布市城からの転戦です。浮田家住宅駐車場(36.659080、137.243885)に駐車して、城址碑と説明板前(36.660064、137.243298)に向かいました。
1572年(元亀3年)加賀・越中の一向一揆が東進して火宮城を攻め落とし富山城を占拠すると、1573年(元亀4年)上杉謙信の配下で越中方面の総指揮官であった越中国松倉城主河田長親によって築かれたようです。
1578年(天正6年)上杉謙信が急死した後、織田信長に仕えていた神保長住が越中に入国すると、長住は津毛城に入り、斎藤新吾利治が太田本郷城に陣を構えました。
月岡野の戦いを経て今泉城を落とした織田勢は、一時的に越中国攻略の足場を築きました。
その後の太田本郷城の動向は不明のようですが、1578年(天正6年)12月に椎名駿河守(椎名景直)なる者が上杉方から織田方へと寝返って、その見返りとして信長より越中国太田保を賜り、彼が太田本郷城へ入った可能性もあるようです。
斎藤利治(新五)が治めたという説もあるようですが、彼は以後本能寺の変に至るまで織田信忠に付き従っています。
なお、江戸時代の越中国今泉の十村に利治の後裔を称する斎藤家があったそうです。
円光寺の西の交差点付近に「太田本郷城趾」の石碑及び「説明板」が建てられています。
また南方に、1690年(元禄3年)加賀藩より禄高500石にて代々奥山廻役を任されていた豪農浮田家の住宅があります。
浮田家住宅は時間的に閉まっていたので見学できませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。
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