みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

おっちゃん

府内城跡案内図 (2017/04/22 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

江戸末期ごろの陣屋略図 (2017/03/11 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

城址公園案内図 (2015/08/02 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

カズサン

特別公開への登城路 (2022/08/28 訪問)

 ヒロケンさんの姫路城特別公開の投稿に触発されて、福山城築城400年祭当日に合わせて姫路城に登城。
 朝は9時既に多くの人々、桜門橋を渡り大手の桜門を潜って枡形を90度曲がるとそこは三の丸、白亜の天守がお出迎え、感激するスポットです、丁度三の丸広場の芝生養生中で芝生内立入禁止、三の丸芝生に人が居ない天守閣群を三の丸広場を入れて撮影、初めての経験体験でした、同じく西の丸と菱門頭を入れて吹き抜け状態の景観を撮る事が出来ました。
 1000円の入城料を払い菱門へ、既に人々で一杯、人影のない菱門は撮影できず、人入り、頭だけの菱門撮影、菱門を入り三国堀越しのビューポイント天守閣を撮影、TV時代劇によく出るはの門前下坂道土塀越しの天守閣撮影、桜の木が茂り上部から土塀屋根と天守に成って仕舞いました、はの門、にの門を通って乾小天守が見えて来る、埋門の様なほの門を潜り、秀吉時代から伝わってると言われる油塀横を通り、西小天守下、西小天守と天守閣の渡櫓下の水の五門を潜って、いざ天守閣探訪、特別公開乾小天守・東小天守・イ・ロ・ハ渡櫓のエリアへ。
 天守閣登閣までの気に入った写真を投稿します。

 ※先の投稿福山城築城400年祭6編、長々と見て頂き有難うございました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

肉球

八王子千人同心・深沢家 東京都あきる野市 (2022/08/23 訪問)

あきる野市の山奥で山林業で財を成した深沢家。
江戸時代も後半になると同心株を売り買いするようになっていたようで
裕福な農民が同心株を買うようになったようです。
都立小金井公園に移築された組頭屋敷の説明書には
埼玉県や神奈川県にも同心株を持っていた家があったようです。
深沢家もそのうちの一軒で沢沿いの石組、門をくぐると土蔵が現存しています。
屋敷は戦前東京都小金井市内に移築されたようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

肉球

大久保長安陣屋・八王子千人同心 東京都八王子市 (2022/08/23 訪問)

徳川家康の江戸入府後、八王子の地を与えられた大久保長安の陣屋跡。
今は産千代神社となっています。敷地内には陣屋井戸が残っています。
その後関ヶ原の合戦までに国境警備や治安維持を目的に八王子千人同心を創設。
甲州街道追分の交差点付近に同心屋敷跡の碑が建ち
この付近に建っていた同心組頭塩野家は都立小金井公園の建物園に移築され公開されています。
八王子市内の旧甲州街道沿いにはまだ数軒古い門構えの住宅が残っています。
その他同心屋敷門が八王子市内や近郊に9門ほど確認できました。
以前滝山城跡付近にも大きな長屋門があったのを記憶していたのですが
そちらは同心三木家の長屋門残念ながら10数年前に解体されたそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

移築建物めぐり (2022/07/23 訪問)

城下町めぐりの前後に、福知山城の移築建物めぐりをしました。城下町や周辺に数多くの建物が移築されているのは下調べで承知していましたが、その多くに福知山市教育委員会の説明板が設けられており、位置図まで付いているのはありがたかったです。おかげでノーチェックだった瑞林寺の移築門を見落とさずに済みました。

正眼寺山門(福知山市寺町)
福知山城の銅門を移築したもの。本丸に移築されている銅門番所とあわせて二ノ丸登城口に建てられていた高麗門です。

法鷲寺山門(福知山市下紺屋町)
福知山城の城門を移築したもの。他の移築門より内法が高い高麗門で、豪壮な風格があるんだとか。

明覚寺山門(福知山市呉服町)
福知山城の城門を移築したもの。脇戸の痕跡のある高麗門で、鬼瓦には朽木氏の隅立て四 つ目結紋が施されています。

※ 法鷲寺の前の道路は一方通行なので、車でめぐる場合は北側から正眼寺→法鷲寺→明覚寺の順がおすすめです。

観瀧寺山門・南門(福知山市字榎原)
福知山城から西南西に約5.5kmの観瀧寺には福知山城の城門が2棟(山門と南門)移築されています。山門は薬医門で脇戸が付き塀の痕跡が見られます。山門をくぐって右手奥の墓地の手前に南門があり、南門は高麗門で軸塀と脇戸が付けられていたようです。

照仙寺山門(福知山市堀)
福知山城の城門を移築したもの。説明板の位置図に挙げられていますが、現地に説明板は見当たりませんでした。他の移築門と異なり長屋門です。

瑞林寺山門(福知山市夜久野町板生)
福知山城から北西に約19kmの瑞林寺に福知山城の城門を移築したもの。向かって右側に脇戸が設置された薬医門です。見落とさずに済んだのは良かったんですが、かなり離れた位置(竹田城のほうがずっと近い)に急遽寄り道することになったため、後の時間に影響することに…。

