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くらのり

吉田郡山城 (2020/11/08 訪問)

南北朝時代の1336年(建武3年)毛利時親が郡山南東に小規模な山城を築いたのが始めといわれる。16世紀中頃、毛利元就は標高390mの郡山全体を要塞化し、山頂の本丸を中心に多くの尾根に270もの曲輪を配した西日本最大級の中世山城に拡張改造した。その後、元就の孫の輝元も城の整備を行ったが、山城の限界から広島城を築いて1591年(天正19)本城を移した。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は大きく所領を削られ周防・長門へ移り、広島城・郡山城を含む安芸は福島正則に。江戸初期に廃城となり、石垣や土塁の一部や曲輪の跡がある。

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新ろくべえ

甲府城に行ってきました

甲府城に行ってきました!
 
先に写真を投稿するので、あとで文を投稿することをご了承ください

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城好きのメガネ

「番神山城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
番神山城は太田道灌が江戸城の出城として築いたとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東京メトロ 日比谷線 神谷町駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「伝目黒氏館」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
目黒氏館は武蔵横山党の目黒氏の館跡とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東急電鉄・東京メトロ日比谷線 中目黒駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「伝大平砦」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
大平砦は武蔵吉良氏の家臣であった大平氏の砦跡とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東急電鉄 田園調布駅 徒歩10分

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イオ

とことん江戸城(浅草橋門~両国橋) (2022/06/24 訪問)

(続き)

3日間の出張を終えて、東京駅から新幹線で帰る前に浅草橋門に向かいます。当初は外郭めぐりはできる範囲で、くらいに考えていましたが、あと一箇所だけとなると行かずには帰れません。

浅草橋駅から南に進むと浅草橋の北詰に浅草見附跡の石碑があります。浅草橋門の遺構は消滅していますが、神田川を渡った南詰の浅草橋南交差点あたりにあったようです。浅草橋門の西側には関東郡代の役宅があったことから、浅草橋南詰の植え込みには郡代屋敷跡の説明板が建てられています。また、開智日本橋学園の南東隅には浅草橋門西側の柳原土手から出土した石垣石が移設されています。

明暦の大火では浅草橋門周辺で多くの死者が出たことから、隅田川に両国橋が架けられ、橋の両側には火除け地が設けられて、両国広小路として江戸有数の盛り場となりました。両国橋西交差点北西の中央分離帯に両国広小路の石碑が建てられています。時間があれば両国橋を渡って回向院や吉良邸にも行きたいところですが、3日間の疲れも溜まっているのでここまでにして、神田川の河口部に架かる柳橋から居並ぶ屋形船と、隅田川との合流点の両国橋を眺めて外郭めぐりを終えました。

…ということで、行けなかったところもいくつかありますが、都合4日間で内郭・外郭ともにほぼひとめぐりすることができました。ちょうど夏至の頃だったこともあり、日中は仕事でも朝夕に活動できる時間を長くとれたこと、出張の翌日から東京は連日猛暑日だったことを思うと、曇天続きで写真映えはしなかったものの、暑くなる前にめぐれたのはラッキーだったな、と。

今回は、内郭はもちろんながら、外郭(外堀)をほぼ全区間歩いて江戸城の縄張を体感できたのが一番の収穫であり、その結果として(今さらながらですが)江戸城が名実ともに日本一の城であることを思い知らされました。でも、まだまだこれで終わりではありません。皇居部分をはじめ今回行けなかったところは次の機会の楽しみにしたいと思います。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:大峪城 (2022/07/31 訪問)

富山城からの転戦です。まず、呉羽山にある佐々成政剃髪趾を見学する為、考古資料館駐車場(36.709692、137.189131)に向かいました。
その後、シルバー人材センター駐車場(36.698951、137.182653)に駐車させて頂き、付近を散策しましたが、何も見つかりません。

築城年代は定かではないようですが、神保長職によって築かれたのがはじまりと云われています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による佐々成政征伐で、秀吉が白鳥城に本陣を置くと前田氏の家臣片山伊賀守が白鳥城より大峪城へ移り出城として守備、成政が降伏した後は延高が城主となります。
1599年(慶長4年)延高は利長の命を受けた石川源太、松田直憲によって大坂で殺害されました。利家の死から僅か七日後の事でした。
利家の遺言状には延高には謀反の気配があるから油断しない様書かれており、それに従ったものと思われます。徳川家康が延高を高く評価し手を回していたからと云われています。
延高の後、大峪城には代官が置かれますが、その詳しい時期は不明ですが、関ヶ原の戦い前後までには廃城となっていたようです。

