日本100名城

たかとおじょう

高遠城

長野県伊那市

別名 : 兜城

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高遠城
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スミヤキ

仁科盛信公「幻の桜」 (2019/04/15 訪問)

桜の名所として知られている高遠城址公園、タカトオコヒガンザクラという、この地域にしかない固有種で小ぶりの赤みが強い可憐な花が、満開を迎えると頭上を包み込むように咲き誇り、見事です。

戦国時代、甲斐武田氏にとって高遠城は、北信の海津、中信の小諸、南信の深志と並ぶ四大支城で信濃伊那経営の重要戦略拠点でした。

三峰川と藤沢川の合流点に位置し、三峰川の断崖上に本丸を置き、二ノ丸と南曲輪、勘助曲輪が三方から本丸を包み、さらに三ノ丸が外側を囲む、三段構えの梯郭式の平山城です。

1582年、織田軍による甲州攻めの際に城主仁科五郎盛信以下全員が壮絶な戦死を遂げています。信玄公の五男の盛信公、善政を敷き、領民からも慕われていたようで戦の後、手厚く葬られ、埋葬された山が五郎山と呼ばれるようになったそうです。

江戸時代、内藤氏がこの地を治め、盛信の御霊を五郎山より城内に迎え「新城神」として祀り崇拝され、現在も城址に新城・藤原神社として鎮座しています。

また、長野県歌「信濃の国」の歌詞にも登場しています。いつまでも慕われている存在でいることが凄いですね! 「幻の桜」という盛信公のイメージソングも見つけてしまいました。散る桜の儚さと、若くして潔く命を絶った盛信公が重なるのかなぁ。

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ぴーかる

高遠城 (2018/11/04 訪問)

【百名城44城目】
<駐車場他>城の三の丸・勘助郭に無料Pあり。 <交通手段>車

<見所>各郭・堀・大手門・大手門跡

<感想>1泊2日信濃攻城の旅4城目。有名な勘助郭は今は駐車場になっておりそこに駐車する。えらく来城者が多いなあと思いながら二の丸付近に行くとちょうど城のもみじ祭りを開催しており、城内にある高遠閣で主催の新そばの高遠そばに運良くありつけ美味しかった。そば食べ後本丸の空堀を降りて下から桜雲橋の紅葉を撮影する。本丸の空掘は写真の通り深い。次に本丸の移築した問屋門を見て本丸内へ。石垣があるが枡形遺構になっておらず、パンフに現存の石垣は大手門しかないとのことで、これは組直ししたものかも。次に南曲輪→法幢院曲輪を観察、ここも結構掘は残っており城郭らしい雰囲気。法幢院曲輪の東面は土塁もしっかりある。次に笹曲輪→二ノ丸→大手門遺構→大手門跡を見る。大手門は写真の通り解体され遺構はわずか。高遠城は破却・移築された遺構が多く、江戸期を通して使用され建築物があった雰囲気はない。しかし高遠コヒガンザクラと紅葉が赤く色付いていたのがとてもよかった。桜の時期にはさぞかし美しいことだろう。帰路途中苗木城に行こうかとしたが、行っても見る時間があまりなく、雨が降り出した為この城で旅終了して帰路に着く。全走行距離930㎞

<満足度>★★☆☆☆

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まーやん

約25年ぶりの登城は桜散った後(惜しい) (2019/05/05 訪問)

桜の高遠、高遠の桜。高遠と言えば、ですが桜が丁度散った後で、GWにも関わらず空いておりました。ここの桜は明治8年に旧藩士らの手によって植えられたタカトオコヒガンザクラ🌸という固有種で長野県の天然記念物だそうな。

城内にあまりにも多くの桜の木があることから曲輪の見通しが悪いですが、それでも深い空堀跡がよく分かりました。
正直、スタンプのリベンジで訪れましたが、若かりし頃は見向きもしなかった空堀や曲輪の配置などに目が向き、自分自身の成長(老化?)を感じました。

さてさて、大手門石垣跡から駐車場となっている勘助曲輪に車を停め攻城開始です。
二ノ丸門跡横の高遠閣でスタンプゲット。
天下第一の碑を見て二ノ丸から桜雲橋で内堀を渡り本丸へ。太鼓櫓辺りから冠雪した山々が望めました。
本丸から南曲輪、法幢院曲輪へと進み、折り返して竪堀の深さを確認しました。