一宮神社能舞台(福知山市字堀)
福知山藩祖・朽木植綱を祭神とする朝暉神社の能舞台を移築したもの。朝暉神社は福知山城内に祀られていましたが、廃藩により城外に遷座し、後に能舞台が一宮神社に移築されたようです。

長命寺山門(福知山市野花)
下調べで福知山城から北西に約6kmの長命寺に福知山城の城門が移築されている、との情報を得て瑞林寺の前に立ち寄ってみましたが、福知山市教育委員会の説明板には挙げられておらず、現地で見てみても真新しい薬医門が建っているだけでしたので、かつて城門が移築されていたのだとしても、改築されてしまったのかもしれません。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:長屋氏屋敷(城びと未登録 岐阜県垂井町) (2022/08/02 訪問)

垂井城からの転戦です。垂井城から徒歩3~4分で石碑と案内板前(35.371088、136.522724)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、長屋氏によって築かれました。 長屋氏は今須の長江氏と同族で、長江義景の次男明義の孫行長を祖とするそうです。
1353年(文和2年)北朝の後光厳天皇は南朝方に京を追われ、足利義詮とともに垂井へ逃れ長屋氏の屋敷を仮御所としていました。
しかし、南朝方が垂井を襲うと聞き、美濃国守護土岐頼康の居城へ逃れました。やがて足利尊氏が到着すると天皇も戻られ、足利尊氏とともに上洛しました。
天文年間(1532~55年)に長屋景興は居城を垂井城から相羽城へ移しました。
1547年(天文16年)相羽城は斎藤道三に攻め落とされ、景興も討ち死にして長屋氏宗家は滅びました。
長屋氏屋敷もこのころまでには廃されていたものと推測されるそうです。
ちなみに景興の孫可重は、後に飛騨高山城主金森長近の養子となったそうです。

現在は道路脇の小さな敷地に石碑と案内板と標柱が建つのみである。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かう為、電車で垂井駅から尾張一宮駅に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:垂井城 (2022/08/02 訪問)

小丸城からの転戦です。垂井駅から徒歩6~7分で専精寺入口(35.370259、136.525448)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1600年(慶長5年)平塚為広が12,000石で入封し居城としたようです。
しかし「関ケ原の戦い」で為広は西軍についたため、戦後に廃城となりました。
平塚為広は秀吉の馬廻として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐で武功があったようです。
関ケ原の戦いの直前、挙兵しようとする三成に大谷吉継とともに佐和山城にて諫言したそうですが、三成は聞き入れなかったので西軍に与することとなったようです。

現在城址推定地の専精寺に、城跡碑と説明板があります。
近くにある「垂井の泉と大ケヤキ」も併せて確認しました。
関ケ原の戦いで死ぬ前に大谷吉継に送った辞世の歌の墓碑が城跡碑の前にあります。
垂井城には関係ありませんが、垂井駅前の竹中半兵衛像の写真も一緒に投稿します。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=長屋氏屋敷(城びと未登録 岐阜県垂井町)に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:小丸城 (2022/08/02 訪問)

鯖江陣屋からの転戦です。常安楽院入口付近(35.897624、136.229938)に駐車しました。

1575年(天正3年)佐々成政によって築かれたと云われています。
1575年(天正3年)越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入りました。
1581年(天正9年)成政は越中国富山へ移り廃城となりました。

常安楽院は二の丸跡で、本丸は常安楽院の東にあるようです。
本丸の周囲は堀が巡らされ、虎口や石垣が残っています。
攻城時間は15分くらいでした。レンタカーを返却する為、一旦、武生駅に戻ります。
その後、攻城先=垂井城を目指す為、電車で武生駅から垂井駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:鯖江陣屋 (2022/08/02 訪問)

三留城からの転戦です。市民ホール駐車場(35.946433、136.184702)に駐車しました。
願かけ地蔵公園横の説明板(35.945327、136.185169)まで徒歩2分くらいで、ここから鯖江藩家老植田家長屋門(35.944821、136.187180)までは徒歩3分くらいでした。

1720年(享保5年)間部詮言によって築かれました。 越後国村上城主間部詮房が没すると弟詮言が養子となり鯖江に入封して陣屋を築きました。
1840年(天保11年)詮勝のとき老中に就き、同時に城主格となり幕府から築城の許可を得たがこれは実現しなかったようです。

現在は市街地となっています。
萬慶寺に移築された城門が唯一の遺構のようですが、レンタカー返却時間が迫っている為、パスしました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=小丸城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:三留城 (2022/08/02 訪問)

安居城からの転戦です。三留公民館駐車場(36.039496、136.149716)に駐車しました。

築城年代は不明。一乗谷朝倉氏の初代敏景(孝景)の6男景儀(かげのり)の子・孫六郎景冬が築いたと伝えられています。
その後、景冬の弟景総(かげふさ)、その子・景久へと受け継がれました。 
景久の子千代雅丸が正寿寺の住職となって父母の菩提を弔ったといわれます。

