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おっちゃん

福山城(17世紀後半の姿) (2013/05/10 訪問)

現地案内板より抜粋

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ぴーかる

桜生城 (2022/09/04 訪問)

【桜生城】
<駐車場他>野洲市歴史民俗博物館駐車場(来館前提)
<交通手段>車

<感想>日帰り東近江ちょこ城巡りの旅2城目。桜生(さくらばさま)と呼びます。築城年代は定かではないが澤氏によって築城されました。現在も末裔の方の個人宅になっているようでそっと見てきました。水濠が良く残っています。西側の土塁は先達の方々の時より鬱蒼としていました。

<満足度>◆◇◇

<周辺観光>野洲市歴史民俗博物館は別名銅鐸博物館とも呼ばれ北西側にある大岩山から出土した銅鐸の現物と複製が沢山展示されています。この辺りの地域は昭和に発見された銅鐸が有名です。その大岩山古墳群からは日本最大の高さ134㎝の銅鐸も出土したそうです。圧巻です。2Fには城びと登録のある永原館の復元模型が展示されています。一般入館料200円。

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ランフランコ

#18 別名なし (2022/09/04 訪問)

明智光秀が築城したようです。非常に見晴らしの良い高台にあります。さぞや気持ちの良いお城であったろうと思われます。

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まっちゃん88

現地説明会 終了しました (2022/09/05 訪問)

障子掘の堀の始まりの様に見えます。
駐車場となる予定の為、記憶遺産としてしっかりと展示等お願いしたい。

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カズサン

特別公開見学後の西の丸と菱の門 (2022/08/28 訪問)

 特別公開の見学を終えて菱の門まで戻って来ましたので、ビュースポットの一つ西の丸から眺める天守群を見ようと西の丸に登る、人も多く順番待ちで撮影、大変絵になるスポットです。
 西の丸の渡櫓は時間も無くパス、以前見てるからいいかと外より眺める、西の丸内部からは桜が茂り過ぎて建物を撮る事が難しい、途中の二階渡櫓と千姫の化粧櫓を写して、菱門へ人が多く菱門の上だけ、人も入れて撮るが中々投稿写真に出来ず、入城ゲートから出て西の丸角のカの櫓を撮影、菱の門を一部入れて撮影、乾小天守から見た西の丸別写真も投稿します。
 

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カズサン

特別公開からの下城路 (2022/08/28 訪問)

 姫路城特別公開、大天守閣を最上階まで登り、登り階段と下り階段は別々なったのですね、天守閣を降りた所に今回の公開案内が出てる、乾小天守東小天守イ・ロ・ハ渡櫓を圧巻興奮の見学で終りる。期限は8月の末までその4日前の見学。
 
 登閣口と同じ水の五門から下城する、備前丸へ降りて南西からの天守群、南からの天守群を撮影、人は多く、一瞬のタイミングで備前丸広場に人影のない大天守閣南面を撮影、備前丸から備前門を通り、帯の櫓前を通り、井戸曲輪から備前丸の東側石垣沿いに天守閣を仰ぐ、また備前丸東面石垣に短冊形の石が立と横2個で纏まった長方形石垣が?これはなんだろうか?不思議のまま、リの門を通り、リの門脇櫓ヘの櫓(太鼓櫓)を確認。
 お菊の井戸の有る上山里曲輪へ、お菊井戸、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓を確認し、リの渡櫓には明治、昭和、平成大修理で天守鯱を都度作り直した鯱のレプリカが展示してある。ぬの門三階櫓門を通り枡形へ、ここには人面で有名な石垣が残ってる、備前丸南西の角高石垣を見上げて、をの門跡を通り二の丸へ、菱門裏三国堀からまたビュースポットの天守群を仰ぎ見る、素晴らしく絵に成りホッとします。
 
 

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イオ

味土野女城(京都府京丹後市弥栄町須川味土野) (2022/07/23 訪問)

