(18人目)「大谷吉継」の続きです。
関ケ原の「大谷吉継 陣跡」を訪れてきました。
大谷吉継の陣は山中村と呼ばれた地にありました。麓の駐車場にチャリを止め(写真①)、ここから徒歩で登ります。階段を登るとJR東海道線の踏切があります(写真②③)。ここは十分注意して渡って下さい。線路は意外と幅広く足を取られます。見通しも悪く警報機が鳴るやいなやあっと言う間に猛スピードで列車がきました(😱~)。踏切を渡って神社の右手から登り、途中右に行くと吉継陣跡と眺望地、左に行くと吉継の墓があります(写真④⑤⑥)。
大谷吉継はこの陣で藤堂高虎と対峙します。しかしその陣の位置を見て私は驚きました。吉継の陣は高虎の方を向いていません。何と松尾山にいる小早川秀秋の方を向いていました。もうこの時点で、小早川秀秋が裏切るという確信があったものと思われます。(写真⑦⑧⑨)
でも不思議でした。大谷吉継はなぜ、京極高次・脇坂安治・朽木元網・小川祐忠・赤座直保の5人もからも裏切られたのでしょうか? 今まで吉継の悪い噂などは聞いたことがありません。恨まれるような男ではなくむしろ実直な男だと思います。三成に加担したから・・・? ただそれだけの理由だったからなのでしょうか?
吉継は病を押して戦います。今でいうハンセン病だったようです。もはやこの時点では、立つ事もできず輿に乗り、目も見えなくなっていました。平塚為広が吉継に代わり、実質は大谷軍を指揮していたようです。
数に劣る大谷軍ですがよく奮戦し、小早川軍とは互角に戦います。しかし、前方で吉継を補佐(与力)であったはずの、脇坂・朽木・小川・赤座の4人が裏切り反転、藤堂高虎に調略され共に攻めに加わると、もはや持ちこたえる事はできず、吉継は最後にここで自刃して果てました。関ケ原の戦いの最中で亡くなった大名は、大谷吉継ただ一人だけです。なぜそうせざるを得ないまでに追い込まれてしまったのでしょうか? しかしこの中でまた吉継に関わる美しい話があったので、この続きは藤堂高虎の中で・・・
次は(19人目)藤堂高虎に続きます。
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