みせやかた

三瀬館

三重県多気郡

別名 : 北畠具教三瀬館、三瀬御所
旧国名 : 伊勢

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三瀬館跡登りスロープ
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カズサン

伊勢未踏の城廻Ⅱ (2023/03/19 訪問)

 三瀬砦に次いで以前から訪ねたかった、北畠具教終焉の三瀬館を初探訪しました。

 駐車場:34°24'18"N 136°25'09"Eの地点、茶畑の中に3台分のスペースの駐車場が用意されている。ここは古城盛衰記さんの案内と同じところ、三瀬砦跡から県道770号線を西行し国道42号線を渡り中部電力の建物横を通り紀勢本線を渡り北に約400m辺り。
 要所要所に案内指示版が有ります。

 車を駐た所から案内板に従って北に100~200m程の所に三瀬館跡があります、西から南面に谷筋の川が流れて水堀の様、鎌止山麓斜面にほぼ三段の館跡、現在は公園になっている、桜、楓が植栽されており春の花見、秋の紅葉狩りでは人出もあるでしょう、館跡には「北畠具教卿三瀬館跡」と刻んだ石碑と案内板、胴塚の碑と案内板、庭園の池、東屋が設けられている。
 東遊歩道を進むと茶臼山見張り所の案内もあり訪ねる、麓に館跡の周辺案内図が有り分かり易い、ただ熊注意の看板ありドキッとするが大阪から来られた親子連れと一緒に登る、見晴らしは良く三瀬地区を俯瞰でき、見張り所には秋葉神社が鎮座。
 戻って館跡から南に谷筋川を渡ると北畠具教卿の胴塚と歌碑がある。

 南北朝時代活躍した南朝方の北畠親房の子孫伊勢国司八代北畠具教は伊勢に進出した織田信長との攻防の末、信長次男信雄を養子に迎えて和睦し三瀬館で隠棲し勢威を図ったが、天正4年(1576年)信長の指示により信雄のさしむけた刺客に謀殺られた。(案内板による)
 
 この後は昼のサイレンも鳴り、「道の駅南伊勢おおだい」でトイレ休憩と持参したおにぎりで昼食、駐車はやっと1台確保の状態の賑わいでした晴天、桜もちらほら、こぶしにモクレン、ミツマタの花など咲き、花粉が無ければ最高の日和でした。
 

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北畠具教終焉の地 (2022/08/20 訪問)

 北畠具教終焉の地として知られる三瀬館跡へ行ってきました。階段状の削平地があり、案内板には「館跡は鎌止山の麓斜面を改修してほぼ三段にしつらえられている、、」と記載がありますが、現状はもう少しあると思います。石垣がありましたが、当時のものか否かはわかりません。近くに北畠具教の胴塚があります。見張り台の茶臼山には堀切を見ることができます。館跡は整備され紅葉スポットだそうです。夏でも支障なく散策することができました。徒歩5分くらいの所に北畠具教を主神とする北畠神社があります。

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キンヤ

映画「忍びの国」を見て行きたかった、北畠具教の三瀬館 (2018/12/16 訪問)

織田信雄を養子に迎えること、北畠具教は隠居することの条件で信長と和議を結び、隠棲した所で、その後、具教は信長の命により信雄の刺客により殺されてしまいました。

映画「忍びの国」の三瀬館のシーンでは、具教と元家臣の長野左京亮・日置大膳との斬り合いが見応えありました。

遺構としては7段位に削平された曲輪と見張り台であった茶臼山に堀切、近くの民家脇に具教の胴塚がありました。

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がっくん

北畠具教の館 (2009/05/02 訪問)

一般的な観光地ではなく、歴史上消された人であるので淋しい所だな・・・

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 北畠具教
築城年 元亀2年(1571)
主な城主 北畠氏、森氏
遺構 曲輪、石垣、堀切、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(北畠具教三瀬館跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県多気郡大台町上三瀬字大戸地1012他
問い合わせ先 三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護室
問い合わせ先電話番号 059-224-2999