正69城目。
JR小田原駅より徒歩10分程度で入口に到着。
城は駅からでも見えますが、入口がちょっと分かりにくかったです。
城内は聞いていた通り結構広かったです。
スタンプは天守閣内にていただけます。
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2022/09/05 19:53
2022/09/05 19:48
2022/09/05 19:42
2022/09/05 19:37
2022/09/05 19:31
2022/09/05 19:25
2022/09/05 14:20
鳥取城出城を秀吉軍が接収して包囲網に (2022/09/04 訪問)
鳥取城周辺を「お城を探す」で見ていると、丸山城が未投稿であるのを発見。鳥取城をしっかり散策するのと併せて登城。
鳥取城は、花崗岩の切り立った山塊の上にあり、花崗岩の尾根は、比高を下げながら北西に伸びて、一旦地面下に埋まって、その先で独立丘=丸山城として現れます。丸山城は、1枚目の写真に掲載したように名前通り丸っこい山体です。頂部には、硬い玄武岩が被さっており、このために頂部が平で、斜面が急な丸っこい形になったものと思われます。登城道はつづら折れになってますが、それでもとても急で、ロープを張ってある箇所もありました。この急斜面だけで守れそうですが、秀吉軍に接収されて、鳥取城包囲網に使われたのですなあ。
廃寺となった遺構があるとのことでしたが、倒壊した鐘撞楼はそんなに古くない時代のものに見えました。まだ生々しい。
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2022/09/05 14:16
黒田代官屋敷 (2022/08/27 訪問)
相方の用事が終わるまでの時間はまだ大分あり高田屋敷跡からすぐのここに来ました。移動時間は10分しなかったと思います。屋敷の反対側に大きな駐車場綺麗なトイレがあります。現在も末裔の方が生活をなさっています。ちょうどいらしたので声をかけてなかを見学してからぐるりと外側を一回りしました。資料館もあります。皆様の書き込みにて現当主様が生活しているのを確認していましたが実際にお会いしてみるとやはり少し驚きました。
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2022/09/05 14:02
出直します。 (2022/08/27 訪問)
相方の用事のため菊川に来ました。ただ待つのもと思い近くのお城と思い来ましたがヤッパリボーボーでした。また出直します。駐車場トイレはないです。
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2022/09/05 13:16
2022夏の青春18キップ14日目:鷹巣城 (2022/08/02 訪問)
朝倉山城からの転戦です。林道入口(36.111898、136.106542)から進入し終点に駐車場があります。
登り口右側に髙山鉄五郎碑(城址碑建立の資金集めの途中、川に転落死した同氏の供養碑)があります。
南北朝時代、新田義貞の四天王の一人畑六郎左衛門時能(ときよし)が足利方の大軍と戦った城だそうです。
1338年(暦応元年)に総大将新田義貞の戦死、翌1339年(暦応2年)には後醍醐天皇の崩御と大きな痛手を受けた南朝方の城は、北国において鷹巣城だけとなりました。
畑六郎左衛門時能は1年以上、鷹巣城に立て籠もりますが、1341年(暦応4年)城を脱出、勝山の伊地知山を目指したものの奮戦の末同地で戦死、程なく鷹巣城も落城しました。
遊歩道を登ると頂上手前に竪堀があり、その先に説明板があります。
主郭は広く、中央に「鷹巣城址」の石碑や祠、方位板があります。
歩行距離を短くする為、林道を車で走りましたが悪路です。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=小黒丸城に向かいます。
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2022/09/05 13:10
2022夏の青春18キップ14日目:朝倉山城 (2022/08/02 訪問)
丸岡藩砲台からの転戦です。朝倉山登山用駐車場(36.144528、136.106882)に駐車して、すぐ近くの日吉神社前空スペース(36.144500、136.106402)から登城しました。主郭まで800mくらいあります。
詳細は不明のようで、城主は朝倉玄蕃助景連と伝えられています。また天正年間(1573年〜1592年)に朝倉氏が滅亡後、一向一揆が城を構えたとも云われています。
浜別所町バス停東に「朝倉山登口」の石碑があり、林道を進んでいくと、左に登り口があり、そこから遊歩道を登ってゆくと、無線鉄塔前に出ます。
2郭に鉄塔が建てられ、西側の最高所が主郭で展望台があります。
主郭南西側の腰曲輪の南側に堀切と土塁があります。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=鷹巣城に向かいます。
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2022/09/05 13:04
2022夏の青春18キップ14日目:丸岡藩砲台(梶台場) (2022/08/02 訪問)
堀江館からの転戦です。砲台跡駐車場入口(36.251413、136.154077)から進入して駐車しました。
1852年(嘉永5年)丸岡藩によって築かれました。 台場の設計は高島秋帆の門人で丸岡藩の砲術家栗原源左衛門によって行われたそうです。
