とみながじょう

富長城

鳥取県西伯郡


旧国名 : 伯耆

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主郭
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ぴーかる

富長城 (2024/10/05 訪問)

【富長城】
<駐車場他>軽なら鳥居前に停めれそう。大きければ裏に回って境内まで行ける。
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅6城目。富長城の情報は少ないですが、元弘年間(1331〜1334年)に名和氏に協力した荒松氏によって築かれたとされます。主な改修者に福頼氏がおり、福頼氏は室町時代から安土桃山時代の国人で室町時代は山名氏の被官、戦国時代は尼子氏に対抗して毛利氏の傘下となります。城びとの城郭情報では廃城年が1524年になっているので尼子経久全盛の頃なので尼子氏によって落城してしまったのかもしれません。
 現地は富長神社になっています。東と西に切通しの虎口があり、北側の海に面した崖以外の3方を高土塁で囲んでいます。東側の鳥居の奥が小川がある堀切になっていて、小川が滝になっていてなかなかの急峻でありました。

<満足度>◆◆◇

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ろっし

お城探訪 (2022/08/27 訪問)

小さい城跡ですが深い堀切には見応えあり。
入り口には虎口もあり、高い土塁に囲まれ立派な城跡でした。

只、奥の方は藪化しておりクモの巣が凄かった

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅢ (2022/06/21 訪問)

 小波城を終えて9号線を東進、大山町富長(富長神社)を目指す、ガイドは余湖図コレクションさん、グーグルマップ、神社入口の東に航空写真で駐車エリアを確認して目指し駐める。(35°29'59"N 133°28'36"E)

 第一鳥居横に富長城の標柱、案内板説明板は無い、第一鳥居を下がって石橋、下は自然水堀深い水路に成って居る大堀切の様です、参道石段を登り、両脇は高土塁、山門を潜って富長神社本殿、広い本曲輪と成って居る、杉林など樹木で鬱蒼としてる、土塁が南、東、西を囲ってる様子、北は日本海に崖で落ち込んで居る、鬱蒼としていて日本海側は確認して無い、開口部は東の参道虎口、西の虎口で本曲輪と西の曲輪の大堀切に続いてる、大堀切は現在通路で日本海側の漁港に通ってる、大堀切を北に降りて日本海を確認したが急崖である。
 南の通路土塁側から西を見ると畑と樹木の在る高台、西曲輪の物見台曲輪と3曲輪の様である。(余湖図コレクションさん俯瞰図に依る)

 大山町富長城跡の概説
 海岸を見下ろす標高26mの断崖に築かれた富長城は五角形状の主郭、西の2郭、堀が良好に残る単郭式の山城です。
 指定面積は14,227㎡と広大で、主郭には現在、富長神社が鎮座して居ます。元弘頃には名和氏家臣の荒松兵庫が居て、戦国時代には福頼周辺(米子市淀江町)を拠点とする、福頼左衛門尉が居城し、大永4年(1524年)に尼子の伯耆攻めで落とされたと伝えれれています。大山町史跡指定昭和57年11月19日
 大山町文化財室による。

 

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トーダイ

境内を高土塁が巡っています (2019/08/09 訪問)

元弘の頃に名和氏に協力した荒松氏が築いてこの地の防備にあたったと伝えられている。
室町時代は福頼左衛門尉の居城だったが、大永4年(1524)に廃城となる。

富長神社東の鳥居前スペース(1台)<35.499761,133.476392>に駐車、脇に城址標柱、
案内板はありません。本殿に向かう石段を上がると、両側に高土塁が迫ります。

約100m四方の広い境内(曲輪)を高土塁が巡っていますが、夏草とヤブ蚊に阻まれて
全ては確認できず。西にも開口部(虎口)があり、両側は立派な高土塁が固めてます。
日本海に面していますが、望めません。

猛暑日で山城は不可なので、平城に登城しましたが、ヤブ蚊で退散です。木陰の多い
(登城路であれば)山城の方がマシかも知れません。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 荒松氏
築城年 元弘年間(1331〜1334)
主な改修者 福頼氏
主な城主 荒松氏、福頼氏
廃城年 大永4年(1524)
遺構 曲輪、土塁、堀切、虎口、横堀(空堀)
指定文化財 町史跡
再建造物
住所 鳥取県西伯郡大山町富長(富長神社)
問い合わせ先 大山町社会教育課
問い合わせ先電話番号 0859-54-5212