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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:龍門寺城 (2022/07/29 訪問)

新善光寺城(城びと未登録 福井県越前市)から10分弱歩き、龍門寺山門説明板前(35.898647、136.165730)に着きました。

1573年(天正元年)富田長繁によって築かれたと云われます。もともと龍門寺があった所と云われています。
1573年(天正元年)織田信長によって朝倉氏が滅ぼされると、朝倉氏の家臣であった富田長繁はいち早く信長に降って、府中を領し龍門寺城を居城としました。
1574年(天正2年)一向一揆が起こるとそれに加担して確執のあった守護代桂田長俊(前波吉継)を敗り、更に魚住景固父子を謀殺して越前一国を支配しました。
1575年(天正3年)富田長繁は悪政を施いたため、一向一揆の襲撃を受け、この戦いの最中に家臣の小林三郎次郎吉隆に裏切られ討死にしました。
1575年(天正3年)越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入りました。
1580年(天正8年)不破光治は没し、不破直光が家督を相続したが、賤ヶ岳合戦後は前田利家に仕えました。
1585年(天正13年)若狭の木村常陸介が府中を支配し、1588年(天正16年)城内の南隅に龍門寺を再興しました。

現在の龍門寺一帯が龍門寺城跡のようですが、遺構はないようです。門脇に説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=府中城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:新善光寺城(城びと未登録 福井県越前市) (2022/07/29 訪問)

金剛院城(城びと未登録 福井県越前市)から10分弱歩き、正覚寺山門前(35.901851、136.163472)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 延元年間(1336年〜1339年)越前国守護足利高経が新善光寺城を拠点として北朝方に属していました。
1336年(延元元年)南朝方の瓜生氏によって攻められ落城、間もなく奪還しますが、1338年(延元3年)再び新田義貞の軍勢に攻められ落城しました。
1340年(興国元年)足利高経の将である得江氏・天野氏等によって再び奪還しました。
1366年(貞治5年)一連の争乱による戦死者を弔うため、城跡に如道の長男・良如(江戸時代の良如とは別人)が正覚寺を開いたそうです。
なお、現在の正覚寺の山門は、江戸時代後期に造られた越前府中城の旧表門で、明治時代に移築されたものだそうです。

正覚寺の境内が新善光寺城跡のようで、境内の北側と西側の一部に土塁跡が残っています。
府中城の移築山門も確認しました。(写真は府中城でも再投稿します)
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=龍門寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:金剛院城(城びと未登録 福井県越前市) (2022/07/29 訪問)

レンタカーを借りるまで時間があるので、ホテルの朝食前に、武生駅近辺のお城を攻城しました。
まずは、金剛院城(城びと未登録 福井県越前市)です。ホテルから徒歩12~13分くらいで、金剛院入口(35.905017、136.160435)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、城主は青木俊矩(善右衛門)で青木一矩(秀以)の実子とも甥とも云われています。
青木一矩は1594年(文禄3年)に府中城で10万石、1599年(慶長4年)一矩が北庄城主となって20万石余を領しました。

金剛院の境内が金剛院城跡のようで、境内の西側に土塁が残っているようですが、よくわかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=新善光寺城(城びと未登録 福井県越前市)に向かいます。

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赤い城

八幡宮の風鈴が涼しげ (2022/07/30 訪問)

大宝八幡宮が城跡です。
鳥居横に高土塁があり、その先に説明板も立っています。
その先は住宅地になっていますが大宝八幡宮の紫陽花園にも土塁や曲輪が残っています。
下氏によって築かれた城ですが戦国時代には多賀谷氏と神社が改修したとされています。
時期的に紫陽花は終了、その代わりに神社境内には風鈴が 
近くの幼稚園児がガラス部分に絵を描いたものでした。
中には生意気な・・・。
暑い日でしたが風鈴の涼やかな音に癒やされました。

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小城小次郎

公共施設「奥殿陣屋」として (2022/02/23 訪問)

