こんたいじじょう

金胎寺城

大阪府富田林市


旧国名 : 河内

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①説明板
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:金胎寺城 (2024/09/29 訪問)

汐ノ宮駅から徒歩20分弱で、登山口(34.459689、135.581311)に着きました。

金胎寺城は、嶽山城のある嶽山の南方にある金胎寺山にあります。
元弘年間(1331年~1334年)に楠木正成が築城し、佐備正忠が入ったとされます。
あるいは、正平年間(1346年~1370年)に楠木正儀、和田正武が築城したともされるようです。
1447年頃から戦国時代にかけて、畠山氏の家督争いで、畠山義就が嶽山城に立て籠もり、金胎寺・寛弘寺・金剛寺・国見山などの支城を構え、3年近くの間、畠山政長と戦っています。
1360年(正平15年)畠山氏の持ち城であったようで、1463年(寛正4年)に畠山義就が寄ったが、筒井氏などに攻められ落城したとされます。
1466年(文正元年)復権を狙う義就が金胎寺城に陣をして烏帽子形城を攻撃したという史料もあるようです。
1493年(明応2年)畠山基家(義就の嫡男)の家臣の甲斐庄氏(隆成?)が在城したという記録もあるようです。
1524年には政長流の畠山稙長軍がこの金胎寺城に集結し、仁王山城にいた義就流の畠山義堯を攻撃しています。

登り口ゲートを開けて案内に従い山頂まで行きます。
金胎寺城跡本丸からの景観は素晴らしいです。 
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=高屋城へは、汐ノ宮駅から電車で古市駅に向かいました。

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イオ

楠木七城のひとつ (2024/01/28 訪問)

南北朝期に楠木正成が楠木七城のひとつとして築いた城で、室町中期には畠山義就が籠った嶽山城(龍泉寺城)の支城として嶽山城の戦いで落城していますが、その後も畠山氏の内紛の舞台として活用されたようです。

嬉町自治会館のチェーン前に駐車させてもらって登城開始。あちこちに案内表示があるので迷うことなく登城口に到着。防獣柵のゲートを開けて少し登ると、金胎寺跡が広がり説明板が立てられています。金胎寺跡から5分ほどで「馬廻し」の分岐の表示があり、登城道をそれて行ってみると、金胎寺城を攻めた北条軍が山の険しさに馬を廻して帰ったことから馬廻しと呼ばれるんだとか。馬廻しから3分ほど登った数段の削平地は楠木軍兵舎跡と伝わります。やはり地元では楠木正成の城なんですね。

中間展望台を過ぎたところで、右手(西側)の笹藪が道状に切り開かれていたので行ってみると、山頂から北西にのびる尾根の曲輪群が木々を伐採し藪を刈り払って整備されていました。曲輪群の奥からさらに続く笹藪を切り開いた道(?)を進んでいくと、南西尾根の堀切の堀底にたどり着きました。さらに南西にはもう一条の堀切があるようですが、藪に沈んでいてよくわかりません。堀底から上がったところの曲輪(桜公園)を抜けて、今度は北尾根の堀切に向かうも、こちらも藪が激しく近付くことさえできずに断念…。楠公さんの隠し井戸も(先達の投稿のとおり)笹藪の中に隠されていて見付けられませんでした。最後に山頂部の主郭に登ると、北西に大阪平野が広がり、東には赤坂城塞群が築かれた金剛山からのびる支脈が見渡せます。楠公さんが支城とし、戦国期に至るまで活用されたことが納得できる眺望でした。

隠し井戸も堀切も藪に沈んでいたのは残念ではありますが、笹は刈っても刈ってもすぐに伸び盛ることを思うと、主郭周辺だけでなく北西尾根の曲輪群も整備してくれているのは本当にありがたいことだなぁ、と頭の下がる思いでした。
 

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楠木正成 (2024/01/27 訪問)

 楠木正成が鎌倉幕府と戦うために楠木七城のひとつとして築城したと伝わっています。登城路はハイキングコースとして整備され歩きやすくなっています。途中に馬廻し、金胎寺跡、楠木軍兵舎跡などの標識があり、楽しみながら登城しました。主郭からの眺望はよく、西は六甲山、明石海峡大橋、淡路島、関西国際空港、東は金剛山、葛城山を観ることができます。堀切が残っていますが、行き方がわからなかったり藪になっていたりして2カ所しか確認できませんでした。その一つも藪があり見にくい状態でした。楠公さんの隠し井戸という標識を見つけましたが、倒木があり藪にもなっていて行くことが難しく断念しました。

 近鉄長野線汐ノ宮駅より徒歩にて登城しました。登城口の獣除け柵まで15分くらいです。

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ぴーかる

金胎寺城 (2023/01/29 訪問)

【金胎寺城】
<駐車場他>嬉町自治会館のチェーンの前までに駐車できます。または腰神神社駐車場
<交通手段>車

<見所>堀切・眺望
<感想>金胎寺城は楠木七城の一つで、言い伝えでは鎌倉時代末期に楠木正成によって築城され、佐備氏が守将となりました。1462年には嶽山城に籠城する畠山義就勢と寄せ手の筒井勢との合戦があり金胎寺城は落城しますが、1466年に畠山義就は再入城します。
 嬉町自治会館から案内板に沿って奥に進むとゲートがあり登城口があります。入口すぐに大手門跡があり少し登ると金胎寺跡があります。⇒攻め手が引き返したとされる馬回しの削平地⇒兵舎跡の削平地(小さい)を進み、そこからはまあまあ登って頂上付近から腰曲輪が点々とあり山頂部に着きます。主郭には帯曲輪が取り巻いて、南側腰曲輪の先と東側に大堀切があります。東側大堀切の先は独立した小さい曲輪がありますがここ辺りから鬱蒼としています。楠木正成の隠し井戸の案内がありますが本当に藪化で隠されていて行けません。さらに東側にも広い曲輪がありますが、民家?のような小屋があってラジオが流されていました。眺望は凄く良くてほぼ全方位開けています。東方向の大阪の街は絶景です。

<満足度>◆◆◇

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 楠木正成
築城年 元弘年間(1331〜1334)
主な城主 楠木氏、畠山氏
遺構 曲輪、横堀(空堀)
再建造物 説明板
住所 大阪府富田林市甘南備