やましなほんがんじ

山科本願寺

京都府京都市

別名 : 本願寺ノ城
旧国名 : 山城

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朝田 辰兵衛

山科中央公園にチョイ寄り🚊 (2024/06/24 訪問)

JR相生駅から新快速で移動してきました。イイ加減退屈になったので,公園で約6mの土塁に登ってポチっていうのも悪くないな…と。
戦国時代には「寺中広大無辺にして荘厳,さながら仏国の如し」と,その威容を謳われたそうです。寺域は,南北約1㎞,東西約800mにおよんだとされています。

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しんちゃん

山科本願寺 (2024/02/10 訪問)

山科本願寺は蓮如によって文明15年(1483)に築かれました。周囲には堀と土塁が巡らされ、今では山科中央公園に土塁が一部残っていますが、かなり大きな土塁です。
天文元年(1532)法華一揆の衆徒と手を組んだ細川晴元と対立し、山科本願寺は焼け落ちてしまったそうです(天文の乱)。こののち本願寺は本拠を石山に移し、例の人物と派手にやるわけです。

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キンヤ

蓮如上人が築いた寺内町で土塁が部分的に残る城 (2024/02/11 訪問)

山科本願寺は、文明10年(1478年)に浄土真宗中興の祖である本願寺8世蓮如上人が造営を開始した寺内町で、その後、9世実如、10世証如の時代に土塁や堀が完成したのではないかとされます。
市街化されてますが、土塁が部分的に残されています。

内寺内(二の丸)の北東側にある国史跡指定の土塁は巨大で驚きました。
かなりの土木量で本願寺は大きな勢力を持っていたのだろうと思います。

御本寺(本丸)の北西から西側にかけて4箇所で土塁が残されてます。
北西側に立派な長屋門の奥田家住宅があり、敷地の北側と西側は土塁で囲まれており、フェンスの外から土塁が見られました。
西側土塁とその内側一帯は、発掘調査が行われており、土塁は構造などが調査され、建物跡・井戸・石風呂などが見つかり、調査結果を基に2016年に国史跡として追加指定され、2021年に史跡山科本願寺跡公園として整備されたようです。

推定復元図を見ると、土塁・堀は屈曲し、2重の土塁・堀で取り囲み、ただの寺院ではなく城ですね。
復元図には描かれていないですが、内寺内の北側から北東側には外寺内(三ノ丸)もあったようです。
山科本願寺は、天文元年(1532年)に法華宗や六角氏などの軍勢により焼き討ちにあい廃城となりましたが、その以前に発達した縄張りの城を造っていたとは凄いと思い、戦国時代後期の平城のようでもありました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:山科本願寺 (2022/07/28 訪問)

山科駅から徒歩10分ちょっとで、山科本願寺土塁跡付近(34.984569、135.812382)に着きました。

1478年(文明10年)蓮如兼寿によって築かれました。
本願寺の総本山として「山科寺内町」と呼ばれる自治都市を形成していたそうです。
1532年(天文元年)細川晴元と対立し破れ、以後本拠を石山に移したそうです。

説明板によると山科中央公園一帯が寺内町跡だそうです。
現在は公園内に土塁の一部が残っているのみです。土塁の上に遊歩道が付けられていました。立入禁止のテープは解除されていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=瀬田城を目指す為、電車で山科駅から唐橋前駅に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 城郭寺院
天守構造 なし
築城主 蓮如
築城年 文明10年(1478)
主な改修者 不明
主な城主 蓮如、実如、証如
廃城年 天文元年(1532)
遺構 土塁
指定文化財 国史跡(山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 京都府京都市山科区西野阿芸沢町
問い合わせ先 京都市山科区役所
問い合わせ先電話番号 075-592-3050