佐々成政が豊臣秀吉に降伏した際、呉羽山にある佐々成政剃髪趾で髪を剃り僧衣をきて服従の意思を示したそうです。
大峪城跡は五福小学校の移転後、スポーツ広場になっており、何も残っていません。案内板も見つからなかった。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=白鳥城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:富山城 (2022/07/31 訪問)

仏生寺城からの転戦です。城址公園駐車場(36.693234、137.212524)に駐車しました。
富山城は2回目の攻城です。前回(2017/11/03)は次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城2日間」で来ました。

富山城は現在の富山県庁の南側にあり、富山城址公園として整備されています。
本丸大手桝形に築かれている模擬天守は昭和29年に建設された富山市郷土博物館で、国の登録文化財になっています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=大峪城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:仏生寺城 (2022/07/31 訪問)

小出城からの転戦です。舟橋村役場駐車場(36.703809、137.307041)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に細川氏によって築かれたと云われます。
城主は細川兵部大輔入道、細川宗十郎が伝えられ、宗十郎は高野郷を領し越中五大将の一人に数えられるそうです。
宗十郎は佐々成政が弓庄城の土肥氏を攻めた頃に生け捕り城中にて自刃したとも、佐々成政によって仏生寺城が攻め落とされたとも云われています。

仏生寺城は現在の舟橋村役場付近に築かれていたそうで、遺構は全く残っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=富山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:小出城 (2022/07/31 訪問)

上梅沢館からの転戦です。小出神社鳥居前(36.733693、137.313083)に路駐しました。

1545年(天文14年)越後長尾氏と従属関係にあった越中国松倉城主・椎名長常に仕えていた式部大輔唐人兵庫によって築かれたようで、唐人氏はその名が示す通り大陸由来の氏族と思われるようです。
当時椎名氏は東へと勢力を伸ばしていた富山城主・神保長職との攻防は、主に小出川を挟んで繰り広げられており、小出城はその最前線で椎名側にとって川を挟んで神保側の越中国鶯野城と睨み合う、防衛上重要な拠点だったようです。
1563年(永禄6年)には越中に侵攻した上杉謙信によって落城、その後揖美庄助五郎が城主となりますが、1566年(永禄9年)上杉謙信によって再び落城、家臣長尾小四郎景隆が城主となりました。
謙信没後の1579年(天正7年)佐々成政によって落城し、成政の家臣久世但馬が城主となりました。
1581年(天正9年)織田信長が催した馬揃えの為に成政が上洛している隙を突いて、上杉景勝が小出城を包囲しますが、急ぎ引き返した成政らの軍勢が来援する知らせを聞いて包囲を解いて退いたそうです。
その後成政は、佐々喜藤次、佐々喜右衛門を城代として小出城に置いたそうです。
1582年(天正10年)本能寺の変が起こると、織田方の混乱に乗じて上杉方の須田満親が小出城を奪取しました。
1583年(天正11年)体勢を立て直した成政は魚津城を攻め落とし、上杉方の須田満親は小出城も明け渡して越後に退いたそうです。
1583年(天正11年)成政の支配に抵抗していた弓庄城主土肥政繁が、小出城と新庄城を攻め落としますが、維持する力は無く、まもなく撤退しました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による富山の役で成政が敗れ平定されると、小出城は役目を終え、廃城となったようです。

小出神社付近に築かれていたようです。遺構はありませんが、小出神社に説明板がありました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=仏生寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:上梅沢館 (2022/07/31 訪問)

郷柿沢館からの転戦です。光明寺付近空スペース(36.745672、137.357712)に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。 堀江城を居城とした土肥氏の館ともいわれますが、これも定かではないようです。

現在の光明寺一帯が館跡といわれ、寺の東側と西側に一部土塁が残っています。
ここにたどり着く途中に、「上梅沢館」への道標(写真を撮るのを失念)がありましたが、光明寺には何の案内もありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小出城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:郷柿沢館 (2022/07/31 訪問)

