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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:井上城 (2022/08/04 訪問)

小折城からの転戦です。小折城の生駒家墓碑前から徒歩15分ちょっとで、井上城址説明板前(35.299788、136.875674)に着きました。

応永年間(1394年-1428年)に有馬主殿正が築城&居城としたそうです。
下津城主で尾張守護代の織田郷広が尾張国の統一をするために従うよう命じたが、それを拒否しました。
1441年(嘉吉元年)には重松主水正が城主でしたが、尾張守護代であった下津城主・織田郷広によって攻められ落城し、そのまま廃城になったとされています。

五条川沿いに案内板が、そして築山を登ったところには城址碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=九之坪城を目指す為、電車で石仏駅から西春駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:小折城 (2022/08/04 訪問)

宮後城からの転戦です。布袋駅から徒歩4~5分で①移築中門前➡(徒歩20分弱)②生駒屋敷説明板前➡(徒歩2~3分)③吉乃御殿跡説明板前➡(徒歩2~3分)④久昌寺前➡(徒歩1分)⑤生駒家墓碑の順番に巡りました。
各所のGPS座標は以下の通りです。
①:移築中門前(35.319577、136.870717)御典医廣間家(現広間医院)
②:生駒屋敷説明板前(35.310273、136.875741)「生駒氏の邸址」の石碑、「生駒屋敷(小折城)」の説明板あり
③:吉乃御殿跡説明板前(35.309996、136.873751)道路を隔てた反対側の竜神社鳥居横に竜神社案内板があります
④:久昌寺前(35.308954、136.874988)久昌寺は生駒家菩提寺
⑤:生駒家墓碑(35.309506、136.874633)吉乃のお墓があります

小折城は織田信長の側室となった吉乃の実家である生駒氏によって築かれた城です。
吉乃は3代・生駒家宗の娘で、嫡男・織田信忠、次男・織田信雄、長女・五徳を産んでいます。
1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」では最前線となり、城は大改修されましたが、信雄が追放されると家長は隠居したようです。
その後、息子の生駒利豊は豊臣秀吉、さらには徳川家康に仕えました。
生駒氏は江戸時代も尾張藩の家臣として仕え、一国一城令で廃城となりましたが、生駒氏下屋敷として規模を縮小しつつ存続を許されとそうです。

「生駒氏の邸址」の石碑、「生駒屋敷(小折城)」の説明板は、布袋東保育園前に設置されています。
攻城時間は45分くらいでした。(①から⑤までの移動時間も含みます)
布袋駅近くにはたくさんの布袋様の像があったので併せて投稿します。
⑤:生駒家墓碑前から徒歩で、次の攻城先=井上城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:宮後城 (2022/08/04 訪問)

古渡城からの転戦です。江南駅から徒歩20分くらいで、城址柱付近(35.343113、136.884327)に着きました。

宮後城は蜂須賀正勝(蜂須賀小六)の嫡男である蜂須賀家政が生まれたとされる城です。城主は安井重幸の息子である安井重継でした。
重継の姉である安井御前は蜂須賀正利に嫁いでいましたが、蜂須賀城が織田信秀との対立により奪われてしまったため、長男の正勝とともにこの城に移っています。
その後、1584年(天正12年)に起きた「小牧長久手の戦い」では羽柴秀吉方の砦として修築されましたが、和睦後に破却されました。
現在城址は住宅地となっており遺構はほぼ消滅しています。

県道64号線沿いに城址柱があり、反対側に説明板があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=小折城を目指す為、電車で江南駅から布袋駅を目指します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:古渡城 (2022/08/04 訪問)

金山駅から徒歩15分弱で、東別院にある古渡城址碑付近(35.151804、136.901135)に着きました。
東別院の立派な本堂と裏腹に城址碑と説明板がひっそりと建てられています。
東別院の石碑を確認して、堀跡と言われている下茶屋公園(35.151416、136.903154)の池に向かいました。

古渡城は1534年(天文3年)織田信長の父である織田信秀によって築かれたと言われている城です。
信秀は那古野城を信長に譲ったあと、この城を居城としています。
1548年(天文17年)に信秀は末森城を築いて移ったため、わずか14年で廃城となりました。信長が13歳で元服したのもこの城です。
1702年(元禄15年)城址に東本願寺別院が建てられており、敷地内に石碑と案内板があります。

