じょうのうじょう

城生城

富山県富山市

別名 : 城尾城、城野城、蛇尾城、天狗平城、恵智谷城
旧国名 : 越中

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城址碑 
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しんちゃん

南北に長い城域を持つ (2015/10/23 訪問)

城生城は神通川の左岸にある丘陵上に築かれています。文和年間(1352~1356)に斎藤常喜によって築かれたとされ天正11年(1583)に佐々成政によって攻められ落城したとのことです。
落城後、佐々成政によって改修が加えられているようで、主郭の周囲には空堀が配されています。城址碑のある細長い部分と北の広い部分を主郭とするとして、主郭の南側には特に複雑な縄張りが配されているようです。

チンチン山は富山市婦中町にある遺跡です。新町大塚古墳ともいいますが、行き倒れた僧が鉦を鳴らしながら読経をして、やがて亡くなったためチンチン山というらしいです。深い意味は無いです。近くを通りかかったら不思議な名前の遺跡があったので寄って見ただけです。(チンチンってNGワードじゃないんだ へっへっへ‥)

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:城生城 (2022/07/30 訪問)

井田主馬ヶ城からの転戦です。本丸ルート入口付近(36.574779、137.177985)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、斎藤氏によって築かれたと云われています。
斎藤氏は南北朝時代の斎藤左衛門大夫入道常喜が、婦負郡楡原保一帯を所領として以来の豪族で、戦国時代末期に斎藤信利が織田信長の武将佐々成政によって追われるまで、この辺り一帯に勢力を持っていたそうです。
1552年(天文21年)上杉氏に属していた願海寺城主寺崎民部左衛門盛永と天神林付近で戦って敗れ、井田館はこのとき落城したようです。
その後、上杉氏に属していましたが1578年(天正6年)に上杉謙信が没すると、飛騨から侵攻した織田氏に従い、上杉方の今泉城攻めなどで戦功を挙げました。
しかし、1581年(天正9年)には弓庄城主土肥氏とともに上杉氏と結び織田の武将佐々成政に敵対します。
1583年(天正11年)佐々成政と神保氏張の軍勢によって城生城は攻められ落城、城主斎藤信利は姉小路頼綱を頼って飛騨へ逃れ、後に徳川家康に仕えて江戸時代は旗本として続いたそうです。
斎藤氏の後は、佐々成政の家臣佐々與左衞門、前田氏の家臣青山佐渡・篠島織部と続きますが、慶長年間には廃城となったようです。

県道25号線横に案内板があり、本丸ルート入口があります。
本丸ルート入口付近に路駐しましたが、長時間路駐できそうにないので、入口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=猿倉城に向かいます。

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釜次郎

雨の中急ぎ足で (2021/03/05 訪問)

この城最大の見所は大空堀。切岸の高さに戦慄。

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todo94

壮大な空堀 (2019/11/02 訪問)

富山県に入って最初の城は、城生城。主郭の周りを巨大な空堀がめぐっていて壮観です。主郭に入る手前から空堀を俯瞰する事もできます。腰郭や井戸跡などにも脚を伸ばしました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 斎藤常喜?
築城年 南北朝時代?
主な改修者 佐々成政?
主な城主 斎藤氏、佐々与左衛門(佐々氏家臣)、青山佐渡守・篠島織部(前田氏家臣)
廃城年 慶長5年(1600)以降
遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、切岸、虎口、馬出、土橋
指定文化財 市史跡(城生城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 富山県富山市八尾町城生
問い合わせ先 富山市生涯学習課
問い合わせ先電話番号 076-443-2137