つるがじょう

敦賀城

福井県敦賀市


旧国名 : 越前

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①	敦賀西小にある石碑
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トク

㊶【関ケ原の26人】(18)大谷吉継 (大谷吉継と敦賀城) (2022/11/30 訪問)

(18人目)は「大谷吉継」です。
関ケ原当時の居城「敦賀城」を訪れてきました。

敦賀城は、秀吉の家臣だった蜂谷頼隆が三重の天守を築いたのが始まりで、その後に入った大谷吉継が水城に大改修しました。

敦賀駅からバスに乗り10分、市立病院前で下車するとこの辺一帯が城跡です。確かに海に近いです場所です。ちょっと歩くと海が見え、湾の向かい側には突き出た金ヶ崎城があり、当時はなかった金ヶ崎城の前には埋立地があって、苫小牧行きのフェリー乗り場になっていました。川もあるので水運にはかなり恵まれた場所だったようです。

そういえば(まだここに敦賀城がない頃)、金ケ崎の退き口で、ここは金ケ崎城から国吉城へ通じる道なので、家康はこの道を命かながら必死で逃げて行ったのではないだろうか?・・・とバスの中からふと想像してしまいました。

敦賀西小学校の校門には、ここに城があった事を示す石碑がありました。石碑にはかつてあったとされる三重の天守の絵も刻まれていました(写真①②)。そこから少し歩いた真願寺は、敦賀城の北西隅とされ、城の礎石が残っています(写真③④)。また八幡神社には吉継が寄進したとされる石灯篭・石鳥居・龍の木彫も残っており、吉継の肖像画も奉納されていました(写真⑤⑥⑦⑧)。川を渡った所にある来迎寺の山門は、かつての敦賀城の中門が移築されたと伝わっています(写真⑨⑩)。

吉継は会津征伐に加わるため北陸諸将を束ね、ここ敦賀城から出陣、家康のいる伏見城へと向かいます。しかしその途中で佐和山城に立ち寄ると、三成から家康を討つ計画を打ち明けられました。血気にはやる三成に対し、「無謀である、三成に勝機なし」と説得します。平塚為広と相談し共に再度説得するも、最後にはその熱意に打たれ、会津行きを取止め三成に加担する事を決意しました。そして他西軍諸将とともに伏見城攻めに加わり、鳥居元忠と戦います。

私は八幡神社の肖像画の前に立ち考えてみました。吉継はなぜ三成と共に家康を攻める事を決意したのでしょうか? 秀吉に小姓の時代から共に仕え気心の知れた仲、文禄慶長の役では同じ文治派として苦労を共にした親友。しかし吉継の容態はこの時かなり悪化してきていました。よって吉継は、懇意であった家康より、三成との友情に自分の残り少ない命を賭けたのではないでしょうか?・・・

次は関ケ原(大谷吉継 陣跡)に続きます。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:敦賀城 (2022/07/28 訪問)

疋壇城からの転戦です。敦賀駅より徒歩25分くらいで、移築敦賀城中門(35.651404、136.060233)に着き、移築門を確認しました
その後、敦賀市立敦賀西小学校の由来碑前(35.653977、136.066636)に向かいました。

敦賀城は1583年(天正11年)に蜂屋頼隆が築城し、その後、1589年(天正17年)に大谷吉継が入城して整備拡張したようです。
大谷吉継は有名ですが、自分は蜂屋頼隆をよく知らないので、ウィキペディアで調べてみました。
織田信長の家臣で近江肥田城➡岸和田城➡敦賀城主になっており、1589年(天正17年)死去するまで結構活躍した武将でした。

遺構は敦賀城中門が来迎寺の東の表門に移築されています。
敦賀市立敦賀西小学校に城跡や奉行所跡、県庁跡の由来碑があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=金ヶ崎城に徒歩で向かいます。

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宗春

若狭・越前攻略戦③敦賀城 (2022/05/05 訪問)

ゴールデンウィークに友人と福井県のお城を訪問しました。
百名城や御城印のあるお城を中心に攻めていますが、敦賀城は大谷吉継ゆかりの城という事で、友人の希望で立ち寄りました。遺構はほとんどないため、敦賀西小学校の説明碑と真願寺境内にある城址碑(&礎石)だけ確認しました。

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ぴーかる

敦賀城 (2022/04/16 訪問)

【敦賀城】
<駐車場他>城びとポイント真願寺:参拝者駐車場 来迎寺:<35.651413,136.061333>の道路脇
<交通手段>車

<感想>敦賀城は本能寺の変後に秀吉が蜂谷頼隆を敦賀に入れ1583年に築城された。蜂谷頼隆は九州平定中に病死した為にやがて大谷吉継が入城し大改修を行う。関ヶ原後は城は越前国の領主となった結城秀康に接収され代官が置かれたが一国一城令により廃城となります。
遺構は数々残っているようですが今回私は、真願寺の礎石・来迎寺表門がかつての中門・敦賀西小学校の説明碑の3か所を巡りました。
 あと日本三大松原である気比の松原に行きました。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 蜂屋頼隆
築城年 天正12年(1584)
主な城主 蜂屋氏、大谷氏、松平氏
廃城年 元和2年(1616)
遺構 移築門
再建造物 石碑、説明板
住所 福井県敦賀市結城町8
問い合わせ先 (社)敦賀観光協会
問い合わせ先電話番号 0770-22-8167