山科本願寺は、文明10年(1478年)に浄土真宗中興の祖である本願寺8世蓮如上人が造営を開始した寺内町で、その後、9世実如、10世証如の時代に土塁や堀が完成したのではないかとされます。
市街化されてますが、土塁が部分的に残されています。
内寺内(二の丸)の北東側にある国史跡指定の土塁は巨大で驚きました。
かなりの土木量で本願寺は大きな勢力を持っていたのだろうと思います。
御本寺(本丸)の北西から西側にかけて4箇所で土塁が残されてます。
北西側に立派な長屋門の奥田家住宅があり、敷地の北側と西側は土塁で囲まれており、フェンスの外から土塁が見られました。
西側土塁とその内側一帯は、発掘調査が行われており、土塁は構造などが調査され、建物跡・井戸・石風呂などが見つかり、調査結果を基に2016年に国史跡として追加指定され、2021年に史跡山科本願寺跡公園として整備されたようです。
推定復元図を見ると、土塁・堀は屈曲し、2重の土塁・堀で取り囲み、ただの寺院ではなく城ですね。
復元図には描かれていないですが、内寺内の北側から北東側には外寺内(三ノ丸)もあったようです。
山科本願寺は、天文元年(1532年)に法華宗や六角氏などの軍勢により焼き討ちにあい廃城となりましたが、その以前に発達した縄張りの城を造っていたとは凄いと思い、戦国時代後期の平城のようでもありました。
+ 続きを読む