現地案内板より抜粋
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2022/09/08 22:24
亀岡城之図 (2017/12/01 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/09/08 22:08
菱の門 (2022/06/10 訪問)
遂に入城門までやってきました。
『ここから先、自販機はありません』の注意書きに、山城登城同様の緊張感が湧いてきます。心して進まなければ。
最初に潜るのは城内最大の櫓門、菱の門。この門ひとつとっても見どころが山のようにあります(写真④)。損傷が激しかったために工期が延びた保存修理工事は終了間近でした。
菱の門を潜ると三国堀越しに聳え立つ天守群の姿が。ここからの写真は見る機会がよくありますがほんとうに美しいです!戦のない時代だから言えることだとは思いますが、この眺めを前にして邪なことを考える人なんていないんじゃないかと思える、人間に例えるなら品行方正・謹厳実直・清廉潔白な内面が滲みで出ているような素晴らしい眺めでした。しかしそれは換言すれば近寄りがたいということでもあり、これが城の極みの姿なのだと畏怖の念をもって首肯するばかりでした。
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2022/09/08 21:52
2022/09/08 21:29
2022/09/08 21:19
白鷺城 (2022/09/08 訪問)
久しぶりに姫路城へ行ってきました。前回行ったのが、平成保存修理がほぼ終わった時で、天守閣が公開される前でしたので修理後の天守閣は初めてということになります。実は行く予定は全くなかったのですが、特別公開などもあり多くの方が投稿されていましたので行きたくなり行って来ました。さらりと回るつもりでしたが、やはりこの城はそうはいきませんね。主要部分は言うまでもなくすばらしいのですが、自分は北側の堀越しに見る石垣や天守閣が好きで、行ったときは時間があれば散策するようにしています。石垣、堀、建築物と近世城郭としての遺構が多く残り、何回来ても楽しませてくる城です。
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2022/09/08 20:36
2022/09/08 19:48
カズサンさんのリベンジ (2022/09/04 訪問)
鳥取城周辺の城を探していると、2020年11月のカズサンさんの新山城記事に接しました。立ち入り禁止のフェンスに阻まれ、また、道路の交通量が多く、遠景も撮れなかったと。
古城登城の達人のレポートを何度見ても、立ち入り禁止を乗り越えて行った感が。しかし、そうでは無かろうと、山の東側からの侵入道を探すも果たせず。遠景を撮影してよしとするかと思ったのですが、カズサンさんの無念を晴らすべく、googleマップをチェック。
山の西側に鳥取敬愛高校があり、そこの山側に切り開いた斜面あり。ところが、西側に回り込み、高校に至ると、「カメラ作動中、侵入者があれば直ちに通報します」と。前科を作りたくないので、高校の麓を更に南下。グラウンドが途切れたところで、畑作地あり、その奥に、木々を伐採した斜面あり。新山城の本郭に送電線鉄塔が立っているのですが、その南にも別の系統の送電線の鉄塔あり。なんとこの斜面にその鉄塔に行くメンテナンス道があるではありませんか。難なく登り、そこから、北進して新山城へ。北進道は、中国電力が整備されているようです。中国電力と書かれた立札がいくつかたっていました。
帰りは、徳尾貯水タンク横を通り、下山すると、見た覚えがある、立ち入り禁止のフェンスあり。帰りは横を近道をさせてもらいました。
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2022/09/08 11:01
特別公開見学後下山里曲輪~帯の櫓下 (2022/08/28 訪問)
姫路城の8月末期限特別公開を見学後西の丸を終えて入城ゲートを出る、特別公開で東小天守より東見下ろした先に、搦手であるとの一門を見つけたので、主郭部東側の帯郭櫓、帯の櫓高石垣の下に搦手門との四門が有り、そちらへ散策探訪した。
下山里曲輪石垣より天守群を仰ぎ眺めて、西の丸、心柱展示小屋方向を眺める、上山里曲輪の東側石垣と伐採された樹木痕、土塁下を通り、三の丸を東北側切断した様な濠留脇を通手、目的のとの四門が見える位置に到着。
との四門と帯郭櫓帯の櫓高石垣を入れて天守閣を撮影し眺める、東側から見た天守の姿、帯の櫓下高石垣の高さは圧巻の見所、との四門からとの一門の搦手ルートは現在非公開、以前NHKのニッポン不滅の名城「姫路城」で奈良大の千田教授が出演され、との四門からとの一門搦手道を踏査されて居ました、との三門は現存して居ません。公開が有れば何時か登りたい搦手道です。
米蔵の有った内船場、北東の喜斎門へは行っていません。
其処から三の丸の東側の散策路を通って大手桜門へ、途中名残に広い三の丸芝生と天守群、西の丸、菱の門を撮影脳裏に焼き付かる。
