おおたほんごうじょう

太田本郷城

富山県富山市

別名 : 太田本郷館、太田本郷塁
旧国名 : 越中

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城址碑
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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:太田本郷城 (2022/07/30 訪問)

布市城からの転戦です。浮田家住宅駐車場(36.659080、137.243885)に駐車して、城址碑と説明板前(36.660064、137.243298)に向かいました。

1572年(元亀3年)加賀・越中の一向一揆が東進して火宮城を攻め落とし富山城を占拠すると、1573年(元亀4年)上杉謙信の配下で越中方面の総指揮官であった越中国松倉城主河田長親によって築かれたようです。
1578年(天正6年)上杉謙信が急死した後、織田信長に仕えていた神保長住が越中に入国すると、長住は津毛城に入り、斎藤新吾利治が太田本郷城に陣を構えました。
月岡野の戦いを経て今泉城を落とした織田勢は、一時的に越中国攻略の足場を築きました。
その後の太田本郷城の動向は不明のようですが、1578年(天正6年)12月に椎名駿河守(椎名景直)なる者が上杉方から織田方へと寝返って、その見返りとして信長より越中国太田保を賜り、彼が太田本郷城へ入った可能性もあるようです。
斎藤利治(新五)が治めたという説もあるようですが、彼は以後本能寺の変に至るまで織田信忠に付き従っています。
なお、江戸時代の越中国今泉の十村に利治の後裔を称する斎藤家があったそうです。

円光寺の西の交差点付近に「太田本郷城趾」の石碑及び「説明板」が建てられています。
また南方に、1690年(元禄3年)加賀藩より禄高500石にて代々奥山廻役を任されていた豪農浮田家の住宅があります。
浮田家住宅は時間的に閉まっていたので見学できませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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ぴーかる

太田本郷城 (2022/05/21 訪問)

【太田本郷城】
<駐車場他>浮田家住宅入館(有料)前提で駐車できる。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山城の旅5城目。太田本郷城は1573年に上杉謙信の配下松倉城主河田長親が一向一揆の城の向城として築いたのがはじまりで一揆撃退後は越中国に代官を置いた今泉城の付城として利用されました。織田信長軍が侵攻し御館の乱の際には家中に動揺が広がり上杉勢は太田本郷城を放棄して織田軍が入ります。
 現地に遺構は残っておらず石碑と説明板があるのみです。発掘調査で堀と掘立柱建物跡やかわらけが大量出土したそうですが堀・建物跡は水田に埋没しています。
 近くにある浮田家住宅は加賀藩の役邸で浮田家は藩の廻役、のちに代官職として明治まで継承したそうです。

<満足度>◆◇◇

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釜次郎

太田本郷城 (2021/02/28 訪問)

解説版と城跡碑がありましたが、遺構は見当たりませんでした。

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todo94

城址碑と説明板 (2019/11/02 訪問)

遺構は見当たりませんが、城址碑と説明板があるだけでもありがたいです。近くには円光寺がありますが、ここも城域に入るでしょうか。国重文の浮田家が近くにあったのですが、先を急いでいたのでパスしてしまいました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 河田長親
築城年 元亀4年(1573)
主な城主 河田氏、斎藤氏、椎名氏?
廃城年 天正6年(1578)以降
遺構 (発掘調査:堀跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 富山県富山市太田南町字西ノ田