、、、と言ってもべつにピンチというわけではありません(ちょっと流行に乗ってみました)。むしろ、徳川四天王筆頭として、井伊直政が手堅い仕事をしたのが箕輪城(群馬県高崎市)。また、この配置から関東に移封された家康の首都圏構築プランが見えてきます。
箕輪は徳川の関東支配の時期に近世城郭としての体裁を整えました。主郭部に積まれた石垣の多くは直政が城主だった頃の遺構とされます。ただ、8年後の1598年には居城を高崎に移したため廃城となります。地形を生かした城域はゆっくり見て歩くのがおすすめ。高崎駅とを結ぶバスは本数が少ないため、時間に余裕を持って行動しましょう。
築城は16世紀前半、関東管領山内上杉の重臣・長野氏によります。その後、西上野に足場がほしかった信玄が1566年に攻め落として城代を置きますが、武田滅亡後は城主が目まぐるしく代わる展開。秀吉の小田原平定でひと段落します。
榛名山東南麓の低い尾根の端に、河岸段丘を利用して築かれた広大な平山城(47ha)で、曲輪は梯郭式に配置。大規模な空堀や土塁が各所に残されています。注目は主郭部を南北に分断する大堀切。これにより、どちらか片方が陥落しても、もう一方に籠って戦い続けることができたといいます(一城別郭)。堀切は深さが最大20m、幅30m。斜面の下の方は石垣で補強されています。また、発掘調査で直政時代の礎石が確認され、2016年には二の丸の南に郭馬出西虎口門が復元されました。
さて、関東に入った家康は江戸から100km前後の各要所に腹心を配置します。このうち、北西の高崎と厩橋(群馬県前橋市)は、真田と上杉に睨みを利かせる意図が見て取れます。ちなみに、後に前橋に入る雅楽頭家・酒井家は井伊家同様、大老の家柄ですね。
このほか、大多喜(千葉県)、小田原(神奈川県)、水戸(茨城県)、館林(群馬県)、甲府(山梨県)、宇都宮(栃木県)もほぼこの円周上に位置。外様への押さえだったり、後の将軍スペアの御座所だったりと、狙いはさまざまですが、確実に布石を打った印象です。北条滅亡後、真空状態となった関東に放り込まれた家康が「どうした」のか、丁寧に見て回るのも楽しいかもしれません。
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