東別院の立派な本堂、山門は素晴らしい。これだけでも見学の価値があります。
それにしても、織田家の城跡に本願寺があるというのは考え深いですね。
下茶屋公園の池も確認しましたが、公園ですね。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=宮後城を目指す為、電車で金山駅から江南駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:黒田城 (2022/08/04 訪問)

朝早く起きて、ホテルの朝食前に黒田城を攻城しました。
電車で尾張一宮駅から木曽川駅に向かい、木曽川駅から徒歩5分くらいで、公園の冠木門付近(35.345310、136.781301)に着きました。

黒田城は山内一豊の父、山内但馬守盛豊の居城で、一豊の生誕地と考えられている城です。
盛豊は岩倉城主・織田伊勢守信安の家老として仕えていましたが、1557年(弘治3年)に織田信長に攻められ落城しました。
その後は城主がたびたび替わり、1590年(天正18年)には小田原征伐の際に討死した一柳直末の弟で家督を継いだ一柳監物直盛が入り、30,000石で黒田藩を立藩しました。

遺構は残っていませんが、「黒田城趾」の石碑と、説明案内板、山内一豐公の銅像、日清、日露戦役紀念碑などが建てられています。 
攻城時間は5分(電車の時間がない為、速攻で撤退です)くらいでした。
次の攻城先=古渡城を目指す前に、一旦、電車で木曽川駅から尾張一宮駅に向かい、ホテルに戻って朝食を取ります。その後、電車で尾張一宮駅から金山駅に向かいます。

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天守閣 (2022/09/08 訪問)

 いろいろな角度から見た天守閣の写真を集めてみました。どこから見ても、いい感じに見えます。

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朝田 辰兵衛

山頂エリアのみです。 (2020/12/06 訪問)

JR基山駅から,徒歩約15分で基山町民会館到着。基山町民会館にて,スタンプペッタン。そして,情報収集。基山町民会館から,徒歩約60分で登城口到着。登城口からは,徒歩約10分で山頂エリア到着。登城口から山頂エリアまでのアクセスについては,雨天時を回避したほうがいいと思います。
なお,山頂エリア一帯は,眺望が広範囲で開けており,大宰府防衛拠点の位置づけに納得しました。
当時,水門跡は豪雨の被害を受けており,遠望しかできない状態でした。山頂エリアからのルートも通行止め。
水門跡へ行くには,基山町民会館付近まで下山してから,さらに徒歩約60分の登山となるため非効率。しかも,遠望のみということで,時間対効果を勘案して断念しました。みなさんの書き込みを見ると,今は水門跡へ行けるみたいですね。

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道標の距離数があ (2022/09/04 訪問)

城びと先達何人かが、鳥取城から山中を横移動して太閤ヶ平陣へ行ったとの投稿をされています。鳥取城山上の丸から、電波塔がある、太閤ヶ平陣が、歩くにはほどよい距離感で見えました。直線距離で、1.5kmと。包囲される身だと、とても緊迫感があったでしょう。
山上の丸を出たら、太閤ヶ平陣への道標が整備されているのだろうと思って歩き始めましたが、分岐があってもなかなか現れません。やっと太閤ヶ平陣への道標が現れたら、あと「5km」と。腰が抜けそうになりました。しばらく行くと、あと「1km」に急減。
城びと先達が投稿されてない写真を中心に掲載します。

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カズサン

二度目の特別公開番外写真 (2022/08/28 訪問)

 今回の特別公開見学し係員の方に今回を入れて2度目の乾小天守・東小天守・イ・ロ・ハ渡櫓特別公開だそうです。次回は何時に成るか分からないとの事、大変ラッキーは公開体験経験でした。
 
 大天守閣を直近に見るのは平成の大修理の特別見学の時(H25.05.13)以来で9年振りです、大天守を直近に見るのには現在連立の櫓群から眺めるしかありません、直近に見た大天守の圧巻的な迫力、高揚感を伝えたく、先に今回の特別公開を投稿しましたが、選外になった写真も捨てがたく、くどい様ですが投稿致しますのでご了承下さい。

 きっかけを与えてくれたヒロケンさんの投稿に感謝です。いい体験経験でした。
  
 