北の海岸に下ってゆくと、砲台跡の弧状の石垣を備えた土塁があり、5門の大砲が置ける開口部がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=朝倉山城に向かいます。
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2022/09/05 13:00
2022夏の青春18キップ14日目:堀江館(番田堀江館) (2022/08/02 訪問)
吉崎御坊からの転戦です。県道109号線沿空スペース(36.211196、136.203928)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、堀江氏によって長禄年間(1457~60年)築かれたと云われています。
堀江氏は鎮守府将軍藤原利仁の後裔で、齋藤氏の流れを汲み、利仁より九世の孫實嗣のときに越前国坂井郡堀江郷より、堀江を名乗ったと云われています。
当初は番田に館を構え、細呂木郷・本庄郷・荒居郷に広く公文職を有した有力な勢力でしたが、長禄年間に越前守護の斯波氏と守護代甲斐氏・朝倉氏との内紛で守護方に味方して敗北し、衰退すると朝倉氏に従いました。
1506年(永正3年)加賀一向一揆宗徒との九頭竜川の合戦には堀江景実が参陣しています。その後、堀江氏は本拠を一向一揆に対応するために番田から下番に館を移したと云われ、それがこの下番の堀江館です。
1567年(永禄10年)堀江氏が秘かに一向一揆と結んで朝倉氏に背くとの風説が広まり、これを聞いた朝倉義景は魚住備後守景固と山崎長門守吉家を大将として堀江氏を攻めさせます。
このとき朝倉方は溝江館に本陣を置いて堀江景忠父子を攻めたが、堀江氏も巧みな戦術でこれを撃退し、最終的に和議となって堀江父子は堀江館を出て能登国熊木へ隠棲しました。
朝倉氏が織田信長に敗れて滅ぶと、1575年(天正3年)堀江藤秀(景忠を改名)は加賀一向一揆とともに越前に舞い戻り、溝江館の溝江氏を攻めて滅ぼすと、秘かに織田氏に通じて海神城主となり、名を岡部に改めました。
織田信長は藤秀の戦功を賞して、息子の利茂に加賀大聖寺の所領を与えましたが、藤秀は恩賞に不満をもっていたらしく、それが信長の耳に入り翌年に誅殺されたそうです。
番田の堀江館は番田駅の南東一帯に築かれていたそうですが、現在は遺構はなく道路脇に「堀江公番田館跡」の石碑などが建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=丸岡藩砲台に向かいます。
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2022/09/05 12:56
2022夏の青春18キップ14日目:吉崎御坊 (2022/08/02 訪問)
大聖寺城からの転戦です。吉崎御山公園駐車場(36.286909、136.251767)に駐車しました。
1471年(文明3年)本願寺蓮如によって開かれました。 比叡山延暦寺など迫害から逃れた蓮如が北陸の布教の拠点として開山したのが吉崎御坊です。
開山以後、各地から信者が集まり急速に寺町が形成されましたが、加賀国守護冨樫政親と一向門徒が対立することとなって、1476年(文明7年)蓮如は吉崎御坊をあとにしました。
1506年(永正3年)越前国の一向一揆は越前国守護朝倉氏によって加賀国へ追われ、吉崎御坊は廃寺となりました。
公園として整備されていますが、攻城した時は公園が工事中で中に入れませんでした。
東本願寺の宝物館のある石垣の上に建つ望楼を伴った三層の建物があるそうですが行っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=堀江館に向かいます。
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2022/09/05 12:52
2022夏の青春18キップ14日目:大聖寺城 (2022/08/02 訪問)
勅使館からの転戦です。錦城山公園駐車場入口(36.307518、136.306465)から進入して駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に狩野氏によって築かれ、その居城となったようです。
1335年(建武2年)中先代の乱に呼応した名越時兼が南下してきた際は、加賀国の国人・狩野一党の各氏が大聖寺城でこれを迎撃したそうです。
1337年(建武4年)新田義貞に荷担した敷地伊豆守、山岸新左衛門らが津葉清文の守る大聖寺城を攻略しました。その後、戦国時代には日谷城などと共に一向一揆の拠点となりました。
1555年(天文24年)越前国の朝倉宗滴(教景)が加賀に侵攻し、南郷城・千束城とともに大聖寺城も一日で陥落させました。
1567年(永禄10年)本庄(現・あわら市)の堀江景忠が一向一揆とともに朝倉義景に反乱した際、足利義昭の斡旋により、一揆方の二城とともに朝倉方の黒谷城、檜屋城(日谷城)、そして大聖寺城の三城を焼払って和議が成立しました。
1575年(天正3年)越前を平定した織田信長の軍勢は加賀にも侵攻し、江沼郡・能美郡を占領しました。
信長は柴田勝家に命じて日谷城と大聖寺城を修復させ、戸次広正や堀江景忠を配置しました。翌年には江沼・能美両郡で一揆が蜂起したが、救援した勝家によって鎮圧されました。この際、佐久間盛政が大聖寺城主となっています。
翌1577年(天正5年)にかけて、勝家は大聖寺城の修復とともに兵力を増強し、上杉氏の南下に備えました。1580年(天正8年)に勝家は本願寺勢力の金沢御堂を攻略し、拝郷家嘉を大聖寺城主にしました。
1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れた後は、北ノ庄(現・福井市)の丹羽長秀の与力として溝口秀勝が大聖寺城に44,000石で置かれました。現在の縄張になったのは、この頃のようです。