良い特別公開、姫路陽散策探訪、久しぶりの天守登閣でした。
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2022/09/08 08:19
味土野男城(京都府京丹後市弥栄町須川味土野) (2022/07/23 訪問)
味土野男城(城びと未登録)は、味土野女城から谷を隔てた北側の尾根に位置し、細川忠興が女城に幽閉した細川玉(後のガラシャ)を警護するために設けた城館です。
女城から少し下った金剛童子山登山口の駐車場に車を駐めて、小川を渡ったところに男城の登城口があります(案内標識あり)。登城口から小川を少しさかのぼり、折り返して5分ほど進んで行くと男城に至ります。男城の主郭には警護の武士が詰めていた屋敷があったと考えられ、奥に続く尾根道に堀切跡と思しき水路がありました。男城からも女城を見渡すことができ、往時はすぐに駆け付けられるように女城まで真っ直ぐな道が続いていたとされますが、間には谷があり距離もそれなりにあるだけに今ひとつイメージできません(吊り橋?)。
それにしても、玉を警護するのなら女城のもっと近くに詰めたほうが確実のように思いますが、わざわざこんな離れた場所に男城を設けるのは、忠興が自分の目が届きづらい味土野で、玉の近くに他の男が常駐することを許せなかったからなんでしょうかね。ストーカー気質のモラハラ夫にはありそうな話かな、と(…すみません、忠興にはあまり良い印象がないもので)。
なお、登城道沿いに石垣がありますが、下調べでは男城に石垣遺構なんてあったかな…と思っていると、石垣の上の削平地には木下家住居跡の石碑があり、男城とは直接関係のない江戸中期から昭和までの住居跡の石垣だったようです。
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2022/09/08 07:01
2022夏の青春18キップ15日目:知立城 (2022/08/03 訪問)
重原陣屋からの転戦です。知立駅より徒歩5分くらいで、西町児童公園前(35.009607、137.040604)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、永見氏によって築かれました。 永見氏は知立神社の神主で、その居館が知立城の始まりとされます。
戦国時代には刈谷城水野氏との関係を深め、台頭してきた松平清康、ついで今川義元に仕えますが、今川義元が桶狭間に倒れると敗走した今川軍を追った織田方によって落城しました。
天正年間(1573年~1592年)に刈谷城主水野忠重によって御殿が建てられ、将軍上洛時の宿泊施設となっていましたが、1699年(元禄12年)の大地震により倒壊しました。
西町児童公園に石碑と案内板が設置されています。電車の時間が近いので速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安祥城を目指す為、電車で知立駅から南安城駅に向かいます。
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2022/09/08 06:57
2022夏の青春18キップ15日目:重原陣屋 (2022/08/03 訪問)
刈谷城からの転戦です。重原駅より徒歩10分ちょっとで、重原陣屋碑付近(34.988933、137.019852)に着きました。
この地は元々、刈谷藩領でしたが、1790年(寛政2年)に起こった土一揆により、幕府に福島藩領との領地替えが命ぜられました。
福島藩板倉氏は天明の飢饉(1783年)などによる財政の圧迫により幕府に領地替えを嘆願しつづけ、刈谷藩領13,000石と福島藩領10,000石そして天領3,000石が替え地となりました。
この飛領地を管理するために、1792年(寛政4年)陸奥国福島藩板倉氏によって築かれたのが、重原陣屋です。
陣屋で使われた門が、半城土町の願行寺の山門に、玄関は十応寺にそれぞれ移築されているようですが、行っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=知立城を目指す為、電車で重原駅から知立駅に向かいます。
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2022/09/08 06:53
2022夏の青春18キップ15日目:刈谷城 (2022/08/03 訪問)
緒川城からの転戦です。緒川城から境川/逢妻川に架かる橋(橋の名前はわかりません)を通り、刈谷球場を経由して、徒歩30分位で亀城公園入口付近(34.988196、136.984480)に到着。
そこから、本丸の十朋亭(34.989115、136.984585)まで徒歩2~3分くらいです。
刈谷城址碑は城町交差点のこの位置(34.987857、136.985101)にありました。亀城公園入口付近のすぐ先です。
刈屋城(刈谷城)は徳川家康の母方の祖父にあたる水野忠政の居城です。
家康の生母、於大は忠政の死後、兄である信元が今川氏を離れ織田氏についたため、松平広忠に離縁されました。