弓庄城からの転戦です。西養寺門前空スペース(36.719080、137.367895)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、土肥氏によって築かれたようです。
中世に中新川一帯に勢力を持った土肥氏の一族の居城で、城主は土肥孫十郎、土肥源太郎、土肥孫太郎、土肥弥太郎などの名が残っているようです。
土肥美作守政繁が佐々成政との戦いに敗れた際に、郷柿沢館城主は出陣することができず降伏して帰農しました。
その後、松倉城主椎名氏の子孫椎名兵部を招いて西養寺を開山し現在に至るそうです。

館跡には現在西養寺があります。
その周囲には土塁と濠(写真を撮るのを失念)が残っており、虎口は西側(山門があります)と南側に2か所ありました。
南側の2か所のうち、ひとつは車が通れるように幅が広げられており、土橋の脇にも倉庫もあったので、こちらは虎口ではないかもしれません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上梅沢館に向かいました。

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はなじろー

若武者隊のみなさん、ありがとう! (2020/02/01 訪問)

何回か訪問していましたが、国宝指定後初の訪問でした。

天守はもちろん立派ですが、大手門跡から天守までの経路も、
立派な石垣に囲まれ、往時の雰囲気を感じられ素晴らしいです。

面白くない子どもたちは、文句を言い続けてましたが、
若武者隊の方々に励まされてテンションが上がり、
天守まで登ることができました。
若武者隊の方々に感謝です!

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橋吉

総構え (2022/08/10 訪問)

鶴岡のホテルを出て、バイクで1時間50分で着きました。
東北電力村上電力センターの入口にて続日本百名城スタンプを押印、パンフレットも置いてありました。
電力センターの少し先に駐車場があります。
村上城は、総構え(城下町全体を要塞化すること)であったのでここらは、すでに城内です。

一文字門跡から山頂にある本丸まで続く七曲道が始まります。
七曲道は緩い勾配で登りやすいですが、それでも息があがり汗が吹き出ます。
やがて四ツ門が見えます。
左へ行くと三の丸、右は二の丸・本丸、直進するともう一つの登城路の中世遺構散策コースと四叉路になっており、ここに門が設けられていました。
合理的ではありますが、防御的観点から見るとどうでしょうか。
私ならば、あえて互い違いにしますが・・・。

訪問する一週間ほど前で村上市を豪雨を襲いました。
よって、訪問すべきか悩みましたが、村上城のあるところは被災地とは違うという情報を得て今回登城することにしました。
しかし、このあと米沢城に向かう途中、災害の爪痕を目にしました。
被災された方々にはお見舞い申し上げます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:弓庄城 (2022/07/31 訪問)

日中城からの転戦です。弓の里歴史文化館駐車場(36.674763、137.363290)に駐車し、石碑由来碑前(36.673500、137.362525)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、土肥氏によって築かれたと云われています。
土肥氏は相模国土肥郷を本貫とする土肥次郎実平の5代目実綱が、滑川の堀江に入部し、上杉謙信の庇護を受け新川郡一帯を領する戦国領主に成長しました。
実綱から4代後の政道がここに城を築き、政忠、政良(政繁)の3代が居城としたようです。
1578年(天正6年)上杉謙信が死去すると、越中に侵攻する佐々成政、柴田勝家らの織田勢に従うことになります。
1582年(天正10年)織田信長が本能寺の変で討たれると、再び上杉勢に属した為、佐々成政の攻撃を受けることとなります。
1582年(天正10年)と1583年(天正11年)の二度にわたって、佐々成政の攻撃を受けたが落城しなかったそうです。
土肥氏は籠城しますが、越後の上杉景勝からの来援もなく、上杉勢の拠点魚津城が落城したため、孤立しました。
1583年(天正11年)佐々成政と和議を結び、城を明け渡し越後に逃れました。その後、上杉軍と共に奪還を図ったが失敗し、越後に在住したそうです。

「弓の里歴史文化館」の北側駐車場横に説明板があります。
西側の水田の一角に「弓庄城本丸跡」の石碑、由来碑があります。 
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=郷柿沢館に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:日中城 (2022/07/31 訪問)

