【東山霊山城】
<駐車場他>東山山頂公園駐車場
<交通手段>車
<感想>東山霊山城は1552年に第13代将軍の足利義藤(のちの義輝)が築城したとされます。義藤はこの数年前より大御所の父である足利義晴と共に中尾城を築城し上洛できる活動を行ってきたが、父義晴が死に、中尾城の戦いにおいて三好長慶軍に敗れ近江朽木に幽居していました。後ろ盾となっていた六角定頼も死に、後継の六角義賢が三好長慶との和睦を働きかけ和議が成立し今出川御所に上洛します。同じく三好長慶に敗れた細川晴元が丹波で勢力を盛り返し京都まで迫ってくると、身の危険を感じた足利義藤は清水寺の裏山に東山霊山城を築城します。足利義藤の奉公衆たちは三好派と晴元派に真っ二つになり義藤は厳しい選択をせまられた末、三好長慶を「御敵」とします。1553年に三好長慶は大軍をもって東山霊山城を攻めて落城します。京都の船岡山に陣取っていた義藤は朽木に退去しここから5年間幽居することになります。(ちょど今この辺り勉強中なのでつい長文になりました<(_ _)>)
攻め口ですが、南からの通路が立入禁止ということで北の将軍塚から。結局、添付写真にあるように北側も通路は立入禁止となっていました。お勧めしませんが直登できる所があります。将軍塚のある青蓮院門跡の山門の左脇に京都1周トレイルの東山22番から山に入ります。分岐を知恩院の方へ。十字路で左に曲がって南下します。丸太橋を渡り少し下ると左手の沢向こうに北側の立入禁止があります。そこを過ぎて更に少し下ると滝の手前に沢に降りれる国有林のピンクリボン誘導があります。沢に降りて渡っても斜面にピンクリボンがありますのでそれに沿って直登(以前は道があったようですが今はロストしています)します。登り切ったところが主郭南側の堀切に登り切ります。主郭南の堀切から南へは行きませんでしたので遺構はどうなっているか分かりません。主郭は登ってきた堀切と主郭は小さく、すぐ北に伊藤博文詩碑のある副郭、副郭の周辺は西奥の尾根は藪化、以外は急斜面で特に表面観察で確認できる遺構は残っていませんでした。登ってきた降りが大変で、落葉の堆積で表面層と一緒にずるっと背中からコケて2m程、お尻と背中が泥だらけになりました。頑張った割には見れる遺構が少ない。
<満足度>◆◇◇
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