だいほうじょう

大宝城

茨城県下妻市


旧国名 : 常陸

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南側の土塁
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風鈴の音が響く城址 (2023/08/19 訪問)

関東鉄道常総線 大宝駅から徒歩5分で到着。
大宝八幡宮周辺に駐車場があります。
南北朝時代、大宝城は下妻氏の居城で、北にある関城(茨城県筑西市)と並び、南朝の拠点でした。北朝の高師冬軍と二年にわたる籠城戦の末、1341年に大宝城は落城。城主の下妻政泰は討死しています。
現在、城跡は、関東最古の八幡宮といわれる大宝八幡宮になっていますが、部分的に遺構が残っていて、まず大宝小学校南側の鳥居周辺には、土塁が残っていました。
けっこう高さがあって迫力がありました!!
変わって大宝八幡宮の北西側のあじさい神苑にも土塁があります。
大宝八幡宮では、訪問した際は風鈴祭りが行われており、大宝駅をはじめ、あちこちに風鈴が設置されていました。
大宝八幡宮の本殿裏手には、「贈正四位下妻政泰忠死之地」の碑(昭和6年建立)と「下妻政泰公忠死の碑」(昭和18年建立)が立っています。

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しんちゃん

南大手口の土塁が見事 (2023/05/04 訪問)

大宝城は糸繰川の東側の台地上に築かれていました。
関城の南2~3kmほどの位置にあり、かつては南朝方の拠点として
互いに連携し、舟で行き来出きたそうです。
西側と北側は断崖状になっており、本丸周辺は大宝八幡宮となり
遺構の大半は失われているものの、かつての大手の南側には
立派な土塁が残っており、ほかにも堀などの遺構が残っているようです。
かつての断崖の下には大宝沼が開け、沼を挟んで関城と対峙していたと伝わります。
下妻修理権亮長政が貞永元年に居城したのが始まりとされ、南北朝の争いの頃
下妻政康は南朝側の北畠親房の味方をし、親房が関城に入ると、春日中将顕国が
興良親王を奉じて大宝城に入ったとあります。足利の攻め手、高師冬は大宝城と
関城の連携を絶ち、康永元年(1342)3月、両城は敵の総攻撃を受け、
翌年の11月11日 大宝城と関城は同日に落城し、幼い城主、下妻正泰も
城と運命を共にしたとのことです。

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チェブ

船着き場もあった お城。 (2023/05/13 訪問)

以前 投稿した「関城」の後に「大宝城」に転戦しました。

1232年、下妻 長政さんが築城しました。
その後、南北朝時代には「関城」と共に南朝方の拠点になった「大宝城」ですが、北朝方に攻め込まれ落城しました。
その時の城主、下妻 政泰さんは討死します。

「大宝城」の入口に着くと奥が高くなっているのが見えます。遊歩道が続き、行けるようですが、雨と雑草で眺めるのみです。
回りは田んぼがあり、南北朝の頃は湿地か沼が広がっていた事が想像できます。
Googleで確認すると、『大宝城船着き場跡』とありました。
確かに、南朝方の拠点になるだけあって水路も確保されている「大宝城」です。

6月~7月初旬は、紫陽花が綺麗な「大宝城」らしいですよ。

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赤い城

八幡宮の風鈴が涼しげ (2022/07/30 訪問)

大宝八幡宮が城跡です。
鳥居横に高土塁があり、その先に説明板も立っています。
その先は住宅地になっていますが大宝八幡宮の紫陽花園にも土塁や曲輪が残っています。
下氏によって築かれた城ですが戦国時代には多賀谷氏と神社が改修したとされています。
時期的に紫陽花は終了、その代わりに神社境内には風鈴が 
近くの幼稚園児がガラス部分に絵を描いたものでした。
中には生意気な・・・。
暑い日でしたが風鈴の涼やかな音に癒やされました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 下妻長政
築城年 貞永元年(1232)
主な城主 下妻氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 国史跡(大宝城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 茨城県下妻市大宝/筑西市関舘他(大宝八幡宮)
問い合わせ先 下妻市役所総務課情報管理室
問い合わせ先電話番号 0296-43-2111