阿木城からの転戦です。登り口付近(35.583744、137.597357)に路駐しました。
16世紀中期に木曽氏は甲斐の武田氏に従い、木曽義昌は信玄の三女真理姫を娶り姻戚関係にあったそうです。
しかし義兄の武田勝頼による新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた義昌は、1582年(天正10年)遠山友忠を仲介役として織田信長と盟約を結んで、妻籠城等の支城を改築し、勝頼に対し反旗を翻し、織田信長の甲州征伐のきっかけとなりました。
武田勝頼軍が新府城を出発する前の2月2日、人質として送られていた70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫が新府城にて処刑されました。
武田勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣しますが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て鳥居峠にて撃退しました。
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いにおいて、木曾義昌は最初徳川家康側に付いていましたが、圧力により羽柴秀吉側に寝返ります。妻籠城に木曽義昌の家臣・山村甚兵衛良勝が入り、徳川家康方の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らと戦い退けました。
山村良勝は1590年(天正18年)義昌が下総へ移封となると家督を継いだ義昌の子・義利に仕えました。
1600年(慶長5年)木曽義利が不行状により改易されると、良勝は徳川家康の家臣となりました。
1616年(元和2年)の一国一城令により、廃城になりました。
登り口(石碑と説明板があります)から迷うことなく本丸までたどり着けます。登って行くと土橋があります。
本丸跡には土塁が残り、「御嶽山大権現」「八海山神社」「木曽谷恩賜金由来之碑」「林君記念乃碑」の石碑がありました。(よく見ないと読めません)
本丸からは妻籠宿の家並が見えます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=須原城に向かいます。
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