りゅうもんじじょう

竜門寺城

福井県越前市

別名 : 龍門寺城
旧国名 : 越前

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ぴーかる

竜門寺城 (2023/08/19 訪問)

【竜門寺城】
<駐車場他>龍門寺駐車場はあります。システムパークタケフ(コインP)に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>越前ちょこ城巡りの旅7城目。現地案内板によると龍門寺は曹洞宗のお寺で1299年に悦巌崇善によって創建されたと伝えられます。1573年には織田信長が越前朝倉攻めの際にここを本陣としました。朝倉氏滅亡後は一向一揆の支配することとなり、羽柴秀吉・明智光秀が龍門寺城に攻め入ります。その後は織田信長家臣の不破光治が入城します。
 上記コインPから炎天下のもと徒歩で10数分かかり汗だく。武生駅から城跡までの街並みは碁盤目状に区画整理されています。城跡地にはお城の遺構はほぼ残っておらず南側墓地が窪地になっていて堀跡と分かります。周囲はお寺の密集地域になっています。

<満足度>◆◇◇

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:龍門寺城 (2022/07/29 訪問)

新善光寺城(城びと未登録 福井県越前市)から10分弱歩き、龍門寺山門説明板前(35.898647、136.165730)に着きました。

1573年(天正元年)富田長繁によって築かれたと云われます。もともと龍門寺があった所と云われています。
1573年(天正元年)織田信長によって朝倉氏が滅ぼされると、朝倉氏の家臣であった富田長繁はいち早く信長に降って、府中を領し龍門寺城を居城としました。
1574年(天正2年)一向一揆が起こるとそれに加担して確執のあった守護代桂田長俊(前波吉継)を敗り、更に魚住景固父子を謀殺して越前一国を支配しました。
1575年(天正3年)富田長繁は悪政を施いたため、一向一揆の襲撃を受け、この戦いの最中に家臣の小林三郎次郎吉隆に裏切られ討死にしました。
1575年(天正3年)越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入りました。
1580年(天正8年)不破光治は没し、不破直光が家督を相続したが、賤ヶ岳合戦後は前田利家に仕えました。
1585年(天正13年)若狭の木村常陸介が府中を支配し、1588年(天正16年)城内の南隅に龍門寺を再興しました。

現在の龍門寺一帯が龍門寺城跡のようですが、遺構はないようです。門脇に説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=府中城に向かいます。

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イオ

府中三人衆の城 (2022/06/05 訪問)

織豊期に富田長繁が龍門寺跡に築いた城で、織田信長の朝倉攻めの拠点となりましたが、朝倉氏の滅亡後、一向一揆勢に攻められて落城。信長による一向一揆平定後は、府中三人衆のひとりの不破光治の居城となりました。その後、木村常陸介が入って城内に龍門寺を再興し、本多富正が府中城を改修したことにより廃城となったようです。

龍門寺駐車場(何か所かあります)に車を駐めて登城開始。龍門寺の門前には龍門寺と龍門寺城の説明板が建てられており、南部の墓地は堀跡とされ、墓地に下りてみるとなるほど周囲より一段低くなっていて堀跡であることを実感しました。

龍門寺から北に徒歩1分には、卍が辻と呼ばれる道が卍形に交差する四辻があり、織田軍の人枡とも龍門寺城の堀跡とも城下の鉤の手とも云われますが、江戸期には夜番所が設けられていることから、通りを見張るためのものなのかなぁ、とも。また、卍が辻から北に徒歩1分には前田利家夫人・まつの念持仏と伝わる文殊菩薩座像が祀られています。
 

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不破光治 (2022/05/21 訪問)

 府中三人衆のひとり、不破光治の城です。龍門寺の山門前に石碑と案内板があります。
南部の墓地が堀跡だとありましたが、写真は撮りましたが墓石がたくさん写っていましたので投稿はしていません。龍門寺の案内板には土塁が残っていると書かれていました。どこにあるのかわかりませんでした。近くにある卍が辻も関連の施設であった可能性があることが書かれていました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 富田長繁
築城年 室町時代
主な城主 富田氏、不破氏
遺構 消滅
指定文化財 市史跡(龍門寺城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 福井県越前市本町(龍門寺)
問い合わせ先 越前市教育委員会事務局文化課
問い合わせ先電話番号 0778-22-7459