みせやかた

三瀬館

三重県多気郡

別名 : 北畠具教三瀬館、三瀬御所
旧国名 : 伊勢

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①削平地
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昌官忠

(東海&関西)遠征218日目:三瀬館 (2025/06/04 訪問)

三瀬砦から徒歩15分くらいで、三瀬館入口(34.404813、136.419095)に着きました。
そこから、北畠具教胴塚(34.405657、136.419448)➡三瀬館➡北畠神社分岐点(34.403991、136.417377)の順番で巡りました。

1571年元亀2年()北畠具教によって築かれたと云われています。
1569年(永禄12年)北畠具教は大河内城で織田信長の軍勢と戦いますが、信長の次男信雄を養子に迎えて家督を譲ることで和睦となり、隠居して大河内城より三瀬館に移りました。
しかし、1576年(天正4年)に織田信雄が差し向けた客により謀殺されると、信長の命で森清十郎が城主となりました。

数段に削平された曲輪と石垣からなる館跡です。背後の愛宕山に見張り台があるようですが行っていません。
攻城時間は40分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、伊勢市駅に戻り荷物をコインロッカーより取り出した後、伊勢市駅から電車で松阪駅に向かいました。
歩行歩数=33020歩、歩行距離=23.1Kmです。

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ぴーかる

三瀬の変 (2024/06/08 訪問)

【三瀬館】
<駐車場他>「北畠家の遺跡をたどるみち駐車場」3台分程に駐車しました。館跡にも2台分程のスペースがあります。
<交通手段>車

<見所>曲輪・石垣・山腹の詰めの曲輪
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅2城目。現地説明板によると三瀬館は伊勢国司8代北畠具教の隠居地で1569年に大河内城の戦いに敗れ和睦の条件として織田信雄を養継子とした後、この地に居館を造り隠居します。北畠具教は1576年に三瀬の変において織田信長の刺客により誅殺されてしまいます。
 まず館跡の南にある北畠具教公の胴塚にお参りし館跡を散策しました。館跡は説明板には3段とありますが最上段の砂防壁の曲輪(石積み跡が僅かに残っているので)まで入れると5段程のひな壇状の曲輪になっています。正面虎口の大石の石垣が見事です。中段程に庭園跡らしき池や石組暗渠が残っています。また石段も良く残っていて当時の館の雰囲気が残ります。
 次に見張り台跡に登りました。東屋のある曲輪と秋葉神社がある曲輪の2つの曲輪が南北にあり、間を堀切で仕切っています。神社のある曲輪からは三瀬地区が一望できます。
 以前から三瀬の変は歴史小説か何かの本で読んで、信長の苛烈さに衝撃を受けて知っていました。プランを立てている時から散策終わりまでずっと頭の中に「三瀬の変」がくっついていました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

三瀬の変 (2024/02/18 訪問)

三瀬館は三瀬御所と呼ばれた北畠具教の館跡で上三瀬の山麓に築かれていました。天正4年(1576)11月25日、織田氏の策略で長野左京進・滝川三郎兵衛尉(雄利)・柘植保重らによって具教が殺害され、具教の子の四男・徳松丸と五男・亀松丸そして北畠家臣14名も押し入ってきた軍勢に殺害されたとされています。(三瀬の変)
館跡自体の遺構はさほど残っておらず、幾段かの扁平地が斜面に沿って連なり最大で九段ほどあるようです。東西には砦である茶臼山と八幡山があり(行ってない)、川を挟んだ南側には具教卿の胴塚があり、案内板に従っていけば難なくたどり着くことが出来ます。
一連の騒乱で名門・北畠家もほとんど絶えてしまい、伊勢国は織田氏に乗っ取られてしまいます。キャストは一部異なりますが、映画「忍びの国」の序盤で三瀬の変が描かれています。

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イオ

北畠具教最期の地 (2024/05/04 訪問)

戦国末期に北畠具教が隠居所として築いた城館で、西辺から南辺を堀代わりの谷川で画し、東の茶臼山と西の八幡山の山腹に砦を設け、単に隠棲するのではなく武田信玄に密使を送るなどこの地で再起を図りましたが、北畠信意(織田信雄)が差し向けた長野左京進らにより具教が謀殺された後は、森清十郎が城主となりました。

カズサンさんに倣って茶畑の間の駐車場から登城しました。三瀬館の前にも広い駐車場があり、駐車場北側の館跡には石垣が見られますが、これが城びとの城郭情報にある遺構の石垣でしょうか? 北側の山裾には階段状に削平された館跡が広がっていて、北畠具教卿三瀬館趾の石碑と説明板が立てられています。

館跡には北畠具教最期の地として胴塚の碑と説明板も立てられていて、堀代わりと思しき南辺の谷川を越えたところには胴塚が祀られています(石碑もあります)。胴塚と云うからには首塚もあり、三瀬館から西北西に約9km、松阪市飯高町野々口の山中に五輪塔が建てられていますが、具教の首を奪い返した家臣が霧山城に向かう途中で霧山城落城の報を受けて、やむなくこの地に埋葬したものと伝わります(下滝野城から九曲城への道中にあるため、首塚は前週に訪れました)。その他、八幡山麓の北畠神社(南西に徒歩約5分)には具教が主祭神として祀られています。

三瀬館から東に徒歩約5分の茶臼山中腹には砦が設けられ、見張所として機能しました。現在は公園として整備され、主郭には秋葉社が祀られています。主郭からは宮川と熊野街道、三瀬の町並みを見渡す眺望が開けており見張所だったことを納得しました。見事な堀切をはさんだ北側にも細長い曲輪があり、東屋が建てられています。

目立った遺構はほとんどありませんが、松阪市内の城めぐりをしていると北畠具教の名に接することが多いだけに、その終焉の地を訪れて、館跡に胴塚、神社など具教の無念を伝える多くの史跡に触れることができたのは感慨深いものがありました。
 

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 北畠具教
築城年 元亀2年(1571)
主な城主 北畠氏、森氏
遺構 曲輪、石垣、堀切、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(北畠具教三瀬館跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県多気郡大台町上三瀬字大戸地1012他
問い合わせ先 三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護室
問い合わせ先電話番号 059-224-2999