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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:埴原城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の8城目は埴原城です。
水番城から転戦。蓮寺華・埴原城駐車場(36.187055、138.008412)に駐車し、獣除けフェンス(36.188080、138.010250)まで200mくらいでした。

埴原城は信濃国の守護・小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)が拠った城で、埴原勅旨牧(御牧)が荘園化された頃(鎌倉時代)に牧場地帯から 西の松本盆地の南部に下り、村井に館(小屋城)を構えて村井氏を称したようです。
その頃に要害城として埴原城を構えたのが この城の始まりとされています。
室町時代に小笠原氏が信濃守護職として入部した為、その支配下に入りました。
戦国時代に入ると甲斐の武田氏が 信濃に侵攻を始め、小笠原氏は本城の林城の南にある埴原城の整備強化をはかりました。
1548年(天文17年)塩尻峠の戦いの後、1550年(天文19年)武田晴信により真っ先に攻撃され落城しました。
この後、林城など小笠原氏の諸城は続々と落城し、信濃守護小笠原氏はこの地を追われることになります。
武田氏滅亡後、小笠原長時の三男である小笠原貞慶が徳川家康の支援を得て深志城などを奪還した際にこの城も取り戻して改修しています。
現在城址には石垣や土塁、畝状竪堀群などの遺構を確認することができます。

主郭より各尾根に遺構が残る大きな山城で城域が広すぎます。若干の右ひざ痛が残る中、90分かけて攻城しましたが半分も見学できていないと思います。
主郭付近は石積も良好に残っていますが、登城路にマウンテンバイク跡が残っていたのには驚きました。
攻城時間は90分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】

蜘蛛の巣をリンボーダンスでくぐり抜け

ぎっくり腰注意

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にのまる

【お城川柳】

見覚えのある道毎回迷う道

記憶にある道を通って同じ間違いを繰り返す。

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にのまる

【お城川柳】

街なかの工事現場に反応し

城跡の発掘か?

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フーマー

お城川柳

復活を祝し開けてる球磨焼酎

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小城小次郎

七夕の日に (2021/05/02 訪問)

永禄11年の七夕の日、浦上氏と勢力を二分する力を持っていた金川城の松田元賢とその父元輝は舅の宇喜多直家によって葬り去られたという。

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赤い城

生田緑地 (2021/06/27 訪問)

向ヶ丘遊園駅から徒歩で15分。
生田緑地の中、枡形山の頂上部にあります。
明確に残っている遺稿はありませんが西の冠木門から進むと堀切の跡。
埋められていて何となくの地形を感じることしかできません。
主郭部には微妙な展望台の他、遊具などもあり地元の方の憩いの場になっているようです。
扇谷上杉氏と山内上杉氏の戦いの中で北条早雲が入城した城。
今では戦があった地とは思えない感じでした。

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キンヤ

林通勝の先祖である越智氏の今は小学校に石碑がある城 (2021/06/21 訪問)

織田家重臣の林通勝の先祖である越智氏の城で、今は金城小学校の敷地になっています。

平日に行き、小学生の下校時間を見計らって、インターホンで職員室に問い合わせると、先生が出て来て下さり、校庭に入らせて頂き、石碑を撮影できて感謝です。
林泉寺跡とある左に小さく旧田幡城址と刻まれてます。
林泉寺は今は小学校の北東側に移転しています。

石碑を見学する場合、場所は校庭内の東側にあり、小学校が休みの時や生徒がいる時は厳しいと思われますので、注意が必要です。

石碑の隣に、清正橋の石もありました。
調べると、小牧市にあった石橋で、名古屋城築城にあたり、岩崎山から石材が切り出され運ばれる際に加藤清正が命じて作らせたという言い伝えから、清正橋とも呼ばれるそうです。
しかし、何故ここにその石があるかは、すみませんが分かりません。

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てぬき親父

お城川柳

城びとの パワースポット 百名城

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おのり

初の御城印 (2021/07/04 訪問)