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イオ

意外に見どころあり (2022/07/23 訪問)

織田信長の命で一色氏を滅ぼした功により丹後国を与えられた細川藤孝が築いた城で、本能寺の変の後、藤孝が出家して田辺城に移ったことにより細川忠興の居城となりました。関ケ原の戦いの後は京極高知氏が入り、京極高広が近世城郭として完成させ、京極氏が改易されると譜代大名が再三入れ替わって、本庄松平氏が七代続き明治を迎えました。

大手川東岸に位置し、本丸、二の丸、三の丸からなる平城(海城)で、市街化により地表面に遺構はほとんど見られませんが、発掘調査では石垣や礎石建物などが確認されています。

大手川ふれあい広場の駐車場に車を駐めて登城開始。広場から見ると、外堀代わりの大手川沿いに復元された石垣と土塀が続いており、なかなか風情があります。広場には、カトリック宮津教会を背景に、細川忠興と共に宮津城で暮らしていた細川玉(後のガラシャ)の像が建てられており、柳縄手の武家屋敷の長屋門(大村邸跡)が遺っています。時季的に葉桜でしたが、細川藤孝にちなんだ「宮津の幽斎桜」も植えられていました。

中橋を渡って宮津小学校へ。小学校の敷地はかつての藩校の跡地にあたり、宮津城の太鼓門が正門として移築されています。大手川沿いの東岸には白壁の土塀が続き、「しらかべのみち」として整備されています。駅前通りを東に進むと南側に一色稲荷社があり、一色義清自刃之処の石碑が建てられていました。細川忠興に謀殺された一色氏の怨念を恐れる思いが、城内に社を存続させたと考えられるんだとか。宮津武田病院北西隅の国道沿いには、宮津城の説明板と本丸くろがね門の袖石垣、大手橋の橋脚礎石、波止場の船つなぎ石が設置されています。国道を東に進むとたもの木が立っています。二の丸の北東隅に位置する樹齢300年超の古木で、国道整備や下水道整備の際にも、関係者の尽力により歩道や水路を迂回させて存続し、往時の姿を今に伝えています。

周辺では、宮津城から西南西に約11kmの後野愛宕神社には、本丸御殿の玄関が拝殿として移築されています。200段を超える石段を登った先に、古びてはいるものの立派な唐破風と京極氏の平四 つ目結紋を備えた拝殿が建っていました。また、宮津城から南南西に約3.5kmの盛林寺には、細川玉のもとに届けられた明智光秀の首級を葬ったと伝わる光秀の首塚があり、その隣には一色氏累代の供養塔も建てられていました(近年に建て替えられたのか新しい感じでしたが)。

宮津城の次は細川幽斎の隠居城、田辺城に行くつもりでしたが、瑞林寺に大きく寄り道したり、味土野への往復が思いのほか大変だったりで時間がなくなり、この日はここまでにしました。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:深溝城 (2022/08/03 訪問)

形原城からの転戦です。
現在深溝城址は、株式会社三協幸田工場の敷地となっており、正門脇の道路沿いに石碑と案内板があります。
また幸田町六栗本郷の民家に深溝陣屋門が移築されているほか、陣屋絵図の写しが幸田町郷土資料館に収蔵されてるそうです。
以上の情報より、まずは三ヶ根駅より15分くらい歩き、説明板前(34.839375、137.176970)に向かいました。
幸田町郷土資料館は夜遅くなって閉まっている為、本光寺山門(34.837231、137.181530)に向かいました。

深溝城は十八松平のひとつ、深溝松平氏の居城でした。
松平忠定から4代・松平家忠まで在城しましたが、徳川家康の関東移封に伴い、忍城へ移りました。
家忠は「関ケ原の戦い」の前哨戦となった「伏見城の戦い」で鳥居元忠とともに討死し、その功もあり5代忠利は旧領に戻り三河深溝藩を立藩しましたが、1612年(慶長17年)に吉田城に移ったことにともない廃藩となりました。
その後、板倉氏が深溝陣屋をかまえました。

深溝松平家墓所の本光寺もなかなか良かったです。
攻城時間は、移動時間も含め20分くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かう為、電車で三ヶ根駅から尾張一宮駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:形原城 (2022/08/03 訪問)