味土野女城(城びと未登録)は、役行者が開いたとされる修験道の修行場・金剛童子山の山裾の小高い丘の上に位置し、細川忠興が本能寺の変により謀反人の娘とされた細川玉(後のガラシャ)を幽閉した城館で、玉は清原マリアら侍女達とともに、羽柴秀吉の取り成しにより大坂屋敷に移るまでの2年弱をこの地で過ごしました。

味土野は丹後の山深い地であり、味土野女城の前まで車で行けるものの、道幅は狭く対向は困難です。とはいえ、こんな山奥を訪れる物好きは限られるだろうし、そう滅多に対向することはないんじゃないか…と思いきや、折悪しく2台と遭遇し、一度は退避場所まで30mほどバックする羽目になりました。

味土野女城の前の駐車スペースに車を駐めて登城開始。主郭の一段下の曲輪は休憩所(ガラシャの東屋)になっていて、主郭の南下には「細川ガラシャ夫人隠棲地」の説明板があり、その左脇には「ガラシャの古井戸」がありました。奥に回り込むと北西隅から主郭に上ることができ、主郭には細川忠興夫人隠棲地の石碑や細川ガラシャ略伝の説明板、ベンチが設けられています。また、谷を隔てた向かい側の尾根には玉の警護のために設けられた味土野男城があり、主郭から見渡すことができます(案内板あり)。主郭の北下には馬場があり、馬水飲地もあったようですが、時季的に藪に沈んでいて突入はやめておきました。

味土野の主要スポット案内図によれば、周辺にもガラシャの名を冠した地があり、味土野女城の少し手前で分岐した先にはガラシャの化粧水場が、徒歩10分ほど下った谷には落差50~60mの味土野ガラシャ大滝があり、展望台と駐車場が設けられています。

麒麟がくる紀行の一環として味土野を訪れてみましたが、山奥(宮津から車で1時間弱)なのは想像通りながら、車2台と対向し、ガラシャの東屋にもガラシャ大滝にも先客があり、味土野女城少し手前の宿泊施設(ガラシャ荘)にも数台の車が駐まっているなど、思っていたよりずっと人気スポットだったようです。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:大高城 (2022/08/03 訪問)

鷲津砦公園南入口付近から15分くらい歩き、大高城跡公園北側入口小道(35.065392、136.935977)に到着し、大高城跡公園に入りました。
本丸に向かう途中に城址碑、堀らしき溝を経由して本丸に着きました。
本丸の北西側には城山八幡神社が祭られていました。
本丸➡二の丸➡三の丸へと進み土橋、土塁、横堀が確認しながら南下すると大高保育園脇道路(35.062974、136.935484)に出ます。

説明板によると、室町時代、永正年間(1504~21年)に花井備中守によって築かれたようです。
自分的には、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際、大高城に今川方の松平元康が兵糧を届け、鵜殿長照に代わり元康が城の守備につき、
鵜殿長照に桶狭間に向かう織田信長の背後を攻めるよう命を受けたが、元康が固辞した話が記憶に残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=丸根砦を徒歩で目指します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:鷲津砦 (2022/08/03 訪問)

星崎城からの転戦です。JR大高駅から4~5分くらい歩き、鷲津砦公園北入口(35.069480、136.942989)に到着しました。
ここから公園内に入り、説明板、砦阯碑、空堀などを確認して鷲津砦公園南入口(35.068684、136.941170)側に出ました。

説明板によると、大高城の北東約700mの丘陵上に、大高城の今川勢に備え永禄2年(1559年)丸根砦と共に築かれ、
永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いの前哨戦には飯尾定宗らが立て籠もり、今川の重臣朝比奈泰能(やすよし)の軍勢に攻められ、全滅したようです。

遺構らしく感じたので、散策路ではなく竹林方向に降りていきましたが、青いフェンスに阻まれ進めず、素直に散策路を歩きました。
遺構としては空堀を確認しました。散策路に鷲津砦阯碑、鷲津砦公園南入口に鷲津公園碑があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=大高砦を徒歩で目指します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:星崎城 (2022/08/03 訪問)

