とみさきじょう

富崎城

富山県富山市

別名 : 滝山城、滝山塁、福山城
旧国名 : 越中

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しんしんちゃん

様々な勢力が使った城。立地が良いのだろう。 (2021/11/18 訪問)

富崎城は山田川の南に接する丘陵に築かれています。周囲は田原で、東側の虎口周辺に
案内板が立てられていて、そこから主郭に侵入します。主郭内には城址碑、井戸があり
内掘を経て二郭に侵入します。城の周囲は外堀で覆われています。案内板を見ると
主郭と二郭の間に小さな郭があり馬出しの役目をしているようです。もともとは
越中の有力武将、神保氏の支城だったらしいのですが、神保長職の時代に上杉謙信に
攻められ、下ったとも討死したともあります。元亀2年(1571)には長職の旧臣水越氏が
一向一揆とともに籠ったため、9月に謙信に攻められ城は焼き払われたと有ります。
その後もさまざまな勢力に使われましたが、佐々の支城の時代に佐々が秀吉に降伏した
前後に廃城になったと思われます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:富崎城 (2022/07/30 訪問)

長沢西城からの転戦です。案内板手前の空スペース(36.642043、137.118594)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1441年(嘉吉元年)に神保八郎左衛門が居城していたと伝えられています。
それから百年ほど経て、富山へ進出した神保長職(ながもと)が天文年間(1532年〜1555年)に本格的に築城したようです。
永禄年間(1558年〜1570年)に長職は上杉謙信に攻められ蓮花寺の深沼で討死したと伝えられていましたが、実際には1562年(永禄5年)に上杉謙信に降り増山城へ移ったようです。
その後、上杉氏の支城として利用され、1578年(天正6年)に上杉謙信が没すると、織田信長に仕えていた神保長住が織田氏の先陣として飛騨より越中へ侵攻し、上杉勢と戦いました。
1581年(天正9年)長職の旧臣寺嶋牛之助・小島甚助らが織田氏に対して挙兵、富崎城を本拠に織田氏に対抗しましたが、同年5月富崎城を攻められると城に火を放ち大道城へと逃れました。
その後佐々成政の支城となり、城生城の斎藤氏攻めの拠点として使われたようですが、詳細は不明のようです。
成政が秀吉に降伏した1585年(天正13年)頃には、廃城となったようです。

富崎城は山田川に面した台地の北端に築かれており、 背後の北側には山田川が流れています。
説明板によるとA郭、B郭、C郭、D郭の4つで構成されているようです。
D郭から城内に進入しA郭に入るようですが、説明板までは行けますが、その先は草が自分の背丈くらいあり、郭内に入ることが出来ません。
付近を散策して登城できる場所を捜しましたが見つかりませんでした。
C郭の南側にある外堀は確認できました。。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=井田主馬ヶ城に向かいます。

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todo94

豚コレラ (2019/11/02 訪問)

豚コレラの拡散防止のため、城の脇を通る道路は通行制限されていました。説明板に縄張り図が載っていたのでそれを参考に、内堀や外堀、井戸などを見て回りましたが、馬出の部分はよくわからなかったです。

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カズサン

越中城廻Ⅴ 規模の大きい土の城 (2017/06/14 訪問)

 一昨年6月八尾町の城生城を終えて同市内婦中町の富崎城へ段丘丘陵北端に土の城が築城されている余湖図コレクションさんの俯瞰図を見ると大きな横堀で曲輪を分け段丘崖以外にぐるっと横堀城塁を南面東面に構えてる様子が伺える。
 今回夏草、茅野草が大きく生い茂り登る事も土塁、堀、曲輪を見る事が出来ませんでした草が刈られた頃の初冬か草が茂前の桜頃が探訪にいい時期でしょう。
 手前に弥生期の富崎古墳群と案内解説板が有ります。
 車は富崎城案内標識辺り停められる。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 神保八郎左衛門
築城年 嘉吉元年(1441)
主な改修者 水越氏、上杉氏
主な城主 神保氏、水越氏、寺島氏、一向一揆勢
廃城年 天正9年(1581)
遺構 曲輪、横堀(空堀)、井戸
再建造物 碑、説明板
住所 富山県富山市婦中町富崎
問い合わせ先 富山県埋蔵文化財センター
問い合わせ先電話番号 076-434-2814