大給松平氏は大名だけで4系統あるが大給・奥殿・田口藩主となった家系が長く藩庁としていたのが奥殿陣屋。移築された書院が再移築され集会施設「奥殿陣屋」として公式に運営されている。「ジンヤ」の植え込みは実に鮮烈。

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朝田 辰兵衛

3年ぶり。ようやく天守内へ。 (2022/07/12 訪問)

3年ぶりの熊本城。ようやく天守内へ入れました。しかし,まだ手つかずのエリアも見受けられました。個人的に念願だった「横手五郎の首掛石」も見ることができ,嬉しかったです。ふと,脳裏をよぎったのですが,熊本地震は横手五郎の怨念では…と。

横手五郎の首掛石ですが…
本丸の西側に凹形の巨石が展示されています。横手五郎という名の力持ちが首に掛けて運んだと伝わります。横手五郎の父は,加藤清正との一騎打ちで戦死。五郎は父の仇討ちのため城内に潜入し,そのチャンスを伺っていました。しかし,身元がバレて井戸に生き埋めにされました。石の重さは約1.8tです。

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もふもっふ

学校とタコのあるお城でした (2022/08/19 訪問)

岸和田で仕事を終えて帰るまでに散策しました。
岸和田駅からは商店街を通って15分くらいだと思います。
有名なだんじり祭りの経路もありました。
お城はお濠で囲まれておりお濠の周りも綺麗に整備されています。
またお城の前には学校があり学生が部活動に励んでいました。
お城入口には綺麗なカフェが併設された休憩所があり、トイレもあります。
八陣の庭は下からも良いですが個人的には、お城の上から見るのが好きでした。
この城のお話にタコに守られた話がありとても珍しく面白いと思いました。
閉館時間ギリギリに行きましたが快く入れてくださった係の方にも感謝です。
駅前でうどん屋の「鶴八」さんに行きました。昔ながらの店ですがうどんはもちろんですが、定食もあり
お酒のつまみがかなり充実しました。もちろんお酒の種類もたくさんあり電車までの時間をゆっくり楽しめました。

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もふもっふ

上諏訪散策と一緒に (2022/08/14 訪問)

上諏訪駅に行く事があり、散策しながら高島城を目指しました。
駅の中にも無料の足湯や温泉卵(有料)が作れたりしていました。
駅からゆっくり歩いて20分くらいだったと思います。道も複雑でなくお濠まで行く事ができます。
城内にはいると直ぐに天守閣がありました。
とても気持ち良い風も吹いていて最高でした。
帰りすがりに道にも温泉が出ている場所や足湯などありゆっくりとできる散策でした。

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イオ

とことん江戸城(雉子橋門~鎌倉河岸) (2022/06/23 訪問)

(続き)

出張2日目の夕方、北の丸をめぐった後、清水門を出て内堀通りを雉子橋門へ。日本橋川(外堀)に架かる雉子橋の北詰に雉子橋門跡の説明板が建てられていますが、往時の雉子橋はもう少し西にあり、雉子橋門は日本橋川と清水濠の間に設けられていたようです。雉子橋南詰のビルの間には矢穴のある石材が積まれており、Googleマップでは雉子橋門石垣跡とされていますが、枡形の位置からは外れているように思います。

雉子橋門と一橋門の間の日本橋川沿いには外堀の石垣が延々と続いています。ブラタモリでも紹介されていましたが、石垣の上に首都高速の橋脚を設置した部分には石垣を積み直した跡が窺えます(石材の大きさが全く違うので一目瞭然)。石垣を崩した後、コンクリートで固めて簡単に終わらせるのが楽でしょうに、拙いながらも積み直して元の姿に戻そうとする努力が嬉しいですよね。

日本橋川に架かる一ツ橋の北詰に一橋門跡の説明板があり、南詰に枡形門があったようですが、現在では白山通りとなっていて遺構は見られません。一橋門の東側にも外堀石垣が遺っていますが、内側がぎりぎりまで削られたことで倒壊しそうな石垣をコンクリートで補強して維持しています。撤去するのは簡単でしょうが、失われると二度と戻らないものだけに、何としても遺そうという気概が感じられました。