駐車場におられた案内の叔父さんから織田方と壮絶な戦いを繰り広げた仁科五郎盛信について熱く語っていただきました。
伊那谷に侵攻した信長は天然の要害から攻めあぐね、三峰川上流から二万の大軍で折り返し攻城したとのこと。
高遠城を落とした織田信長が丁度3カ月後に光秀に討たれたらしく、人生の悲哀と因果について話されておりました。

江戸期の名君 保科正之所縁の地でもあり、地元での顕彰ぶりは熱いものがあります。

桜の時期でなくとも素晴らしいお城でした。

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夏の雪だるま

武田軍玉砕の城 (2016/09/23 訪問)

長野県伊那市の百名城の一つ高遠城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、信濃諏訪地方の領主で諏訪神社上社大祝の諏訪氏一族高遠氏の居城とされています。高遠氏は独立心が強く宗家諏訪氏とは反目、1541年武田晴信(信玄)の諏訪氏攻略では武田軍と同調。諏訪氏を攻撃し諏訪氏を滅ぼしますが、諏訪領有を巡って武田氏と対立。武田軍と戦いになり敗れ、1545年高遠城は武田氏に降伏開城。1547年山本勘助の縄張りにより大規模に改修され秋山信友が城主となり信濃侵攻の拠点となっています。1562年武田信玄と諏訪氏娘の子である勝頼が諏訪氏を継承し高遠城主となりますが、武田氏嫡男義信が謀反の疑いで廃嫡となると、勝頼が躑躅ヶ崎館へ移り信玄実弟信廉が城主となっています。1575年長篠の戦いで武田氏が大敗すると、勝頼は国内の守りを固めるため躑躅ヶ崎館に替わる新府城を築城、高遠城には弟の仁科盛信を城主とします。1582年木曽氏が織田へ寝返ると、勝頼は木曽氏攻めに、従兄弟の武田信豊を先鋒として兵5千を向かわせ、勝頼自身も兵1万を率い後詰めとします。それに対し織田氏も5万の兵で武田侵攻を開始。木曽攻めでは鳥居峠で武田軍は敗退。信濃伊那では侵攻した織田軍に恐れをなし、飯田城・大島城は戦わず逃亡、唯一高遠城が織田軍からの降伏勧告を退け兵1千で徹底抗戦。3万余の大軍に夜明けから始まった攻城戦は夕方にまでおよび、城主盛信も含め全員が玉砕したとされます。多くの武田軍が戦わず崩壊した中で唯一激戦を繰り広げた城となっています。武田氏滅亡後、本能寺の変で信長が亡くなると徳川家康がこの地を制しますが、関東移封により伊那領は毛利秀頼に与えられ、秀頼が亡くなると京極氏、関ヶ原の戦い後は、保科氏、その後鳥居氏や天領となり、1691年内藤氏が城主となり明治維新まで続いています。城は三峰川と藤沢川に挟まれた台地上に築かれ、南と西側が断崖となっている堅城で、本丸、二の丸、三の丸、南曲輪、法憧院曲輪、勘助曲輪が配され各曲輪に堀が回されています。明治維新により建物は撤去されましたが、城は現在高遠城址公園として各曲輪や堀が残る桜の名所となっており、民間への払下げにより切り詰められ使用されていた大手門が三の丸に移設され、また、城下の問屋役所の問屋門が本丸に移設されています。

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概要

高遠頼継を攻略した武田信玄が大規模な改修を行い、江戸時代には徳川氏の譜代大名の居城となった。三峰川の断崖を背にした本丸を二の丸・三の丸が半円状に囲み、空堀と土塁によって堅く守られた。曲輪間の空堀がよく残っていて、戦国期の雰囲気を伝える。桜の名所としても有名。

城郭情報

城地種類 平山城
築城年代 不明、天文16年(1547)に修改築か
築城者 不明、武田信玄
主要城主 武田氏、保科氏、鳥居氏、内藤氏
文化財史跡区分 国指定史跡
近年の主な復元・整備 平成13年に大手石垣を修理
天守の現況・形態 -
主な関連施設 藩校進徳館、伊那市立高遠町歴史博物館
主な遺構 本丸、二の丸、三の丸、南曲輪、法幢院曲輪、勘助曲輪、空堀、竪堀
住所 長野県伊那市高遠町東高遠
問い合わせ先 伊那市役所高遠町歴史博物館
問い合わせ先電話番号 0265-94-4444