丹下砦跡の光明寺から20分ちょっと歩き、笠寺小学校校門付近(35.089431、136.935319)に着きました。
校門は閉まっており、校門外から説明板と城址碑の写真を撮って撤退しました。

説明板によると、築城年代は不明のようで、織田氏に仕えた岡田重善、重孝が城主だったそうです。天正16年(1588年)に廃城になったようです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鷲津砦を目指す為、電車でJR笠寺駅からJR大高駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:丹下砦 (2022/08/03 訪問)

鳴海城跡公園から10分くらい歩き、光明寺入口付近(35.086002、136.950382)に着きました。
現在の光明寺の裏山が城跡に当たるそうですが、墓地&宅地化され、城址碑も存在しません。

今川義元の猛将岡部元信が守った鳴海城&南の大高城に対抗すべく、織田信長は鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三砦を築き、
さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築きました。
今川義元が尾張に侵攻して来ると、信長は清洲城を出陣し、まず丹下砦へ入り、次に善照寺砦へ移りました。さらに中嶋砦に移った後、桶狭間に向かったそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=星崎城を徒歩で目指します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:鳴海城 (2022/08/03 訪問)

善照寺砦跡の砦公園から10分弱歩き、天神社の由来説明板付近(35.081249、136.951363)に着きました。その後、鳴海城跡公園に向かいました。

鳴海砦は室町時代の応永年間に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれたそうです。
歴史上、自分が知っているのは桶狭間で今川義元本体が敗北した後も信長に抵抗し続けた岡部元信が、主君・義元の首級と引き換えに城を明け渡した話です。
岡部元信は鳴海城を明け渡し駿府へ帰還する途中、刈谷城を落とした剛の者で、今川没落後は武田信玄/勝頼に仕え、天正9年(1581年)の高天神城の戦いにおいて戦死しました。享年70歳近かったそうです。

そういえば、岡部元信は「信長の野望」のゲームでも政治力は低かったけど統率や武勇は高かったと記憶しています。(ここ10年くらい?ゲームをしていないので、評価は不明)
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=丹下砦を徒歩で目指します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:善照寺砦 (2022/08/03 訪問)

中島砦跡看板付近から10分くらい歩き、砦公園(35.081657、136.957383)に着きました。
善照寺砦は砦公園になっており、砦公園碑と説明板以外、何も残っていませんでした。

説明板によると、永禄2年(1559年)織田信長が、今川義元の岡部元信が守る鳴海城に備えて築いた三砦の一つで、
永禄3年5月19日、信長は桶狭間に奇襲する直前にこの砦の下に兵を集結したそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鳴海城を徒歩で目指します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:中島砦 (2022/08/03 訪問)

鳴海駅から4~5分くらい歩き、中島砦跡看板付近(35.076973、136.953923)に到着しました。
フエンス扉より個人宅に入り、城址碑を確認しました。他には何もないです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=善照寺砦を徒歩で目指します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:一宮城 (2022/08/03 訪問)

宿泊先のホテルルートイン一宮駅前から7~8分くらい歩き、一宮城跡碑前(35.301640、136.801832)に着きました。

築城時期は不明(天文・弘治年間)です。尾張国の一宮である真清田神社の宮司の家系で神社を賜った関成重が、真清田神社、及びその領地を守る為に築城したようです。
関成重の子である関長政(長安・共成)は、織田信長、豊富秀吉に仕えたが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにて討死しました。
その後、織田信雄の家臣・不破源六広綱が入城するが、天正18年(1590年)に広綱が去ってから廃城になりました。
一宮城主の関氏は清和源氏の子孫だそうです。森可成の娘が関小十郎右衛門共成に嫁いだことから、森氏との関わりが深いそうです。