一橋門の東側には一橋徳川家の屋敷が神田橋門まで広がっており、丸紅本社ビルの西側に一橋徳川家屋敷跡の石碑と説明板が建てられています。

神田橋公園に神田橋門跡の説明板が建てられています。往時の神田橋は現在より少し東に架けられており、橋の南詰に枡形門がありました。首都高速の高架下に神田橋門のものと思しき石垣が遺っているほか、大手町川端緑道には発掘された石垣が展示されている……はずですが、訪問日は緑道が工事中で通行止めだったため未確認です。

鎌倉橋(昭和に新設)を渡った対岸は鎌倉河岸と呼ばれ、江戸城の築城時に鎌倉から運んだ石材を荷揚げしたことに由来します。水上物流の拠点として賑わった日本橋川沿いには、外堀の石垣と荷揚げ場が遺っています。

日本橋川をさらに下って常盤橋門に向かいます(続く)。
 

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カズサン

模擬隅櫓続土塀の景観が美しい (2005/06/06 訪問)

 龍野城は昭和54年絵図を参考に本丸西隅に模擬二階隅櫓、本丸模擬御殿、模擬櫓埋門が再建されて居ます。
 17年前の平成17年6月上旬、ふるさと鳥取の帰路寄りました、車は車、人の流が少ないので隅櫓下裁判所土塀西横に路駐。

 本丸西隅の二階隅櫓と続く土塀石垣、南下の裁判所西側の土塀辺りからの隅櫓景観が見所の様に思って居ります、また龍野古城である鶏籠山城の山頂もその辺りから見上げる事も出来ます。
 隅櫓下から本丸石垣下の土塀に囲まれた搦手道を登ると西門、本丸大手道、渡櫓式の埋門、内枡形に成って居り本丸へ登り坂道、模擬御殿が表、裏と二棟再建されて居る、桜の頃はさぞ綺麗であろうと思う葉桜。

 龍野城の歴史は、中世赤松氏から始まり、秀吉中国攻めで秀吉側の武将が城主を務め、関ヶ原後姫路池田輝政家老荒尾氏が城代、本多氏、小笠原氏、京極氏と続き、脇坂氏が寛文12年(1672年)入封し麓の本丸居館部を再建した、脇坂氏は以後10代治政し明治を迎える。
 脇坂氏入城後、赤穂事件の赤穂城受取りは二代目安照、受取の使者、在番を務める、忠臣蔵で良く出て来る場面でもあります。

 路駐でもあり本丸中心の探訪、龍野市街は車窓見学、揖保素麵、龍野薄口醤油は歴史も有り有名です。
 ※トップ掲載写真がクリックミスで最後になって仕舞いました、この景観を愛でて居たのですが?
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:天筒山城 (2022/07/28 訪問)

金ヶ崎城の一の木戸から登山道を尾根づたいに徒歩20分くらいで、天筒山の展望台に着きました。

展望公園の北側に展望台(丸い形)が建てられ、その北に見張り台説明板があり、見張り台があります。
天筒山公園として整備されいます。頂上から金ヶ崎城や敦賀湾、遠く敦賀半島が望めます。

天筒山城は金ヶ崎城の支城として、朝倉氏が支配していたようです。
元亀元年(1570年)織田信長による越前侵攻の際、寺田采女丞が守将でした。
信長軍は手筒山城を攻略し、ついで金ヶ崎城を攻めたが、浅井長政の離反により退却を迫られ、有名な「金ヶ崎の退き口」につながります。

細長い展望公園の北側に展望台、その北の鞍部に見張り台説明板と見張り台があります。
どこからが天筒山城址なのか金ヶ崎城址との境がわかりませんが、天筒山城址に向かう途中、見事な竪堀がありました。(少しピンボケしていますが、投稿します)
展望台から下る途中に山の神神社がありますが、遊歩道から500mくらい離れているようなので行きませんでした。
攻城時間は45分くらいでした。その後、明日の攻城先=金剛院城(城びと未登録 福井県越前市)を目指す為、敦賀駅に戻り電車で本日の宿泊先がある武生駅に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:金ヶ崎城 (2022/07/28 訪問)