江戸時代には頻繁に城主が交代しますが、1747年(延享4年)より土井氏が入封して9代支配したのち、明治維新を迎えています。
遺構は水堀くらいしかありませんでしたが、残っている城絵図や調査を元に江戸時代の北西隅櫓、南東隅櫓、多門櫓、表門、裏門、土塀を復元する計画が進んでいるそうです。
また妙福寺(碧南駅から徒歩10分くらいの所のようです)に辰巳櫓が移築現存しているようですが、時間の都合でパスです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=重原陣屋を目指す為、電車で刈谷市駅から重原駅に向かいます。
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2022/09/08 06:46
2022夏の青春18キップ15日目:緒川城 (2022/08/03 訪問)
丸根砦からの転戦です。緒川駅より12~13分くらい歩き、古城児童遊園(34.979034、136.966906)に到着。
古城児童遊園(松平広忠の正室「於大出生地」の石碑あります)横の石段を登ると「緒川城址」の石碑、説明板と土塁があります。
緒川城は水野信元の弟である水野忠守によって築かれた城です。
1580年(天正8年)に織田信長は佐久間信盛を高野山に追放し、もともと水野氏が支配していた緒川の地を与えました。忠守はここに城を築き、居城としました。
江戸時代には緒川藩が成立し、水野分長が城主となりましたが、新城藩移封に伴い、1606年(慶長7年)に廃城となりました。
コンパクトに石碑、説明板と土塁を確認することができました。
町役場の西にある乾坤院は、水野貞宗が建立した水野氏の菩提寺で、水野氏四代の墓と緒川城の現存移築城門を確認できるようですが、時間の都合でパスしました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=刈谷城をここから徒歩で目指します。
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2022/09/08 06:40
2022夏の青春18キップ15日目:丸根砦 (2022/08/03 訪問)
大高砦の大高保育園脇道路付近から15分くらい歩き、丸根砦入口付近(35.064836、136.945164)に到着しました。
山方向に向かう道の横に、「丸根砦跡➡」の標識が立っていますが、小さいので見落としそうになりました。
そこから坂を上り、右手にある階段を登ると砦に着きます。
砦中央付近に「丸根砦殉難者の碑」、南側斜面下に砦阯碑、砦周辺の帯郭、説明板を確認できます。
説明板によると、永禄2年(1559年)織田信長が、今川義元の上洛に備え鷲津砦などと共に築いた砦の一つで、
桶狭間の戦いのとき、佐久間盛重を将とした織田方が立て籠もったが、松平元康(家康)の軍と激戦の末全滅したそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=緒川城を目指す為、電車でJR大高駅からJR緒川駅に向かいます。
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2022/09/07 22:54
模擬天守内にプラネタリウムがある城 (2022/09/04 訪問)
藤橋城と呼ばれる模擬天守ですが、なかなか立派な彦根城風で面白く天守を見ると嬉しくなりました。
天守の中にプラネタリウムがあり綺麗な星空を見れました。
実は藤橋城という城があった訳ではなく、南北朝時代にこの辺りには杉原砦があり、南朝方の新田義貞が築城したとされ、戦国時代には杉原家盛が守っていたとされます。
藤橋城は、歴史を伝え藤橋地域の再興を願って天守を建造されたようです。
杉原砦の実際の場所は不明ですが、藤橋城の南東側にある山の尾根に堀切などの遺構があり砦跡ではないかともされるようです。
道を挟んで北側の歴史民俗資料館には茅葺民家や池があって雰囲気が良かったです。
その西側隣りの武山神社前に七人塚があり、斎藤氏に攻められて杉原砦を死守した杉原家盛を逃がそうとした7人の家臣の塚とされます。
地元では、この武山神社辺りが杉原砦跡とも言われるそうです。
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2022/09/07 22:10
上原城の支城 (2022/08/15 訪問)
国道20号線の山手に看板があり、その方向に向かって上って行きます。
と女には咳と説明板があり、さらに車でも行けそうですが砂利道で細く急。
車はここに置き徒歩で行くことにしました。
10分くらい登ると城域に、さらに登ります。
首塚の案内板があります。
さらに進むと主郭と二郭の間の堀切に出ます。
上原城の支城で諏訪氏の居城。
武田信玄に攻められ諏訪頼重が籠城、自害した城です。
主郭から諏訪湖を望むことがです。
この日は曇ってて眺望は今ひとつでしたが晴れていたら綺麗なのでしょう