周辺は本町商店街になっており、城の形跡は全くありません。城跡碑の写真を撮って撤退しました。
朝早く(現地到着4:40)、目が覚めていない状態での攻城の為、写真のピンボケはご容赦ねがいます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=中島砦中島砦を目指す為、電車で名鉄一宮駅から鳴海駅へに向かいます。

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にのまる

天守の庭 (2022/06/10 訪問)

喜斎門から下山里曲輪に戻り、鏡石の用いられた石垣を見ながら「天守の庭」へ。
昭和の大修理の際、地盤沈下を防ぐため鉄筋コンクリートの人工地盤を築いたために不要となった大天守礎石が元通りに配置され展示されています。現存天守の本物の礎石による建物平面再現を見られるなんて、感謝カンゲキ雨嵐♪
ここはまだ無料エリアですが、姫路駅に着いてから既に2時間が経過。じっくり見たつもりでもすでに見逃しているポイントもあり、手強さ実感です。
当初は「一日かけて見てこよう」と考えていましたが、一日どころか一生かけても見尽くせそうにありません。でもそれは残念なことではなくて、楽しみなワクワクした気持ちなのです。

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朝田 辰兵衛

スタンプ設置場所の木の扉が外れて,閉まらなくなってました。 (2021/07/08 訪問)

東屋内部にあるスタンプ設置場所の木の扉が外れて,閉まらなくなってました。幸い,開口部は内陸部を向いており,潮風の影響は受けないと思いますが,冬を乗り切れたのか心配です…。

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まーやん

これも湖城だった (2022/07/29 訪問)

ドライブ途中、たまたまサイト見て知った大溝城跡。ここは安土や坂本などと湖城ネットワークを形成していた模様。
説明板によれば、元々は磯野員昌の居城だったが出奔し織田信澄が城主となる。その後様々変遷を経て解体され、水口岡山城に転用されたとある。
現地は石垣が程よく残り雰囲気がある。昔はここまで湖だったんだなぁと、爽やかな夏空のもと馳せてみる。

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イタさん

高台の住宅地に残る森が主郭部跡 (2022/09/05 訪問)

 新横浜駅から5分ほどで大豆戸山 正覚院に着く。本堂などの建屋左奥が城跡の本丸辺り。正覚院を過ぎ狭い道を右折すれば、正面右側が城跡となる。坂を登り切った所に篠原城址緑地の案内板があり、城側はフェンスで仕切られている。東に行くと駐車場の奥に稲荷神社が建っており、背後は10m以上の差がある。先では住宅地の間を上る遊歩道?があり西へ行ける。道の両側はフェンスで仕切られ、立入禁止表示板もある。この辺りに広い郭があったようだが、わずかな平地と南斜面の竹林内に帯郭状のものが見える。一部中を覗い見る場所からは、本丸東面の切岸か堀なのか遺構らしきものが見える。遊歩道入口から西にかけ、「篠原城と緑を守る会」さんのHPを観ると、2011年初めに発掘調査が行われている。今より数倍の森が広がっていたように見え、埋め戻され2016年には現在の住宅地に変わっている。
 説明板には金子城とも呼ばれ、鎌倉時代(平安時代とも)に金子十郎家忠が砦を、戦国時代に金子出雲守が築いたとされる。小田原北条氏滅亡後、廃城になったようだ。年代その他、説明板により多少の違いはある。

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駿府城

第三回 駿府城お散歩講座を開催します!

令和4年9月25日(日)に、駿府城を巡るお散歩講座を開催します。
 
発掘調査現場から三ノ丸堀までを歩きながら、駿府城跡各所の見どころを発掘調査の成果を踏まえてご紹介します。
天守台の発掘調査に関わった調査員が解説しながらご案内します。
皆さんも調査員の話を聞きながら駿府城公園をお散歩してみませんか?
※申し込み必須 参加費は無料です。

詳細は添付画像をご覧ください。

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