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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:苅田城(小城)(城びと未登録 長野県小布施町) (2023/04/22 訪問)

岩松院館(城びと未登録 長野県小布施町)から徒歩で転戦。車は鳳雲閣付近の空スペース(36.698828、138.333675)に置いたまま攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、城主は苅田式部太夫繁雅とも伝えられています。
永禄年間(1558年〜1570年)頃までは高梨氏の勢力下にあったそうです。
苅田城は岩松院の北側に東の山から西へ伸びた尾根に築かれており、大城と小城からなる山城です。

苅田城(小城)は比高50m程の尾根の先端にある単郭の城で、東に堀切、北西尾根側にも堀切があります。
曲輪は石積によって固められています。岩松院からの登り口は石積の通路が最後は階段となっています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=苅田城(大城)(城びと未登録 長野県小布施町)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:岩松院館(城びと未登録 長野県小布施町) (2023/04/22 訪問)

六川陣屋(城びと未登録 長野県小布施町)から転戦。鳳雲閣付近の空スペース(36.698828、138.333675)に駐車しました。

苅田城主荻野氏の居館でした。
居館は岩松院の辺りであったそうですが、遺構はありません。岩松院は荻野氏による開基とされるそうです。
本堂の裏には広島藩主で改易の後に川中島に再封となった福島正則の霊廟があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=苅田城(小城)(城びと未登録 長野県小布施町)に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:六川陣屋(城びと未登録 長野県小布施町) (2023/04/22 訪問)

鴨ヶ嶽城から転戦。六川陣屋入口付近(36.702963、138.321382)に路駐しました。

1792年(寛政4年)越後国椎谷藩主堀氏によって築かれました。
1786年(天明6年)飢饉による米価高騰に蔵米を競売し、天明義民事件と呼ばれる農民一揆が勃発し、1792年(寛政4年)藩主堀著朝が隠居と、所領5,000石の半知替えの処分となりました。
このとき信濃国高井郡六川村に築かれたのが六川陣屋だそうです。

六川陣屋は現在の奥田神社付近に築かれていたそうです。
付近は宅地となっており、神社脇に案内板が設置され、高札場があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=岩松院館(城びと未登録 長野県小布施町))に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:鴨ヶ嶽城 (2023/04/22 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、日本人形資料館駐車場(36.741557、138.382203)に駐車し、獣除けフェンス入口扉(36.742405、138.384354)から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、 現在の規模に拡張されたのは永正年間(1504年〜1521年)頃に中野小館を築いた高梨政盛の時代といわれています。

鴨ヶ嶽城は中野市と下高井郡山ノ内町との間の鴨ヶ嶽山頂に築かれています。
鴨ヶ嶽城は鴨ヶ嶽山頂から南北に伸びる尾根に沿って曲輪が連なる連郭式山城です。
登城口から、しばらく登り七面山展望台と鴨ヶ嶽城址方面の分岐点を鴨ヶ嶽城址方面に進みます。
立派な堀切があります。
一郭で5~6人の登山客が景色を楽しんでました。
一郭から南へ一度降り、少し登った辺りが鴨ヶ嶽城に付随した鎌ヶ嶽城(城びと未登録 長野県須坂市)があるようですが、時間の都合で行きませんでした。
攻城時間は75分くらいでした。次の攻城先=六川陣屋(城びと未登録 長野県小布施町)に向かう前にホテルに戻って朝食をとります。

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トベシュン

兵庫百名城巡り (2023/05/14 訪問)

兵庫百名城巡り 篠山城跡、竹田城跡、姫路城、赤穂城跡、明石城跡巡りしてきました。

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トベシュン

兵庫百名城巡り (2023/05/14 訪問)

兵庫百名城巡り 篠山城跡、竹田城跡、姫路城、赤穂城跡、明石城跡巡りしてきました。

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トベシュン

兵庫百名城巡り (2023/05/14 訪問)

兵庫百名城巡り 篠山城跡、竹田城跡、姫路城、赤穂城跡、明石城跡巡りしてきました。

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トベシュン

兵庫百名城巡り (2023/05/13 訪問)