出張で和歌山を訪れ、宿泊したホテルの目の前にお城が!
今まで幾度と城を見たことはありましたが、改めて城の壮大さに圧巻!
私の御城印集めのスタート地点となりました。
今後も出張の度に城を攻めたいと思います。

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刑部

閉ざされた城址 (2021/05/06 訪問)

コロナ禍で中に入らず周りを見てたら後から60代の女性が自転車で来て中に入れないと言いながら近づいてきて話しかけてきました。せっかく遠くから来たのに残念ですねとかいろいろ話し込んで・・・。別れた後も私は周りを写真撮りながらうろうろ。
ここのグルメを検索して昼食を名物 骨つき鷄に決定! とても美味しかったです。

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山口駿河守幻夢斎

住宅地裏の丘陵に思いがけない迷路のような空堀縦走路! (2021/06/02 訪問)

JR駒ヶ嶺駅から徒歩で。約20分くらいか。

けっこうな旧坂をのぼった民家の脇に小さな看板があり、そのまま進んでいくと、大手の虎口となる。

城内に入ると、案内看板がひっくり返っていたり、荒れた印象はあるが、藪もそれほどひどくなく、比較的見学しやすい。

虎口、土橋、土塁、空堀など、山城の観たいものはすべてそろっている感じのする城跡。

とくに、規模の大きな迷路のような空堀は最大の見どころ。

時間がなく、すべてを見て回れなかったのが、悔やまれてならない。しかるべき時期にもう一度・・・。

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山口駿河守幻夢斎

公園整備された古城跡の裏の顔は・・・ (2021/06/01 訪問)

こちらも以前から訪れたかった城跡。

JRの駅からは、遠いこととかなりの山の上になるので、車での訪問が吉。

駐車場が、だんだんに数か所設置されている。

完全に公園整備されており、遺構の破壊もされているのかと思いきや、堀切の遺構は完璧に残されており、城跡の雰囲気を損なうことなく、良好な整備が施されている点に、感動を覚えた。

特に、岩盤を断ち切る大堀切は迫力満点。

丁寧に見て回ると、支尾根にも、堀切や竪堀などもあるようだが、散策路周辺の遺構だけで、十分に満足して公園を後にした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県松本市)水番城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の7城目は水番城です。
宮原城から転戦。公民館駐車場(36.227516、138.017097)に駐車し、そこから徒歩4分くらいで獣除けフェンス前(36.226265、138.018889)に着きます。

築城年代は定かではないが、1460年(寛正元年)に小笠原信濃守清之によって築かれたとい云われています。
小笠原氏の本城である林大城の東約1kmにあり、文字通り水之手を守るために築かれた支城のようです。
1532年~55年(天文年間)の小笠原長時の頃には山辺持続が守っていたようです。 

山家城で痛めた右ひざ痛も薬が効き、傷みがやわらいできましたが、大事を取って獣除けフェンス付近で撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。

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山口駿河守幻夢斎

圧巻の古城跡!面白いところしかない城跡 (2021/06/01 訪問)

以前より、東北でもナンバーワンという前評判を耳にしており、ぜひとも行きたいと念願していた山城。

入口が二か所あり、手前のお寺のちょうど向かい側の墓地に行くほうの道のほうが安全。墓地に車を停められる。

その先のオレンジの看板があるほうの道は、荒れ果てた非常に心細い道となる。いけないことはないけど、お勧めはできない。

城跡は、期待以上で、墓地のところから歩いても10分もかからない。

次々と現れる以降のすばらしさに、ため息が止まらない。

熊が出るといううわさがあるが、私は野生の狸に遭遇しました。

この城跡の壮大な遺構を堪能するには、草の勢いがなくなる季節がいいと思うが、緑に染まる城跡もまた美しい。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県松本市)宮原城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の6城目は宮原城です。
山家城から転戦。登山口付近(36.219009、138.041646)に路駐する予定でしたが、工事中の為、通行禁止で手前に路駐しました。

