続日本100名城

つじょう

津城

三重県津市

別名 : 安濃津城
旧国名 : 伊勢

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津城
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POYO58

予定変更で (2023/10/22 訪問)

ほんとはこの日伊賀上野城に友達と行く予定だったのですが、伊賀上野〜柘植間が落石で運転見回せになってしまい引き返すこととなってしまいました。
亀山から関西本線で柘植に取り残されてしまったのでとりあえず福地城という松尾芭蕉の誕生日だけ行って、そのまま津に向かいました。
津城は2度目の攻城です。
やっぱり石垣と幅の広い水堀がなんとも美しかったです。
津城は枡形虎口や埋門も残っていて、当時の堅固さも伝えてくれています。
また再建された櫓はとても大きく、石垣の上に建っています。中には入れません。
それから三浦の晃ちゃんさんにも会いました。ご挨拶はできませんでしたが、これからもよろしくお願いします。

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三浦の晃ちゃん

藤堂家 (2023/10/22 訪問)

伊勢の大大名、藤堂家の居城です。昭和に建てられた櫓があります。石垣と堀が立派です。、

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しんちゃん

江戸時代 親子で小芝居 サバイバル (藤堂家) (2023/10/08 訪問)

津城は織田信長の弟の織田信包が築いた城が原点になります。慶長13年(1608)に藤堂高虎が
22万石で入り豊臣氏に対抗して伊賀上野城と津城を大改修します。津城は城下町を含めて極めて
高い防御力を持った城に生まれ変わり、本丸の周囲に広い幅を持った広大な内堀を配しています。
内堀の周囲に二の丸が配され、その周囲を外堀が周回し、その周囲を三の丸が囲みます。城域の
北を安濃川、南を岩田川が流れ天然の要害となし、外堀と岩田川の間には一応区切りがありますが
満潮時には海の水が外堀に流れ込み海城の様相も呈していたようです。コンパクトな構造ながら
十分高い防御力をもっているのですが高虎公はさらに二の丸の東西の水路を南北の川につなげて
三重の堀にしようと考えていたようです。さすがにこれだと堅固な城になりすぎて幕府に目を
つけられてしまうので工事にストップをかけたようですが、高虎公も外様大名という立場で本領を
守るためいろいろ苦心していたようで、跡取りの高次の出来が悪いから自分の死後は国替えをして
いただきたいと家康公に願い出て、逆に家康公から子孫の代まで要衝の地の伊勢を守るようにと
仰せつかっています。うまく高虎公が家康公の言葉を引き出した格好になりますが家康公は高虎公
の息子が阿呆で無いということは御見通しだったようです。その高次公は幕臣達に目をつけられ
ないようにバカ殿の振りを続けていたようですが、小芝居の才は親譲りだったのかもしれません。

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トク

㊾【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎と津城) (2023/02/11 訪問)

(19人目)藤堂高虎の続きです。
高虎の最後の居城となった「津城」を訪れてきました。
名鉄「津新町」駅から歩いて15分程です。

ここにも藤堂高虎の像がありました。ここは今治城と違って、鎧兜(よろいかぶと)姿の勇ましい高虎でした(写真①②)。城の横には高虎を祀る高山神社があります。スタンプ場所の社務所には高虎の肖像画があり、願札がほほ笑ましかったです(写真⑥-⑩)。

高虎が今治城を築城開始してからわずか6年後の事、もう少しで天守が完成という時に伊予から伊勢へ国替となったのが、私には何故かとても不自然に思い気になっていました(普通なら断るはず)。この時大坂では不穏な動きがあり、表向きは豊臣と万が一戦になった時、要衝地の伊勢や背後の名古屋城を守るため、また大坂方の(豊臣諸将にも信頼されている)調略上手の高虎なら周辺諸将を徳川方に寝返らせる事ができるのではないか? などといった理由もあったようです。しかし私は本当の理由は、伊予隣国の加藤嘉明との不仲が表にあらわれ、一発触発状態になったため、それを避けるためにあわてて国替えしたのではないかと思っています。記録にはないのであくまで私の勝手な推測ですが、高虎の方から嘉明との争いを避けるために自ら国替えを申し出たのではないかと思いました(その時たまたま伊勢の領主を募集していた)。

嘉明とは、朝鮮出兵での論功行賞でのいざこざが始まりで、伊予でも国境を巡り常に争いが絶えず、家臣たちの間で騒動(拝志騒動)まで起きてしまい、もはや一発触発状態だったようです。よってその影響もあり、高虎は悩んだあげく自ら身を引いたのではないかと思います。何故か私には高虎という男がそういう人物だったような気がしてなりません🤔。

そして、その20年後の1627年、会津40万石の蒲生忠郷に嫡子が無く、代わりに徳川秀忠から高虎に加増転封を打診されました。しかし高虎はそれを断り、代わりに何と!・・・加藤嘉明を推挙したとの事です。 嘉明は自分を推挙したのが高虎だと知り、松山から会津への途中に高虎を訪ね、推挙のお礼に今までの事を全て詫びたそうです。何か美しい話だな~と思いました。そして津藩は、そのまま幕末まで藤堂家が治める事となりました。

また関ケ原の4日後の事、捕らえられた石田三成は大津城の門に縛られていました。福島正則らが罵声を浴びせる中、高虎はわざわざ馬から下り「貴殿の隊は大変強かった。貴殿から見た私の隊はいかがであったか?」と尋ねたそうです。すると三成は鉄砲隊に優秀な指揮官がいなかったため命中率が低かった事を指摘したようです。この言葉に高虎は大変感謝したとか・・・

高刑の意思を引き継いで大谷吉継の墓を建てて菩提を弔い、そして石田三成には見事に戦った武将として最後まで敬意を払い、また加藤嘉明との揉め事も最後は広い心で丸く収めたこの藤堂高虎に対し、私は「好プレー賞」をあげたいと思います!!!😊

次は、(20人目)へ続きます。
 

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城郭情報

城地種類 輪郭式平城
築城年代 永禄年間(1558〜1570)
築城者 細野藤敦
主要城主 細野氏、織田氏、富田氏、藤堂氏
文化財史跡区分 県史跡(津城跡)
近年の主な復元・整備 織田信包、藤堂高虎
天守の現況・形態 型式不明[5重/1577年築/焼失(火災)]
主な関連施設 模擬隅櫓、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(水堀)
住所 三重県津市丸之内
問い合わせ先 (社)津市観光協会
問い合わせ先電話番号 059-246-9020