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2022/09/07 21:29
福井旅行part3 福井城 (2022/08/14 訪問)
一乗谷城の後、雨が止んだのでホテルに近い福井城に寄りました。福井城はもともと柴田勝家が築いた城があったが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の次男、結城秀康が大改修し、今の福井城が完成しまぢた。石垣にハラミが出るなどの不備はあるが、石垣が良好な状態で残っています。また使われている石垣がなんと一乗谷城付近の足羽山でとれる笏谷石が使われていることが判明!笏谷石は水に濡れると鮮やかな青色に光る性質を持っています。このような石垣はこの城でしか見られず大変貴重です。
現存する建物はありませんが、御廊下橋が復元されている。石垣は切り込み接ぎが中心ですが、一部打ち込み接ぎも存在します。
続日本100名城スタンプは市役所(福井城内にある)に設置してあります。休みの日でも、インターフォンを押せば許可をもらうことができます。
評価
遺構:4
建物:3
行きやすさ:4
全体:4
攻城時間
約30分
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2022/09/07 21:05
2022/09/07 19:07
秋の津和野城とSL山口号 (2019/11/26 訪問)
3年前ですが、SL山口号に乗り秋の津和野城に行ってきました。
「新山口駅」からSL(C57)に乗り出発、汽笛の音を楽しみながらのんびり揺られて2時間、「津和野駅」に到着します(写真⑧⑨)。降りると駅前には動かないSL(D51)が展示されていました(写真⑩)。津和野城下は、きれいでとても落ち着いたたたずまいの街でした。白壁と水路に鯉が泳ぐ街並みを鑑賞しながら30分程歩くと太鼓谷稲荷神社(亀井氏が守り神として建立した神社)があります。その赤い鳥居の中をくぐりながらさらに10分歩くと登城用のリフト(兼スタンプ場所)に着きます(写真①②③)。そしてリフトの上からは本丸まで20分程です。リフトから先は誰にも会いませんでした。紅葉と城と城下の景色を一人占め! とても気持ちよかったです😊(写真⑤⑥⑦)。
津和野城は、鎌倉時代より吉見氏の居城でしたが、1601年に関ケ原の恩賞で坂崎直盛が3万石で入り三重の天主と石垣や櫓などを整えました。そして直盛は大坂夏の陣(1615年)の恩賞で4万3千石に加増。しかしこの翌年、ある事件で坂崎家は改易されたため、その後(1617年)に入った亀井氏は麓に館を移し、幕末まで亀井氏の居城となり、現在の美しい城下町が形成されたと伝わっています。
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余談:【坂崎直盛と千姫事件】
彼は本当にストーカーだったのか?
坂崎直盛(出羽守成正)と言えば🤔?
そうです! 大坂夏の陣で千姫を大坂城から助け出したあの人物です!
1615(元和元)年、大坂夏の陣で燃え落ちる大坂城を見た徳川家康は、豊臣秀頼は滅ぼしたいが、かわいい孫の千姫は何としてでも助けたい。よって「千姫を助けた者には嫁に与える」と思わず言ってしまいます。よって果敢に大坂城へ飛び込み、顔にやけどを負いながら千姫を助け出し家康の元へ届けたのが坂崎直盛でした。家康は大変喜び、直盛には褒美として津和野を4万2千石に加増しました。
でも最悪なのは、直盛はその時に千姫に一目惚れしてしまった事です。津和野城を改修しながら、千姫と夫婦になりここで暮らせる日々を夢見ていました。ところがいつまでたっても千姫はやって来ません。それどころか、千姫は姫路城主「本多忠政」の嫡男「忠刻(ただとき)」に一目ぼれ。父の徳川秀忠は二人の結婚を許します。(姫路城の西の丸に長局や化粧櫓がこの時に作られたのは有名ですよね!😊) 直盛は話が違うと秀忠に直談判。しかし取り合ってもらえません。直盛はあきらめられず、夜な夜な千姫の屋敷へ(これって今で言うストーカー?) でも門前払い(😱~)。千姫にとって直盛は好みのタイプではなかったようです(助け出した時の顔のやけどで醜かったとか・・・無骨な直盛より忠刻のようなイケメンタイプが好きだったとか・・・)。ならば強硬手段! 忠刻への嫁入り行列を襲撃し千姫を強奪してやろうと計画。しかし、これを知った秀忠は超激怒! 直盛に切腹を命じましたが、愛想を尽かされた家臣から切られたそうです(柳生宗矩に斬られたという説もあります)。
私は津和野城の最も高い三十間台石垣の上に立ち城下を眺めて見ました(写真⑤⑥⑦)。彼は、この景色を千姫と一緒に見ながら幸せに暮らせる日々を、ただ純粋に夢見ていただけなのではないでしょうか?
以上、哀れな男の物語でした😩。
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2022/09/07 19:04
物集女城跡周辺の地形と発掘調査トレンチ配置 (2017/04/04 訪問)
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