みせやかた

三瀬館

三重県多気郡

別名 : 北畠具教三瀬館、三瀬御所
旧国名 : 伊勢

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正面石垣
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ぴーかる

三瀬の変 (2024/06/08 訪問)

【三瀬館】
<駐車場他>「北畠家の遺跡をたどるみち駐車場」3台分程に駐車しました。館跡にも2台分程のスペースがあります。
<交通手段>車

<見所>曲輪・石垣・山腹の詰めの曲輪
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅2城目。現地説明板によると三瀬館は伊勢国司8代北畠具教の隠居地で1569年に大河内城の戦いに敗れ和睦の条件として織田信雄を養継子とした後、この地に居館を造り隠居します。北畠具教は1576年に三瀬の変において織田信長の刺客により誅殺されてしまいます。
 まず館跡の南にある北畠具教公の胴塚にお参りし館跡を散策しました。館跡は説明板には3段とありますが最上段の砂防壁の曲輪(石積み跡が僅かに残っているので)まで入れると5段程のひな壇状の曲輪になっています。正面虎口の大石の石垣が見事です。中段程に庭園跡らしき池や石組暗渠が残っています。また石段も良く残っていて当時の館の雰囲気が残ります。
 次に見張り台跡に登りました。東屋のある曲輪と秋葉神社がある曲輪の2つの曲輪が南北にあり、間を堀切で仕切っています。神社のある曲輪からは三瀬地区が一望できます。
 以前から三瀬の変は歴史小説か何かの本で読んで、信長の苛烈さに衝撃を受けて知っていました。プランを立てている時から散策終わりまでずっと頭の中に「三瀬の変」がくっついていました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

三瀬の変 (2024/02/18 訪問)

三瀬館は三瀬御所と呼ばれた北畠具教の館跡で上三瀬の山麓に築かれていました。天正4年(1576)11月25日、織田氏の策略で長野左京進・滝川三郎兵衛尉(雄利)・柘植保重らによって具教が殺害され、具教の子の四男・徳松丸と五男・亀松丸そして北畠家臣14名も押し入ってきた軍勢に殺害されたとされています。(三瀬の変)
館跡自体の遺構はさほど残っておらず、幾段かの扁平地が斜面に沿って連なり最大で九段ほどあるようです。東西には砦である茶臼山と八幡山があり(行ってない)、川を挟んだ南側には具教卿の胴塚があり、案内板に従っていけば難なくたどり着くことが出来ます。
一連の騒乱で名門・北畠家もほとんど絶えてしまい、伊勢国は織田氏に乗っ取られてしまいます。キャストは一部異なりますが、映画「忍びの国」の序盤で三瀬の変が描かれています。

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イオ

北畠具教最期の地 (2024/05/04 訪問)

戦国末期に北畠具教が隠居所として築いた城館で、西辺から南辺を堀代わりの谷川で画し、東の茶臼山と西の八幡山の山腹に砦を設け、単に隠棲するのではなく武田信玄に密使を送るなどこの地で再起を図りましたが、北畠信意(織田信雄)が差し向けた長野左京進らにより具教が謀殺された後は、森清十郎が城主となりました。

カズサンさんに倣って茶畑の間の駐車場から登城しました。三瀬館の前にも広い駐車場があり、駐車場北側の館跡には石垣が見られますが、これが城びとの城郭情報にある遺構の石垣でしょうか? 北側の山裾には階段状に削平された館跡が広がっていて、北畠具教卿三瀬館趾の石碑と説明板が立てられています。

館跡には北畠具教最期の地として胴塚の碑と説明板も立てられていて、堀代わりと思しき南辺の谷川を越えたところには胴塚が祀られています(石碑もあります)。胴塚と云うからには首塚もあり、三瀬館から西北西に約9km、松阪市飯高町野々口の山中に五輪塔が建てられていますが、具教の首を奪い返した家臣が霧山城に向かう途中で霧山城落城の報を受けて、やむなくこの地に埋葬したものと伝わります(下滝野城から九曲城への道中にあるため、首塚は前週に訪れました)。その他、八幡山麓の北畠神社(南西に徒歩約5分)には具教が主祭神として祀られています。

三瀬館から東に徒歩約5分の茶臼山中腹には砦が設けられ、見張所として機能しました。現在は公園として整備され、主郭には秋葉社が祀られています。主郭からは宮川と熊野街道、三瀬の町並みを見渡す眺望が開けており見張所だったことを納得しました。見事な堀切をはさんだ北側にも細長い曲輪があり、東屋が建てられています。

目立った遺構はほとんどありませんが、松阪市内の城めぐりをしていると北畠具教の名に接することが多いだけに、その終焉の地を訪れて、館跡に胴塚、神社など具教の無念を伝える多くの史跡に触れることができたのは感慨深いものがありました。
 

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カズサン

伊勢未踏の城廻Ⅱ (2023/03/19 訪問)

 三瀬砦に次いで以前から訪ねたかった、北畠具教終焉の三瀬館を初探訪しました。

 駐車場:34°24'18"N 136°25'09"Eの地点、茶畑の中に3台分のスペースの駐車場が用意されている。ここは古城盛衰記さんの案内と同じところ、三瀬砦跡から県道770号線を西行し国道42号線を渡り中部電力の建物横を通り紀勢本線を渡り北に約400m辺り。
 要所要所に案内指示版が有ります。

 車を駐た所から案内板に従って北に100~200m程の所に三瀬館跡があります、西から南面に谷筋の川が流れて水堀の様、鎌止山麓斜面にほぼ三段の館跡、現在は公園になっている、桜、楓が植栽されており春の花見、秋の紅葉狩りでは人出もあるでしょう、館跡には「北畠具教卿三瀬館跡」と刻んだ石碑と案内板、胴塚の碑と案内板、庭園の池、東屋が設けられている。
 東遊歩道を進むと茶臼山見張り所の案内もあり訪ねる、麓に館跡の周辺案内図が有り分かり易い、ただ熊注意の看板ありドキッとするが大阪から来られた親子連れと一緒に登る、見晴らしは良く三瀬地区を俯瞰でき、見張り所には秋葉神社が鎮座。
 戻って館跡から南に谷筋川を渡ると北畠具教卿の胴塚と歌碑がある。

 南北朝時代活躍した南朝方の北畠親房の子孫伊勢国司八代北畠具教は伊勢に進出した織田信長との攻防の末、信長次男信雄を養子に迎えて和睦し三瀬館で隠棲し勢威を図ったが、天正4年(1576年)信長の指示により信雄のさしむけた刺客に謀殺られた。(案内板による)
 
 この後は昼のサイレンも鳴り、「道の駅南伊勢おおだい」でトイレ休憩と持参したおにぎりで昼食、駐車はやっと1台確保の状態の賑わいでした晴天、桜もちらほら、こぶしにモクレン、ミツマタの花など咲き、花粉が無ければ最高の日和でした。
 

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 北畠具教
築城年 元亀2年(1571)
主な城主 北畠氏、森氏
遺構 曲輪、石垣、堀切、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(北畠具教三瀬館跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県多気郡大台町上三瀬字大戸地1012他
問い合わせ先 三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護室
問い合わせ先電話番号 059-224-2999