敦賀城から徒歩20分ちょっとで、金崎宮参道入口付近(35.663561、136.075552)に着きました。
そこから参道を歩き、途中の愛宕神社、金崎宮奥(35.664480、136.074302)で金ヶ崎城趾の石碑を確認。
さらに北に登って行き、本丸(月見御殿)➡三の木戸跡➡堀切➡二の木戸跡➡堀切➡一の木戸跡➡堀切と確認し、手筒山城へ向かいました。
月見御殿付近(本丸)から、敦賀港埠頭や遠く敦賀湾や敦賀原発のある半島が望めます。

治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曽義仲との戦いに備えここに城を築いたのが最初と伝えられているようです。
1570年(元亀元年)の織田信長による朝倉義景討伐時、天筒城と共に落城、開城しました。

自分的な見所は各木戸付近にある堀切(堀切好きなので)と月見御殿付近からの眺望です。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=天筒山城に徒歩で向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:敦賀城 (2022/07/28 訪問)

疋壇城からの転戦です。敦賀駅より徒歩25分くらいで、移築敦賀城中門(35.651404、136.060233)に着き、移築門を確認しました
その後、敦賀市立敦賀西小学校の由来碑前(35.653977、136.066636)に向かいました。

敦賀城は1583年(天正11年)に蜂屋頼隆が築城し、その後、1589年(天正17年)に大谷吉継が入城して整備拡張したようです。
大谷吉継は有名ですが、自分は蜂屋頼隆をよく知らないので、ウィキペディアで調べてみました。
織田信長の家臣で近江肥田城➡岸和田城➡敦賀城主になっており、1589年(天正17年)死去するまで結構活躍した武将でした。

遺構は敦賀城中門が来迎寺の東の表門に移築されています。
敦賀市立敦賀西小学校に城跡や奉行所跡、県庁跡の由来碑があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=金ヶ崎城に徒歩で向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:疋壇城 (2022/07/28 訪問)

北比良城からの転戦です。新疋田駅より徒歩10分弱で、疋壇城跡標柱前(35.599606、136.101010)に着きました。

室町時代に朝倉氏の武将・疋壇対馬守久保によって築かれたようです。
1570年(元亀元年)の織田信長による越前攻めで、天筒山城・金ヶ崎城と共に疋壇上も落城しました。
浅井長政の裏切りで、信長軍が撤収したのち、修復され、朝倉氏の栂野三郎右衛門尉景仍らが布陣しましたが、再び信長が越前に進撃すると、刀根坂の戦いで朝倉方は大敗、城主疋壇次郎三郎は討死、落城しました。

石段を登ると四郭(西愛発小学校跡)に着きます。そこから小高い丘方向に向かうと天守台下に説明板と城址碑があります。
空堀や石垣が残っており、土塁や天守台も確認できます。
もう少し、空堀を見学したかったのですが、電車の時間が迫っており、逃すと1時間待ちになるので、慌てて撤収しました。駅に着くと電車が6分遅れでした。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=敦賀城を目指す為、電車で新疋田駅から敦賀駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:北比良城 (2022/07/28 訪問)

衣川城からの転戦です。比良駅から徒歩10分弱で、福田寺入口(35.220736、135.948451)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1582年(天正10年)田中左衛門尉定光が在城し、織田信長に背き攻められ落城しました。

福田寺山門を入った左に城址の石碑があります。
山門横ある石垣は遺構ではないようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=疋壇城(北陸地方の攻城開始です)を目指す為、電車で比良駅から新疋田駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:衣川城 (2022/07/28 訪問)

瀬田城からの転戦です。堅田駅から徒歩20分弱で、公園入口(35.112756、135.906979)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、山内義重によって築かれたと云われています。
1234年(文暦元年)正月の粟津の合戦で功を挙げた義重が、衣川を領して築城したのが始まりと云われています。
11代の山内駿河守宗綱は1508年(永正5年)〜1511年(永正8年)にかけて浅井公政・京極高清とともに朝倉貞景・村上山城守・細川高国・河野通直・大内義興らと戦い勝利をおさめました。
1526年(大永6年)に細川高国の奇襲によって衣川城は落城、重清らは辛うじて城を脱し伊予国宇摩郡近井郷鏑先村に逃れて土着したそうです。