1598年(慶長3年)溝口秀勝は越後国新発田に移封となり、替わって小早川秀秋の家臣山口玄蕃が入封しました。
関ヶ原合戦で豊臣方に付いた山口玄蕃は、徳川方の前田利長に攻められ、一日にして落城し、一度修復されたものの、1615年(慶長20年)一国一城令によりで廃城となりました。
1639年(寛永16年)3代加賀藩主前田利常の子利治に70,000石を分地して、大聖寺藩が興されました。 大聖寺藩は大聖寺城を使用せず、東麓に館を構えました。
駐車場から遊歩道を歩き、2段の曲輪を経由して、本丸に着きます。
本丸には「山口玄蕃頭宗永公之碑」の石碑が建ち、西側には土塁から続く櫓台のようなものがあります。
本丸から二の丸に行く途中の左側下方に、馬洗い池があります。二の丸には四阿、木製腰掛、木製遊具がありました。
馬洗い池を取り囲むように本丸、二の丸、西の丸が配置されているようです。
二の丸の北側に三の丸、二の丸の東側に戸次丸があるようですが、時間の都合で行っていません。
本丸の南側の堀切を挟んで鐘ヶ丸があります。鐘ヶ丸の西側に土塁(櫓台)がありました。
鐘ヶ丸から尾根続に東側に数段の郭が配置されており、東端に東丸があります。東丸の下にはパトロン事件の際に、贋金造りに用いられたという洞窟が残っています。
たくさん写真を撮りましたが10枚に絞り込みました。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=吉崎御坊に向かいます。
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2022/09/05 12:46
2022夏の青春18キップ14日目:勅使館 (2022/08/02 訪問)
宿泊先のホテルルートイングランディア小松エアポートから、説明板道路前(36.303836、136.389352)に路駐しました。奥に説明板があります。
平安時代から南北朝時代の地方豪族の居館とされ、館主は勅使河原四郎左衛門または河原右京と伝えられているが定かではないようです。
勅使小学校校舎の横に発掘状況の一部を復元して公開しています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大聖寺城に向かいます。
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2022/09/05 12:18
品川台場案内図 (2017/04/10 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/09/05 12:15
苗木城跡案内図 (2016/11/26 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/09/05 12:13
百地氏城跡縄張図 (2018/04/22 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/09/05 08:13
城下町めぐり (2022/07/23 訪問)
福知山城は1年半ほど前にも訪れていますが、前回は時間がなく本丸だけだったので、今回は城下町めぐりを。
まずは御霊神社から。明智光秀を配神とする神社で、社標には桔梗紋が施され、境内には光秀にちなんだ漢詩や川柳の石碑が建てられています。また、御霊神社には「明智家法」など、光秀のものとされる書状が三通伝えられています。東隣の御霊公園には、福知山城本丸にあるものと同じ「明智光秀が話す自販機」が設置されていました。
続いては蛇ヶ端御藪へ。光秀が福知山城を築城する際に由良川と土師川の合流点に築いた堤防で、明智藪とも光秀堤とも呼ばれています。音無瀬橋から見ると、由良川の前に立ちふさがるように築かれていて、この堤防で流路を付け替えて城下町を開いたことがよくわかります。御霊神社境内には堤防を御神体とする堤防神社が祀られているなど、福知山は由良川の恩恵を受ける一方で長らく水害に悩まされてきたことから、福知山において光秀が400年以上経った今なお慕われているのは、堤防の築造により治水に成功したことも一因なのかもしれないな、とも。「善く国を治める者は、必ずまず水を治める」と言われますもんね。
福知山城公園観光駐車場に車を駐めて、城下町をぶらぶらと。遺構はほとんど見られませんが、説明板はあちこちに設けられており、ぎゃらりー京町の表に掲示されている「丹波の國 福知山故城」の絵図を参照しながら歩くと、往時の様子を感じることができます。京口門と番所跡 → 内堀・大手門跡 → 藩校惇明館跡 → 中堀・中門跡 → 内榎原門跡 → 樽水口跡とたどって福知山市役所へ。市役所西隣の小学校には藩校の名が付けられていました。市役所北東部の植込みには孝子として知られる松平好房の屋敷跡の石碑があり、東辺の道路沿いに銅門跡と二ノ丸跡の説明板があります。
二ノ丸跡の説明板から市役所の裏手を西に進んで伯耆丸へ。伯耆丸は二ノ丸、本丸へと続く丘陵を切通により独立させた曲輪で、現在は公園になっており、東端からはこれまでに見たことがない角度からの天守を眺めることができました。伯耆丸と本丸の間にあった二ノ丸は大正期に台地ごと削り取られてしまいましたが、岡の二町集会所の奥にわずかに石垣が遺っています。
左門丸跡を経て駐車場に戻る途中、本丸を見上げると模擬隅櫓(佐藤太清記念美術館)越しに天守が見えました(電線が邪魔ですが…)。この日も城下町の至るところから天守が見えましたが、角度によって見え方が全く違ってつくづく面白い天守ですね。
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