津城は、岩田川と安濃川の三角州に二重の水堀を設けた縄張りで、本丸の東西に東の丸と西の丸を直列に配し、その周囲を内堀で囲み、その周りを二の丸、更に二の丸を外堀で囲んだ、輪郭式の平城でした。内堀に至っては、最大幅100mにも及ぶ広大なもので、さながら、湖上に浮かぶ島の様であったと云われています。
また、本丸には三重の櫓が2基、二重の櫓が3基が建てられ、それらを多聞櫓で接続した厳重な造りであったとされています。現在は、本丸の石垣と内堀の一部が残っており、現在の姿から当時の姿を想像できないくらいシンプルになっています。
築城主は長野氏の一族、細野氏が小規模な城を築いたのが始まりとされ、織田信長公の伊勢侵攻で長野氏の養子となった、織田信包公が改修、その後、関ヶ原の合戦を経て築城の名手と知られた藤堂高虎公が22万石を拝領し、津城に入城しています。上記で挙げた津城の縄張りは、この藤堂高虎公によるもので、藤堂流の築城術の粋を凝らして築城されています。
現在の津城跡は本丸と西の丸が公園として整備され、鉄筋コンクリート製の模擬復興された三重櫓、かつての内堀の殆どは埋め立てられ一部が残るのみとなっていますが、天守台の石垣や、本丸を囲む石垣が残り、かつての面影を残しています。
続100名城のスタンプはかつては、水堀であった高山神社に設置され、駐車場も三重櫓のすぐ傍に設けられています。
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