現在は衣川台の団地内にある児童遊園地に石碑はありましたが、説明板は見つけられませんでした(捜し方がわるいかも)
遺構はありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=北比良城を目指す為、電車で堅田駅から比良駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:瀬田城 (2022/07/28 訪問)

山科本願寺からの転戦です。山科駅から電車を乗り継ぎ唐橋前駅に着きました。
そこから徒歩10分くらいで瀬戸唐橋説明板前(34.972457、135.907656)を経由して石碑説明板前(34.970824、135.906849)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永享年間(1429年〜1441年)に山岡氏の一族で田上城主であった山岡資広によって築かれたと云われています。
山岡氏の出自は詳らかではないようですが、甲賀の伴氏の後裔といわれ、甲賀郡山岡発祥とされます。
山岡氏ははじめ佐々木六角氏に仕えており、山岡景隆の時代には「江南の旗頭」と呼ばれる程の実力を持っていたそうです。
1568年(永禄11年)織田信長の上洛軍が攻め寄せ佐々木六角が観音寺城を捨てて逃れる頃になると、信長に降ったそうです。
その後は信長に仕えて伊勢国大河内城攻めや雑賀攻め、伊賀攻めなどに従軍しています。
1582年(天正10年)信長が本能寺の変に倒れると、明智光秀の誘いを断って勢多橋を焼き落として山中へ逃れたそうです。
その後は織田信雄に味方して伊勢峰城攻めに参加したが、賎ヶ岳合戦の折りに柴田勝家に通じたと疑われ、瀬田城を捨てて出奔し山岡城に蟄居したそうです。

瀬田城は瀬田川の東岸、瀬田唐橋(GPS参照:説明板があります)の南側付近に築かれていたそうです。
現在は宅地などとなり遺構はありませんが、県道29号線沿いに石碑と説明板があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=衣川城を目指す為、電車で唐橋前駅から堅田駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:山科本願寺 (2022/07/28 訪問)

山科駅から徒歩10分ちょっとで、山科本願寺土塁跡付近(34.984569、135.812382)に着きました。

1478年(文明10年)蓮如兼寿によって築かれました。
本願寺の総本山として「山科寺内町」と呼ばれる自治都市を形成していたそうです。
1532年(天文元年)細川晴元と対立し破れ、以後本拠を石山に移したそうです。

説明板によると山科中央公園一帯が寺内町跡だそうです。
現在は公園内に土塁の一部が残っているのみです。土塁の上に遊歩道が付けられていました。立入禁止のテープは解除されていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=瀬田城を目指す為、電車で山科駅から唐橋前駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:東山霊山城 (2022/07/28 訪問)

朝早く起きて、ホテルの朝食前に東山霊山城を攻城しました。
宿泊先のアパホテル京都祇園EXCELLENTから徒歩15分ちょっとで、正法寺(元・霊山寺)階段前(34.998687、135.783041)に着きました。

室町幕府13代将軍足利義輝によって1552年(天文21年)に築城が開始され、翌1553年(天文22年)には陥落し、廃城となったと考えられるそうです。

正法寺の門(倒木の為、立入禁止になっていました)が閉まっていて中に入れません。
京都霊山護国神社は朝9時からなので、こちらのルートからも入れません。
別ルートとして将軍塚ルートがありますが、時間の都合で今回は行けませんでした。残念です。
攻城予定時間として60分を見込んでいましたが、時間が余ったので付近を観光しました。そちらの写真も併せて投稿します。
観光箇所は法観寺(八坂の塔)、高台寺(ねね)、八坂神社などです。
攻城時間は15分(観光した時間は含みません)くらいでした。次の攻城先=山科本願寺を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取ります。

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おっちゃん

島原城跡案内図 (2014/05/31 訪問)

現地案内板より抜粋

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