あさごいじょう

浅小井城

滋賀県近江八幡市

別名 : 無双山湖月城
旧国名 : 近江

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①多武木神社
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):浅小井城 (2024/10/09 訪問)

北之庄城から徒歩40分くらいで、畑に続く細道(35.143384、136.115153)に着きました。
そこから、多武木神社(35.143597、136.115505)に向かいました。祠の中に多武木神社の説明板がありました。

浅小井城は鎌倉時代に浅小井四郎長家により築かれたようですが、元々居館形式の城を、戦国時代になって拡張修築したと考えられるそうです。
長家は、佐々木氏の一族で蒲生郡浅小井村を領して浅小井氏を称したそうですが、長家の子清長より深尾氏を称し、戦国時代には京極・六角氏に仕えました。
深尾元範は六角高頼より浅小井城築城を命じられ、元徳-元秀と六角氏家臣団の中で勢力を誇ったが、元秀の子秀長が伊庭氏の乱で伊庭氏に与したため、浅小井氏は滅び、1568年(永禄11年)に織田信長の上洛作戦により落城したようです。
1584年(天正12年)には羽柴秀吉に属した池田秀氏が浅小井城主となりますが、池田氏が伊予大洲へ転封となり廃城となったそうです。

畑に続く細道(35.143384、136.115153)を進むと、木立の中に城の説明板があるはずですが、無残な姿になったいました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=常楽寺城(城びと未登録 滋賀県近江八幡市)へは徒歩で向かいました。

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カズサン

多武木神社 (2024/06/24 訪問)

 近江未踏の城廻り、浅小井城を目指して曳山とイ草の館を目指して、多武木神社を訪ねる。

 駐車場:曳山とイ草の館(35°08'36"N 136°06'51"E h=90m)
 参考資料:城びと皆さんの投稿

 月曜日で曳山とイ草の館は休館、広い駐車場です、駐車場から東に100m程進むと、小さな鳥居が見えてそこが目的の多武木神社・浅小井城跡、参拝して、皆さんの投稿にあった額入り由緒を撮影、遺構周辺良く分からず民家も有り、退散しました。
 集落の道は狭く交通には要注意です。
 

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todo94

近江の城めぐり⑭ (2024/03/10 訪問)

北ノ庄城からの転戦です。多武木神社ではカーナビ目的地にヒットしなかったので、曳山とイ草の館を目指しました。神社をのぞき込んで多武木神社の説明書を拝読させていただきました。浅小井城の守護神として本丸敷地内の南東隅に鎮座されていたものとの記述があってうれしくなりました。

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ぴーかる

浅小井城 (2022/09/04 訪問)

【浅小井城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>日帰り東近江ちょこ城巡りの旅4城目。浅小井城は多武木神社由緒書(ちょっと難解なので自信がありませんが)を要約すると、平安時代後期、浅小井氏はこの地に在住し北伊勢の深尾谷の盗賊を討伐後に深尾氏と名乗ります。10代元泰は京極佐々木氏に臣従し、11代元範は六角佐々木高頼の旗下にあって1501年浅小井城の築城を命ぜられ三代在住します。深尾氏の後は六角佐々木義賢は山中俊好を封与しましたが、織田氏が六角佐々氏を下したので伊佐氏の預かる所となり、秀吉時代には池田築後守(筑後守の誤り?)直輩を6万石で封じますが、1595年伊予松山に転封となった為に廃城・破却されたようです。
 とりあえず多武木神社に行って周辺を見まわしましたが説明板らしきものもなく、本丸跡と思われる畑を撮影して帰宅後先達方の投稿を読み直して畑の真ん中に朽ちた説明板があったと思い出し撮った写真を拡大したら今でも朽ちたままでした。城情報では堀・石垣があるようなのですが・・・。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 水城
築城主 浅小井元範
築城年 明応5年(1496)
主な城主 浅小井氏、山中俊春、伊佐氏、池田秀氏
遺構 石垣、横堀、館跡
住所 滋賀県近江八幡市浅小井町