兵庫百名城巡り 篠山城跡、竹田城跡、姫路城、赤穂城跡、明石城跡巡りしてきました。

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トベシュン

兵庫百名城巡り (2023/05/13 訪問)

兵庫百名城巡り 篠山城跡、竹田城跡、姫路城、赤穂城跡、明石城跡巡りしてきました。

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ダイエティシャン

緑の桜を背景に (2023/04/11 訪問)

三刀屋城下の川縁には【緑の桜 御衣黄】が咲き誇っていました。

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ダイエティシャン

江戸城 皇居東御苑 (2023/04/26 訪問)

JALのキャンペーンで格安航空券がとれた為、念願の皇居へ。

小雨の降りしきる中でしたが、情緒あふれ、ゆっくりと散策しました。

撮影と投稿は許可が必要かわからないので、お土産だけの写真です

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のんちん♪

美しい城でした (2023/02/17 訪問)

よく晴れた冬の日に尋ねました

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のんちん♪

今回はお城として訪問 (2023/04/20 訪問)

御朱印巡りとしての武田神社は過去に訪れていたのですが、今回は武田の城(居城跡)として眺めてみようと尋ねました

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カズサン

穴山駅頭より能見城壁字が眼前に! (2023/05/04 訪問)

 日帰り甲州路城探訪の3城目新府城を終えて七里岩ラインを約1km程北上すると4城目の能見城に着きます。
 車は城びと会員の皆さんの情報で穴山駅の上り線側に穴山さくら公園が在り専用無料駐車場(35°45'01"N 138°24'54"E H=530m)を利用しました。

 穴山駅東駅頭には「中世の豪族穴山氏紹介」案内板、「穴山氏史蹟略図」「穴山町周辺の観光マップ」などの案内板が設置されています。
 穴山駅から徒歩で少し七里岩ラインを南側に戻り山側に舗装路を登ると逆方向に登る砂利道が有り登って行くと道なりに頂上に着きます、砂利道は轍が付き中央は草がぼうぼう、登る途中に曲輪が樹林間、竹林間に覗き見れます、本丸頂上には給水関連施設と「能見城址」看板、守屋一族の碑と祠、少し下がった南側に草に覆われた長靖寺が見えます、入口は草が茂り最近人の出入りは無い模様。
 頂上本丸跡北側下には樹林に覆われていますが曲輪の様な平地確認、後は下城しましたが遺構は良く分かりません、帰って投稿するときにグーグルマップを再見し、北側に能見城防塁跡、西側山麓に能見長塁西枡形虎口跡の史跡マークが有り、新府城の七里岩防衛ライン上に在る能見城の出城の位置付けが裏付けられるようです?

 穴山と言うと穴山梅雪を思い出しますが?近くに穴山氏居館跡が在りますが寄っていません。

 次は5城目先達城、甲州ではありませんが信州との国境の城、近いので寄ってみます。
 

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びーこ

完成形が楽しみな多賀城 (2023/05/02 訪問)

多賀城創建1300年記念事業の一貫で、大工事の真っ最中である。南門自体の復元は終わってるようだが、周りはまだ工事中。この後、門に追随して塀が作られるのだろうか?

多賀城碑を横目に道路を渡った先には、政庁跡に繋がる広大な道が!壮観である!紫禁城みたい(ちょっと大袈裟でした・・)でも、こんな壮観な眺めは、今まで観てきた城にはなかったものである。さすが100名城である。

南門以外の復元も進んでいるので、全ての工事が終わったら是非とも再訪して、多賀城の全貌を拝みたいものである。

GW東北巡りはこれで終了。最後の締めのグルメは牛たん!!もう説明はいらない。美味しいに決まってる〜

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肉球

よく整備されています (2023/05/04 訪問)

連休中よりによって仕事で観光地付近に行くことになり渋滞を避け早出。
6時には長坂ICに到着。時間があるので谷戸城へ初めて訪れました。
甲斐源氏逸見氏のお城。
堀や土塁がしっかりと保存され
古いですが説明板も設置されています。
これからの時期は草が伸び見にくくなるでしょうが一見の価値ありです。
駐車場も北と南にありますが南の駐車場から登るのはキツイかと思います。