本證寺からの転戦です。西浦駅より10分ちょっと歩き、三協樹脂㈱城山工場手前の形原城跡標識(34.790787、137.185141)に到着しました。
標識に従い進むと、「古城稲荷社」の鳥居があり、その先に二郭があり「お妙塚」が祀られています。
付近に稲荷社のある東古城、北古城、南古城などの地名が残り、その城域は広範囲のようです。

築城年代は定かではないようですが、平安時代末期に新羅三郎義光の孫、清光の弟である方原下司次郎師光が本城を築いたのが始まりとされています。
その後、松平信光の四男與副(ともすけ)が宝飯郡形原に居して形原松平氏の祖となりました。形原松平氏は與副の後、貞福・親忠・家広・家忠・康信と続きます。
四代・家広のときには今川氏に属していましたが、桶狭間合戦の後に家康に仕えたようです。
しかし、これに怒った今川氏当主・今川氏真によって人質であった妻子をみせしめに形原城から見下ろせる稲生の浜で串刺しにして処刑されたそうです。
天正9年(1581年)北条方の間者に13才の又七郎(後の六代家信)が暗殺されようとしたとき、乳母のお妙が身をもってこれを救った。亡骸は塚に手厚く「お妙塚」に葬られました。
天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に従い、六代松平家信は上総国五井に5,000石を領して移りました。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後、旧領の形原へ移され旗本になりました。元和4年(1618年)には10,000石を与えられて大名に列し、その所領は形原藩15,000石となりました。
さらに翌年には摂津国高槻へ20,000石で加増転封となったそうです。これにともない形原城も廃城となりました。

稲荷神社って、赤い鳥居がズラっと並んでいるイメージを持つのは自分だけでしょうか?
城跡は住宅化によりほぼ壊滅状態ということのようです。ただ、主郭と二郭だけが辛うじて残っており、二郭の石段下横には説明板がありました。
石段を登った所が主郭です。神社の社殿と説明板、城址碑があります。
三河湾、渥美半島を望むことが出来ます。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=深溝城を目指す為、電車で西浦駅から三ヶ根駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:本證寺 (2022/08/03 訪問)

桜井城からの転戦です。南桜井駅より徒歩15分くらいで、本證寺門前(34.899890、137.086071)に着きました。

1206年(建永元年)頃に築かれた寺院です。
三河国三か寺の一つとされ、1563年(永禄6年)に起きた三河一向一揆では本證寺の空誓(蓮如の孫)が門徒に激をとばしてその中心となりました。
この一揆では一向宗の門徒ばかりでなく多くの国人・土豪が終結して松平氏の兵力を上回っていましたが、1564年(永禄7年)空誓率いる本證寺の一揆軍が家康に敗れ、寺内不入の確認などを条件として和議となりました。
しかし、家康は一向宗を禁止するとともに寺を焼き払い空誓は足助に逃れました。1585年(天正13年)空誓は、許されて本證寺に戻り寺地を安堵されました。

境内を取り囲むように巡らされた水堀が印象に残りました。
遺構の鐘楼は石垣修復中で近づけませんでしたが、海鼠壁を用いた経堂、隅櫓のような鼓楼は確認しました。
薬医門形式の裏門は見落としました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=形原城を目指す為、電車で南桜井駅から西浦駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:桜井城 (2022/08/03 訪問)

安祥古城からの転戦です。桜井駅より徒歩10分くらいで、城山公園入口(34.920872、137.092436)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、小浦喜平次忠重によって築かれました。
忠重は伊豆国から地頭としてこの地に移り住んでいましたが、文明年間(1469年〜1487年)に松平信光が安祥城を落とし居城としたことで、その家臣となりました。
松平親忠(松平信光の三男)は、はじめ四男の親房を城主としましたが、親房に子がいなかったため、松平長親の三男信定が養子となり、桜井松平氏の祖となりました。
1530年(享禄3年)宇利城攻めに参陣した信定は、兄福釜松平親盛とともに大手より攻撃したが、親盛を救援せず親盛が討死したことで清康の怒りをかったそうです。
信定はこれを恨み清康が尾張国守山へ進軍したときも、上野城より動かず、信定の子清定の妻が織田信秀の妹ということもあって、織田方へ内通したとの噂がたちました。
清康が尾張国守山で家臣に殺されると、信定は松平宗家の乗っ取りを企て、清康の子広忠は一時岡崎を離れて流浪しました。
1590年(天正18年)徳川家康の関東移封にともない、桜井松平氏は武蔵国松山へ10,000石で移封となり廃城となりました。