宿泊先のホテルルートイン富山インターから、墓地付近空スペース(36.674027、137.355203)に着きました。

1583年(天正11年)佐々成政によって築かれたようです。
弓庄城の城主土肥美作守政繁は初め上杉謙信に従っていましたが、1578年(天正6年)謙信が急死し、織田信長が越中に進出すると、織田方に従うようになりました。
しかし、1582年(天正10年)本能寺の変で織田信長が没すると、再び上杉方に通じるようになりました。
これに対して佐々成政は、1582年(天正10年)から1583年(天正11年)にかけて、越中支配のために上杉方がいる越後の西海岸まで侵攻しました。
佐々成政は弓庄城主・土肥政繁を攻める為、4つの砦を築きますが、日中城や郷田砦はその付城であったといわれています。
土肥氏は弓庄城で籠城を続けますが、豊臣秀吉が賤ヶ岳の合戦による戦後処理として成政の越中支配を認めた結果、上杉方に通じていた政繁は弓庄城を明け渡して越後の糸魚川へと退去したそうです。

現在は墓地となっています。崖となっている東側(白岩川)を除く三方に土塁と堀が巡らされていますが、草が凄くわかりにくいです。
虎口は南西にあり土橋が架かっています。土橋脇には立派な城址碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=弓庄城に向かいます。

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スミヤキ

信州の五稜郭 復活の狼煙! (2022/08/27 訪問)

五稜郭の中に素朴な学校の校舎と校庭がすっぽりと納まった、緑豊かな素敵な城跡・小学校です。

幕末の頃、若年にして西洋事情に深く関心を持ち、とりわけ洋式の築城技術、火砲を熱心に学んだ英明な殿様が、1863年24歳で幕府大番頭登用を期に三河奥殿から信濃佐久郡に本領移転を願い、併せて新陣屋五稜郭建設の許可を申請、翌年着工して、1867年4月竣工するも、当初思い描いたようにはならなかったようです。明治新政府の時代となり1871年、廃藩とともに全国の城郭取り壊しが布告され、築城僅か数年で龍岡城は歴史の幕を閉じます。殖産興業に力を注ぎ、蚕種、生糸の増産を奨励、薬用人参の栽培を指導し、領村に富をもたらした名君の殿様がどんなお城の完成形を考えていたのか興味がつきません。

そしてこの素敵な小学校も今年度末で役割を終え、閉校することが決まっているそうです。小学校全施設を解体撤去した後、そうです! 竣工当時の龍岡城に復元整備する計画が、今後進められるとのこと。御殿、美しい稜堡の石垣、五稜郭をどのように見せてくれるのか、大注目です。

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宗春

青春18きっぷで城攻めしよう その4 新府城 (2022/08/28 訪問)

青春18きっぷの期限まで残り僅かとなった8/28、4月に悪天候のために中止した「青春18きっぷ+レンタサイクル」による城攻めを敢行しました。今回も雨が心配され、実際本丸で少し降られましたが、概ね曇り(薄陽が差す事も)で快適な旅でした。

何故にレンタサイクルか?ご存じの方もおられると思いますが、続百名城スタンプが設置され御城印を販売している韮崎市民族資料館が中途半端な場所にあり、車でないと行きにくい。車で行っては青春18きっぷを使えないので、韮崎駅の観光案内所で電動アシスト自転車をレンタルしました。電動アシスト自転車は初めて乗りましたが、結構キツイ登り坂もあったので大正解でした。

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にのまる

大手門へ。 (2022/06/10 訪問)

40分かけて中ノ門から市橋門まで見て歩いたところで中曲輪の門巡りは一旦終了。西御屋敷跡庭園(好古園)は後まわしにして、大手門に向かいました。
内堀沿いの石垣の、補強、拡張、修理したと思われる箇所や、石積みの基本的な分類に属さないデザイン性に富んだ個性的な箇所などを見ていると、その向こう側にいる人たちのことを思います。
城を残し後世に伝えることがなぜ大切なのか、石垣からメッセージを投げかけられた思いです。

いよいよ桜門橋と大手門です。
(大手門は何とか人が写り込まない写真を撮れましたが、桜門橋は無理でした。)
どちらもかつての姿とは異なるようですが、大手門を潜ると広大な三の丸広場が現れ、大天守が目に飛び込んできました。

<続く>

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姫街道

総構えが凄い! (2022/07/10 訪問)

7月の暑い日でしたが、念願の総構えを一通り歩きました。
自然地形を生かしているとは言え、凄いスケール!よくこれだけ残してくれたと感謝。とても一回来ただけでは勉強しきれないが、念願の小田原城総構えを歩けた事は記念となった。

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