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イオ

【かるた】安土城の読み札と絵札

信長に 思いをはせる 安土城

天守台では、440年あまりの年月を隔てて、あの信長と同じ場所に立っているんだなぁ、と何とも言えない思いになりました。
 

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:中野陣屋 (2023/04/21 訪問)

高梨氏館から転戦。中野陣屋県庁記念館西側駐車場(36.744801、138.372594)に駐車しました。

1616年(元和2年)江戸幕府によって築かれました。 1724年(享保9年)には周辺の陣屋も中野陣屋の管轄に統合されました。
1868年(慶応4年)には大政奉還により陣屋は廃止され尾張藩取締所管轄となりました。
その後、中野県庁となるも暴動によって1870年(明治3年)に焼失し、県庁は長野町へ移り長野県となりあした。

中野陣屋跡には現在「中野陣屋県庁記念館」が建てられており、天領陣屋に関する展示場と一般の展示場を兼ねた施設で、無料で公開されているようですが、中に入ってません。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りはここがラストで宿泊先のホテルに向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:高梨氏館 (2023/04/21 訪問)

福島正則館から転戦。館跡南駐車場(36.743978、138.376529)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、高梨氏によって築かれたと云われています。
高梨氏は清和源氏井上氏流の後裔を称していますが、古代東北の阿部氏の出とする説もあるようです。須坂市にある高梨氏館が発祥之地とされます。
永正年間(1504年〜1521年)の高梨政盛の頃に中野氏を降して中野に入部したとみられ、この政盛によって中野小館と詰め城である鴨ヶ嶽城が築かれたとみられています。
武田信玄が北信濃に兵を向けると、高梨氏は上杉謙信と連携してこれに対応しましたが、永禄年間(1558年〜1570年)初期頃には高梨氏は飯山城に逃れていました。
1561年(永禄4年)上杉謙信が関東に出陣して小田原北条氏を攻めていたとき、高梨氏は上杉氏の居城の越後国春日山城の留守大将を務めています。
同年に謙信の帰国後、川中島で武田氏と激突した際には高梨氏は上杉勢の先陣を務めています。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺の変で倒れると上杉景勝は川中島一帯を所領としました。
このとき高梨頼親は安源寺周辺の2,000千貫の地を安堵され、再び中野小館に帰ることができました。
1598年(慶長3年)上杉景勝が会津へ転封となると高梨氏もまた会津へ移り廃城となりました。

高梨氏館(中野小館)は鴨ヶ嶽城を詰め城とした方形単郭の居館です。周囲は土塁と空堀が巡っています。
現在は高梨館跡公園として整備されており、発掘調査で検出された門跡一棟、礎石建物跡五棟、掘立柱建物跡七棟、枯山水の庭園跡などが確認され展示されています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=中野陣屋に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:福島正則館 (2023/04/21 訪問)

須坂陣屋(城びと未登録 長野県須坂市)から転戦。高井寺入口(36.665752、138.348519)から進入し境内に駐車しました。
そこから説明板&門(36.665957、138.348004)➡堀之内御利屋前(36.665818、138.349085)と巡りました。

築城年代は定かではないようですが、江戸時代初期に福島正則によって築かれました。
安芸国広島藩主福島正則は、1619年(元和5年)洪水で破損した広島藩の石垣の無断改修を咎められて改易となりました。
その後、改めて信濃国高井郡に20,000石と越後国魚沼郡に25,000石、あわせて45,000石の捨て扶持が与えられ、高井野藩となります。
これにあわせて正則は家督を嫡子福島忠勝に譲っていますが、翌1620年(元和6年)に忠勝は早世しました。
1624年(寛永元年)福島正則が没すると幕府の検使団の到着する前に荼毘に付し、またも法令違反を起こしたとして高野井藩は改易となりました。

福島正則館は現在の高井寺の境内付近に築かれていたようですが、 現在はわずかに本堂の裏手に土塁を残っているだけです。
周囲の石垣は寺の建立のときに築かれたものだそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=高梨氏館に向かいました。

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