詳細は不明。薄川を挟んで山辺城の南東1.5kmにあり、山辺城主山辺氏(折野氏)の支城とされています。

登山口付近(36.219173、138.041215)まで歩き、山家城で痛めた右ひざ痛もあり、入口案内表示の写真を撮って撤退しました
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:山家城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の5城目は山家城です。
桐原城から転戦。徳運寺300m先の路肩(36.220757、138.048231)に路駐しましたがスペースは狭くお薦めしません(徳運寺の駐車場を利用されるのをお薦めします)。ブドウ畑を250mくらい登ると登山口に着きます。


鎌倉時代、諏訪氏の一族が山家氏を称し、この地に居城を築いたと言われています。
1481年(文明12年)に小笠原長朝に攻められ、山家氏は滅亡しました。
その後、小笠原長時の家臣である折野昌治が山家氏を称し、山家昌治となりこの地を治めていましたが、1550年(天文19年)に武田信玄が信濃府中に侵攻すると寝返って以降は武田氏に仕えました。
現在城址には土塁や石積み、連続竪堀などの遺構が良好に保存されており、居館跡とされる山麓の徳運寺から登山道が整備されているようです。(フェンス前で引き返したのでわかりません)
「小笠原氏城跡」として桐原城、埴原城などと共に長野県指定史跡に指定されています。

駐車場所から登山口までの急坂を登っている途中で、右ひざを痛めてしまいました。
遠征2日目でもあり無理せずフェンス前で攻城を断念し車に戻り、徳運寺駐車場で痛み止めの薬を飲んで休息しました。
攻城時間は40分くらいでした。(ほぼ休息時間です)

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:桐原城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の4城目は桐原城です。
林大城から転戦。駐車スペースはなく、大手登城口付近(36.236776、138.023212)に路駐しました。

1460年(寛正元年)に桐原城を築いた桐原大蔵少輔真智は犬甘城主犬甘大炊介政徳の弟とされ、兄弟揃って信濃守護小笠原氏に仕えていたといいます。
桐原氏五代の居城となったが、1550年(天文19年)に武田軍の攻撃により小笠原長時の林城とともに落城し、以後は武田氏の管理下に置かれました。
1582年(天正10年)に武田氏の滅亡と織田信長の横死が続くと徳川家康に仕えていた小笠原貞慶が旧領を回復し桐原氏も桐原城へ戻ったといいます。

フェンスを入って舗道ではなく、右側の細い道を登って行けば主郭まで20分ちょっとで着きます。歩き易いです。
規模の大きさ、多くの曲輪を支える何段もの石積、二重の堀切・竪堀、桝形虎口など良好な状態で残っています。
攻城時間は50分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:林大城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の3城目は林大城です。
林小城から転戦。林大城案内板(36.224369、138.014011)を右折し、先に進むと駐車場(36.225475、138.008944)に辿り着きます。ただし駐車場までの経路はグーグルでは表示されません。

林大城は信濃守護小笠原清宗が1459年(長禄3年)に築き、同族の内紛が集結した後は井川城に代わる守護の居城となったとされるが、小笠原系図によると小笠原長朝は1443年(嘉吉3年)に林大城で生まれていると記されていることから、築城年代は定説よりも早かったと思われる。
1550年(天文19年)に武田信玄の侵攻により林大城は落城し小笠原長時は諸国を流浪したが、最後は蘆名氏の庇護を受けて会津で亡くなっています。
信玄は盆地の中央に位置する深志城(松本城)を重視したため林大城は廃城となりました。
林大城跡は現在「東城山公園」として整備されており、土塁や野面積の石垣を見ることができます。

悪路ですが楽をしたいのなら車で5郭の駐車場まで行けます。遺構を堪能したいのであれば金華橋登り口から徒歩で攻城するのをおすすめします。
攻城時間は30分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】雨天決行

雨城も風情があって良きものぞ

と自分に言い聞かせる。

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