やながわじょう

柳川城

福岡県柳川市

別名 : 柳河城、舞鶴城
旧国名 : 筑後

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①	ひまわり園
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トク

「水郷柳川」日帰り散歩③(ひまわり園) (2023/09/16 訪問)

今回の訪問のもう一つの目的は、実はここ柳川城から5kmほど南西の有明干拓地にひまわり園があり、今週がちょうど見頃で、無料シャトルバスが出ているとの情報を得たので、柳川城を見た後に寄ってきました。広大な敷地の中に50万本のひまわりが咲いていてとてもきれいでした(写真①②)。ふと反対側を眺めると有明海と長崎県がかすかに見えました(写真③)。清掃協力金500円を寄付すると、ひまわりの種もらえました(写真④)。

現在も昼はまだ30°を超える残暑が続いていますが、柳川を散策し、ここで夏の終わりを告げるひまわりを眺めていると、何だかとても気持のいい一日になりました。

〆はもちろん、柳川名物「うなぎのせいろ蒸し」です!(写真⑤)😊
 

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トク

「水郷柳川」日帰り散歩②(立花家資料館と御花) (2023/09/16 訪問)

柳川城から5分程歩いた所に「立花家資料館」と立花家別邸「御花(おはな)」があります。

資料館には、立花家の歴史や、宗茂や歴代当主の具足や秘蔵品などが展示されています(写真①②)。柳川城を訪れた際には、ぜひここにも立ち寄られる事オススメします。

また御花には、江戸期からある庭園や、明治期に建てられた洋風建物があります(写真③④)。ここにある立花の金兜は必見です!(写真⑤) 立花家にはまだ200個程の金兜が残っているそうです。これをかぶった軍勢は、さぞかし強そうに見えただろうな~🤔(実際に蔚山の戦いでは強かった)。またここ御花は、地元柳川出身の元大関琴奨菊が大関襲名披露や結婚式を行なった場所でもあります(写真⑥)。

【余談】宗茂の妻「誾千代(ぎんちよ)」物語
立花宗茂の実の父は、岩屋城で壮絶な討死をした高橋紹運ですが、その岩屋城の戦いの前に立花城を守っていた大友宗麟の筆頭家臣であった立花道雪のその一人娘「誾千代」に宗茂は婿養子として入り立花家を継ぎ、誾千代と共に立花城を守ります。ここにも女城主はいたのですね~🤔。道雪は宗麟の命で柳川城に籠る龍造寺氏を攻めますが落とす事ができず、その帰途に病死してしまいます。誾千代にとって柳川城は因縁の城だったというわけです。それから岩屋城が島津から攻められるまでの8年間、父に代わり立花城で女城主として戦いに明け暮れる日々が続きます。鎧に身をまとい、城兵を鼓舞した勇ましい女城主だったとか・・・。島津との戦も終わった誾千代は、秀吉の命により柳川城へ宗茂と共に移り住みます。そして宗茂が朝鮮出兵の留守中には再び女城主となり、家中をまとめ鎧姿で名護屋城の秀吉の元へまで行ったという逸話も。その間に不仲説などもささやかれたようですが、結局夫の宗茂が関ケ原で敗れ、疲れ果ててわずかな兵で帰還する際中、筑後川に陣を敷いて宗茂を待ち構えていた鍋島軍を破って柳川城まで連れ帰り、また城を囲んだ加藤清正とも戦っているので、実際には夫の宗茂を守り抜くほど仲むつまじかったようです。しかし宗茂は改易となり、奥州棚倉に移されると離れ離れになります。それからは神社に願掛けをし、今か今かと帰りを待ちわびたそうです。その後田中家断絶により宗茂が棚倉より再び帰還しますが、その直前に、宗茂に再び会える事なく病で亡くなったそうです。

次は、最後に柳川の近くに行きたい場所があったのでちょっとよって帰ります。
 

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トク

「水郷柳川」日帰り散歩①(柳川城) (2023/09/16 訪問)

柳川を日帰りで訪れ散策してきました。
福岡の中心地天神から西鉄特急に乗り50分、柳川駅でバスに乗り換え10分、柳川高校前で下車すると柳川城跡です(写真①②)。ちょうど乗った電車が柳川観光をモチーフにした特急「水都」で電車内に立花家の刀なども飾られた電車でした(写真⑨⑩)。

ここは私の好きな立花宗茂の居城です。最初に築城したのは1560年頃の蒲池(かまち)氏と伝えられています。しかし肥前の龍造寺氏から攻められ滅ぼされたようです。そして龍造寺氏も滅亡後、秀吉の九州征伐での恩賞として宗茂にこの地が与えられ、立花城よりここに移り住みました。しかし関ケ原で西軍についたため、敗れ帰還するも、家康の命で城を受け取りに来た加藤清正・黒田官兵衛に降伏して城を明け渡し改易となります。

かつて明治時代に火災で焼失するまでは5重5階の層塔型の天守がここに建っていました。焼失前の写真や地元の方が作った模型がありました。現在は柳川高校の敷地になっていて、石碑と説明板があるのみで、かつてここに城があった事を伝えています(写真①②③)。説明を読んでいたら何人もの野球部の生徒から挨拶されました😯オス!

柳川の今ある堀割は関ケ原後に入った田中吉政によるものです(写真⑥⑦)。写真④の天守もこの時に田中吉政が築城したものです。しかし吉政の子の忠政に嫡子なく田中家は2代で断絶、ここで何とまた立花宗茂が秀忠の御伽衆や家光に戦経験の語り部を務めた幕府での功績が認められて復帰し、幕末まで立花家が代々柳川藩主となりました。関ケ原の敗軍の将で旧領に復帰したのは立花宗茂ただ一人だけです。

またもう一方で考えてみると、田中吉政という人物は、近江八幡城→岡崎城→柳川城と、いずれも経済発展を遂げたすばらしい城下町を作ったので、その手腕には感心します。石田三成を丁重に扱ったその紳士的態度にも感心です。吉政はここ柳川で没し、眞勝寺に菩提が弔われています(写真⑧)。

次は立花家資料館に続きます。

【余談】松田聖子
松田聖子は柳川からほど近い久留米の出身で、本名は蒲池法子(かまちのりこ)です。柳川の蒲池氏と関係があるかはわかりません。ただそれだけです・・・🤔?
 

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10Q-Nobu

現代に甦る藩札 (2023/07/27 訪問)

鰻食べる目的で柳川を訪問。
水郷の城下町として整備されてますが、城趾は中学校、高校の敷地に挟まれるように残っているだけで寂しい限り。入る道を間違えると校内に侵入しそうになります。
水路が張り巡らされた城下町の造りを楽しむのが主体ですかね。
あと街のプレミアム商品券が「藩札」の名称で発行されているのに地元愛を感じますね。

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 複合式層塔型[5重5階/1601年築/焼失(放火?)]
築城主 蒲池治久
築城年 文亀年間(1501〜1504)
主な改修者 田中吉政
主な城主 蒲池氏、立花氏、田中氏
廃城年 明治5年(1872)
遺構 曲輪、天守台、石垣、横堀(水堀)
指定文化財 市史跡(柳川城本丸跡)、国名勝(水郷柳河)
再建造物 石碑、説明板
住所 福岡県柳川市本城町88
問い合わせ先 柳川市生涯学習課文化係
問い合わせ先電話番号 0944-77-8832