南北朝期に楠木正成が楠木七城のひとつとして築いた城で、室町中期には畠山義就が籠った嶽山城(龍泉寺城)の支城として嶽山城の戦いで落城していますが、その後も畠山氏の内紛の舞台として活用されたようです。
嬉町自治会館のチェーン前に駐車させてもらって登城開始。あちこちに案内表示があるので迷うことなく登城口に到着。防獣柵のゲートを開けて少し登ると、金胎寺跡が広がり説明板が立てられています。金胎寺跡から5分ほどで「馬廻し」の分岐の表示があり、登城道をそれて行ってみると、金胎寺城を攻めた北条軍が山の険しさに馬を廻して帰ったことから馬廻しと呼ばれるんだとか。馬廻しから3分ほど登った数段の削平地は楠木軍兵舎跡と伝わります。やはり地元では楠木正成の城なんですね。
中間展望台を過ぎたところで、右手(西側)の笹藪が道状に切り開かれていたので行ってみると、山頂から北西にのびる尾根の曲輪群が木々を伐採し藪を刈り払って整備されていました。曲輪群の奥からさらに続く笹藪を切り開いた道(?)を進んでいくと、南西尾根の堀切の堀底にたどり着きました。さらに南西にはもう一条の堀切があるようですが、藪に沈んでいてよくわかりません。堀底から上がったところの曲輪(桜公園)を抜けて、今度は北尾根の堀切に向かうも、こちらも藪が激しく近付くことさえできずに断念…。楠公さんの隠し井戸も(先達の投稿のとおり)笹藪の中に隠されていて見付けられませんでした。最後に山頂部の主郭に登ると、北西に大阪平野が広がり、東には赤坂城塞群が築かれた金剛山からのびる支脈が見渡せます。楠公さんが支城とし、戦国期に至るまで活用されたことが納得できる眺望でした。
隠し井戸も堀切も藪に沈んでいたのは残念ではありますが、笹は刈っても刈ってもすぐに伸び盛ることを思うと、主郭周辺だけでなく北西尾根の曲輪群も整備してくれているのは本当にありがたいことだなぁ、と頭の下がる思いでした。
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