「水郷柳川」日帰り散歩⑤(天守跡で新発見?)
(2024/03/04 訪問)
日帰り散歩④の続きです。北原白秋の歌を口ずさみながら、掘割り沿いを歩き、柳川城の本丸天守跡に着きました。今は何も残っていませんが、ここには天守台の石垣とその上に五重の天守が建っていました(写真①②③④)。
関ケ原当時は、ここは立花宗茂の居城でした(写真⑤)。そして関ケ原後には田中吉政が、石田三成を捕らえた功績で、岡崎10万石から筑後柳川32万石に加増されて1601年に入り、その五重の天守を築きました。明治5年までその天守は残っていましたが、火災で焼失したとの事です。その明治期の写真が説明板にありました(写真⑥)。それをいつものように眺めていると(ん?🤔)ここで新たな発見が・・・ 天守部分を拡大してみます(写真⑦)。この写真、どこかの城にそっくりだと思いませか? そう岡崎城に何となく似ていると思いませんか?
そういえば岡崎城を建てたのも田中吉政(家康時代は土造りの城)、柳川城の天守を建てたのも田中吉政(宗茂時代は土造りの城)です。そう普通に考えると、ここには岡崎城にそっくりな天守が建っていたとしても、何の不思議ではない気がします。
でもよく考えると、吉政は岡崎城の天守台までは造りましたが、実際に建てたかはわかっていません。その後に入った本多康重・康紀父子が、吉政の天守台を拡張して1617年に三重の天守を完成、その天守が明治の廃城令まで残っていたとされています(現在は模擬天守)。
ならば、なぜ先に完成した柳川城が後に完成した岡崎城に似ているのか? あるいは、本多父子が吉政の指南を受けながら柳川城をまねて岡崎城を築城したのか? あるいは、吉政はmini版の岡崎城を築城していて、本多父子は単にそれを拡張して造り変えただけなのか? はたまたこれは単なる偶然なのか? それとも私の目の錯覚なのか? 疑問が尽きなくなりました。
はたして真実は?
お聞かせ下され吉政殿~!(写真⑧⑨⑩)
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