで中にははいれませんが、説明板はあります。
物集女公民館に入り、玄関先にある簡単な模型と縄張り図などを見学させていただきました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=革嶋城を目指す為、電車で洛西口駅から桂駅に向かいます。
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2022/08/22 06:49
2022夏の青春18キップ8日目:寺戸城 (2022/07/27 訪問)
開田城からの転戦です。東向日駅から徒歩10分ちょっとで例慶公園(34.951588、135.698795)に着きました。
寺戸城は室町将軍直轄の家臣団である西岡被官衆(西岡中脈衆)のひとり、竹田氏の居城として知られています。
応仁の乱では、1468年(応仁2年)に東軍が陣取ったとされています。
現在城址は宅地化されており遺構はありませんが、推定地とされる例慶公園の一角に標柱があります。
標柱は公園の中から見ないと分かりません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=物集女城を目指す為、電車で東向日駅から洛西口駅に向かいます。
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2022/08/22 06:44
2022夏の青春18キップ8日目:開田城 (2022/07/27 訪問)
宿泊先最寄りの長堀橋駅から長岡天神駅に着きました。
長岡天神駅から徒歩4~5分で開田城土塁公園(34.926169、135.691586)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、中小路氏によって築かれたと云われています。
開田城土塁公園になっており、土塁の一部が保存されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=寺戸城を目指す為、電車で長岡天神駅から東向日駅に向かいます。
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2022/08/22 06:40
2022夏の青春18キップ8日目:楼ノ岸砦 (2022/07/27 訪問)
野田城からの転戦です。天満橋駅から徒歩4分くらいで、坐摩神社行宮(34.689677、135.513295)に着きました。
織田信長と本願寺勢力が戦った石山合戦の際、織田信長が築いた砦です。
本願寺勢力の攻撃で奪取され本願寺勢力の防衛拠点となりました。
本願寺落城の際に廃されたと考えられていますが、詳細は不明のようです。
何もありません。工事中のようで神社がなくなっていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=開田城を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取ります。
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