現在は城山公園として、一部残存している土塁の上に石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=本證寺を目指す為、電車で桜井駅から南桜井駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:安祥古城 (2022/08/03 訪問)

安祥城からの転戦です。安祥城より徒歩10分ちょっとで、説明板前(34.947584、137.091278)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、平安時代に志貴庄の荘館があったとも云われています。
鎌倉時代には地頭館として安藤氏が在城し、室町時代は足利一門の和田氏が五代続き、永享の乱の後、和田親平は安祥城を築いて居城を移し廃城となりました。
また、1540年(天文9年)に織田氏安祥城を攻めた際には松平氏側の前線となったといわれ、松平康忠が討死しています。

宅地内にある小公園に土塁状の土盛りの上に社口社があり、説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=桜井城を目指す為、電車で南安城駅から桜井駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:安祥城 (2022/08/03 訪問)

知立城からの転戦です。南安城駅より徒歩12~13分くらいで、本丸跡の大乗寺入口(34.945749、137.099345)に着きました。
説明板はこの付近(34.945042、137.099596)、二の丸跡の八幡宮入口(34.944400、137.098082)、安城市歴史博物館は三の丸跡のようです。

1440年(永享12年)和田親平によって築かれました。1471年(文明3年、一説に文明11年)松平信光が謀略によって攻め取り、以後松平清康(徳川家康の祖父)が岡崎城へ移るまで三代の居城でした。
清康は岡崎城を居城として三河に勢力を伸ばし、1535年(天文4年)には尾張国守山に兵を進め織田信秀と対峙しますが、家臣に殺害されます。
その後、織田信秀は三河に侵攻し、幾度となく安祥城に攻め寄せ、1544年(天文13年)安祥城を攻め落とします。
これに対して松平氏は今川氏に援軍を求め、1549年(天文18年)今川・松平軍は安祥城に攻め寄せ奪還しました。

周囲は安祥城址公園となっており、1544年(天文13年)の安祥城攻めで織田勢に一人討って出て奮戦して討ち死にした「善恵坊の碑」などがあります。
大乗寺入口を入ってすぐ右側に「本多忠高墓碑」があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=安祥古城へは徒歩で向かいます。

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小荷駄

横須賀城跡 (2022/08/27 訪問)

黒田代官屋敷の散策を終えて高天神城かと思いましたが暑い❗️坂は歩きたくないなと甘い考えが浮かんでしまいならば少し離れているけど30分で行けると思い横須賀城跡に行って来ました。駐車場は城跡西側と南側に2ヵ所有りました。トイレは西側の駐車場に有りました。何度か訪れていますが玉石垣は珍しいので飽きずに散策して来ました。また北の丸跡から天守台の眺めも私は好きです。他にも北の丸の奥には松尾山、三日月池等みどころも多くあります。各遺構の足元には説明板があり私みたいな素人にもイメージがしやすく楽しく散策出来ました。

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赤い城

諏訪氏の本拠地 (2022/08/15 訪問)

国道20号線沿いに案内板があり、そこから坂道を登っていきます。
案内板通りに進んで行くと諏訪氏居館跡の石碑があり、駐車場もありました。
ここから登っていくことも可能ですが更に車で進んで行くと駐車場があり、ここが主郭への近道。
説明板も立っています。
場内に入ると深い堀切がありました。
主郭とはなれ山の間です。
主郭には低い土塁も残ります。主郭の先、二郭に神社があり、その背後には巨大な物見石があります。
高さは4mくらいあるでしょうか。
ここから尾根道で居館まで続いているようです。
駐車場への帰りには先程の堀切から繋がる二重の竪堀も見ることができます。
諏訪大社大祝の諏訪氏の本拠地。
武田信玄に攻め落とされました。
その後は武田氏の信濃の拠点として使われた城です。

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おっちゃん

片倉城跡公園案内図 (2017/07/22 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

片岡城跡縄張図 (2017/05/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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