京都市内の明智光秀ゆかりの地をめぐってみました。
本能寺跡(京都市中京区元本能寺南町)
明智光秀が織田信長を討った本能寺の変の舞台。法華宗本門流の大本山で、信長の京での宿所のひとつでした。本能寺の変で焼失した後は、豊臣秀吉により現在の位置(中京区下本能寺前町)に移して再建されました。現在は高校と福祉施設になっており往時の遺構は見られませんが、西側と北東隅に石碑が建てられています。また、北西隅は消防団の納庫になっていて、本能寺の変では炎に包まれているだけに、あえてこの地に置いたのでしょうか。なお、現在の本能寺には信長公廟や本能寺の変での戦没者の合祀墓が設けられています。
粟田口刑場跡(京都市山科区厨子奥花鳥町)
山崎の戦いに敗れ、坂本城に落ち延びる途中に小栗栖で討たれた光秀の首は、まず本能寺で晒され、次いで粟田口で斎藤利三と共に首と胴を繋いで磔にされたと伝わります。刑場は東国から京への入口にあたる粟田口峠に設けられていましたが、現在では道路沿いに説明板と石碑(藪の中)が見られるくらいです。光秀に限らず多くの人々が処刑された地ですので、しばし冥福を祈って手を合わせてきました。
明智光秀首塚(京都市東山区梅宮町)
粟田口に晒された光秀の首は、数日後に蹴上あたりに埋められ塚が築かれたと伝わります。そして、江戸中期に蹴上の塚の石塔婆が白川橋近くの現在の位置に移されて、明智光秀首塚と呼ばれているんだとか。首塚への入口脇にある和菓子店「餅寅」では、桔梗紋入りの「光秀饅頭」が販売されていました。首塚は地元で大切に守り継がれているようです。
帰宅してから光秀が足利義昭を守って奮戦した本圀寺跡に行きそびれていたことに気付きました。麒麟がくる紀行(京都編)はまだ終わらないようです…。
# 「城ふぉとコンテスト」受賞の皆さま、おめでとうございます! それぞれ納得の写真ばかりで、基本的に見たまま撮るだけの私もちょっとは見習ってセンスのある写真が撮れればなぁ、などと思っております。
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