なかおじょう

中尾城

京都府京都市


旧国名 : 山城

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主郭
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ぴーかる

足利将軍が築造した山城 (2024/11/03 訪問)

【中尾城】
<駐車場他>銀閣寺周辺の駐車場は土日祝1500円くらいと高いので私は「タイムス北白川小倉町(終日660円)」に駐車しました。北白川周辺は「ブーブーパーク」というコインP(終日600円くらい)が沢山あります。公衆トイレ「銀閣寺橋西詰公衆トイレ」があります。
<交通手段>車

<見所>堀切・土塁
<感想>中尾城の築城は1549年に12代将軍の足利義晴が大御所となった後に築城を開始したとされます。1549年に江口の戦いで敗れた細川晴元は足利義晴・義藤(のちの義輝)親子を連れて近江坂本に逃れます。その後京都では三好長慶が台頭することになりますが、足利義晴は京都奪還を目指して中尾城を築城します。すぐ北に将軍山城があり、1546年に自身が改修して義晴・義藤親子が籠城していますが、1547年に細川晴元・六角定頼軍に包囲された時に城を焼いて出ていますので、その南にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に新たに築城したと思います。1550年に足利義晴は病死(病を苦に自害とも)しその後将軍の足利義藤が入城し三好長慶軍と戦います。三好長慶軍は背後の近江大津周辺を焼き討ちしだしたので退路に窮した将軍義藤は中尾城を焼いて城を出て近江堅田⇒朽木に逃げます。

 登城ルートはいくつかあり、<35.027695, 135.802006>の左手の砂防ダムからか、そのまま道なりに一番奥へ行った砂防ダムから登っても行けます。私は前述のルートから登って、登ってきた場所をロストしてしまったので何となく降りてきたら後述の場所に降りれました。どちらのルートにも遺構の堀切がありますので上り下り変えた方がいいかもです。
 タイトルにあるように城びとフラッグとGoogleマップ中尾城址の位置はずれていて、城びとポイントが正しい位置に立てられています。Googleマップの位置は中尾城跡から大山出城跡に至る急斜面にあり間違いです。登城した時、案内が無くてGoogleマップの位置ばかり気にしつつ登ったので、一旦城跡に入ったのに「ここも城跡なんだけどなあ」と思いつつ、うろうろしている間に大山出城に至った訳です(結果オーライ)。
 城跡は南北に走る尾根を削平した連郭の城で主要部は中心に主郭、北下段と南下段に副郭があります。北下段の北と南下段の南に堀切があります。それぞれの堀切の先に尾根曲輪が続いて、南端は堀切と横矢の土塁、北端は崖になっています。主要部の西側尾根に登ってきた堀切があります。主要部北下段の西側に中尾城の出城といわれる大山出城へ至るルートがあります。
 足利将軍の城とはいえ、東山の尾根上をちょこちょこっと削平し城塞化した大山出城と合わせても現在見れる遺構の規模の小さい城ではあるが、当時は麓からみて京の人々には威容があり、鉄砲を防ぐ石や砂利を防壁に敷き詰めた最新の造りになっていたようです。おそらく築造の費用と人足は管領代にしてもらい後ろ盾となった六角定頼が出しているのかもしれませんが。鴨川を渡るとすぐ当時の今出川御所に入れるのに入れない、足利将軍が命をかけた京都奪還の意思を強く感じました。

<満足度>◆◆◇

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ぴーかる

中尾城の支城 (2024/11/03 訪問)

【大山出城】
<駐車場他>次の中尾城で記載します。

<見所>虎口跡・土塁・主郭
<感想>城びと未登録の大山出城は1549年頃に足利義晴・義藤(のちの義輝)父子によって築城されたとされます。中尾城の北西部に位置しており、中尾城の出城として造られたとされるので中尾城での投稿とさせていただきます。
 中尾城から北西部に向かって降り下るルートがありますので、そこから来ました。城跡の曲輪は大きく2段構造になっていて、南側は山のピークで緩傾斜を広く取った曲輪、北側は大きく下がってダイナミックな削平地があります。北端に土塁があります。南のピークと北の下段の切岸を凄く削った感じがあります。また曲輪の北西端に石積み跡の虎口のような跡があります。尾根以外の周囲は崖になっています。中尾城をも含めて1番広い曲輪なので城に入る時、ここに居館(仮の御所)があったかとも考えられます。合戦籠城となった時に上方の中尾城に入るという感じ。でも電気通ってないのにTVアンテナが3つ程捨てられていた(不法投棄?民家があった?)のが気になりました。

<満足度>◆◆◇

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モハベ

大山出城から中尾城跡 (2023/09/11 訪問)

かなり急峻な山城。しかし登山道は整備され踏分跡もシッカリついている。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ8日目:中尾城 (2022/07/27 訪問)

船岡山城からの転戦ですが、折角なので銀閣寺を見学した後、銀閣寺から徒歩5分ちょっとで、「嗚呼中尾城」看板前登城口(35.027939、135.799243)に着きました。

1549年(天文18年)足利義晴によって築かれたと云われています。
室町幕府12代将軍足利義晴が、京への復帰を目論んで慈照寺(銀閣寺)の裏山に築いた城が、中尾城と考えられているようです。
築城翌年の1550年(天文19年)に義晴が病死すると、子の足利義輝が細川晴元とともに入城しますが、1550年(天文19年)に三好長慶によって攻められ自焼して落城しました。
その後、三好軍によって破却されたそうです。
この城は二重の壁の間に石を詰めたことが『穴太記』に記されており、これが鉄砲対策と考えられていて、文献でわかる最古の事例とされているそうです。

登城路の目印「嗚呼中尾城」の看板を捜しましたが見つかりません。
あとで確認しましたが、GPS座標はあっていると思います。しかし、自分は見つけることはできず登城を断念しました。
中尾城攻城前に見学した銀閣寺の写真を投稿します。
攻城時間の15分は登城路の目印「嗚呼中尾城」の看板を捜した時間です。次の攻城先=将軍山城へ徒歩で向かいます。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 足利義晴
築城年 天文18年(1549)
主な城主 足利氏
遺構 曲輪、土塁、堀切
再建造物 碑、説明板
住所 京都府京都市左京区浄土寺大山町他