事前調査で詰城はかなり、わかりにくそうな場所のようなので登城は断念し説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鯖江陣屋に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:安居城 (2022/08/02 訪問)

小黒丸城からの転戦です。消防機具置場横空スペース(36.073533、136.173015)に駐車しました。
後でわかりましたが駐車禁止場所ですので、池の手前を左に登った先の「かめやま広場」駐車場を利用してください。

築城年代は定かではないようですが、斯波高経の家臣細川出羽守によって築かれたと云われ、足羽七城(小黒丸城、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城)の一つとされるようです。
朝倉氏の時代には朝倉経景が城主となり、景隆、景健と続きました。織田信長によって朝倉氏は滅ぼされたが朝倉景健は赦され安居氏を称しました。
しかし、1574年(天正2年)越前に一向一揆が起こるとそれに降り、翌1575年に織田氏によって一揆が鎮圧されると再び織田氏に降ったが、赦されず自刃して滅亡しました。
その後、1575年(天正3年)羽柴秀吉の家臣戸田武蔵守勝成が、10,000石で安居城主となりましたが、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で西軍に属して討死し滅亡しました。

頂上広場まで40分(帰路を考えると70分程度)の表示に、当初予定の20分を大幅にオーバすると思い、登り口で引き返しました。
あとで確認したら安居城跡は頂上広場のかなり手前であることがわかり、登城を断念したことを悔やみました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三留城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:小黒丸城 (2022/08/02 訪問)

鷹巣城からの転戦です。石碑横空スペース(36.103707、136.189809)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1337年(建武4年・延元2年)頃に北朝方の足利高経(斯波高経)によって築かれたと云われています。
大黒丸城の出城といわれ、足羽七城(小黒丸城、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城)の一つとされるようです。
1338年(建武5年・延元3年)藤島の戦いでは、北朝方に寝返った平泉寺衆徒の籠る藤島城の援軍に向かってこの城から発した軍勢が南朝方の大将新田義貞と遭遇し、燈明寺畷で義貞を討っています。
しかし、翌年義貞の弟脇屋義助が再び挙兵して黒丸城を攻めると、足利高経は黒丸城を捨てて加賀へ逃れました。

小黒丸城の石碑が建てられているだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安居城に向かいます。

+ 続きを読む

モト

見応えある堀切が拝めます (2022/05/24 訪問)

本丸までの間に堀切がいくつかと米倉跡との堀切を存分に楽しめました。
駐車場から歩いて行くと3分ほどで城址への入り口があります。
その前に案内所のような所があります。
城跡は山城ですので山を多少登って行く感じになります、
案内所では城跡のある山の案内と山登りの為の登山名簿に記入をしました。
その案内所にいらっしゃるおばさんが明るくてめちゃくちゃ良い人でした。

いざ登城へ。
本丸までは本格的な登山というほどではないですがある程度山道になります。
いくつかと堀切はありますが、私は本丸と米倉跡についてから望める堀切が気に入りました。

戻ってからは再び案内所へ。
下山の報告を済ませると、おばさんが飲み物をくれました。
また、周辺の城跡の案内もしてくれましたよ。
しばらく世間話しもして楽しい時間を過ごしました。
あれ、城跡よりも印象的な感じになってしまった。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

POYO58

福井旅行城巡りpart2 一乗谷城 続き

さてやっぱり一乗谷城といえば唐門。一乗谷城の唐門は秀吉が朝倉家の弔いのために建てたもので現在あるのは江戸時代に造られたものです。残念ながら朝倉家のものでは無いのですが、復元と思っていた僕は、江戸時代から残っていると知り、おどろきました。唐門をくぐると礎石が並んでいます。石碑には井戸跡や台所と書いてあり、ここで朝倉家は暮らしていたのではないかと思いました。また朝倉家のお墓もありました。朝倉義景の墓は越前市にもあるのですが、朝倉義景は一乗谷城で自害に追い込まれたとされています。そこで手を合わせて一乗谷城を出ました。一乗谷城はもちろん山城なので、山の方に竪堀などの遺構が残っているようですが、その日は運悪く大雨だったため断念しました。その後、武家屋敷に行きました。受付で御城印買って、スタンプも押しました。武家屋敷は復元ですが、発掘調査に基づいて復元されているため、当時のものと大差はないそうです。また礎石もしっかりと残っているので、遺構状態は良好でした。この城は明智光秀の運命を変えた城でもあります。歴史上とても重要な場所なので、城に興味がない人も行く価値はあると思いました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

忘れ石の存在がとても印象的。 (2020/09/20 訪問)

内膳丸〜遠見櫓間の登り石垣は,山枯れ時季にその存在感を示すのかな…と思いました。登城道は,比較的登りやすかったです(あくまでも主観です)。忘れ石の存在がとても印象的でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

火ノ島豊後守正宗

小机城 (2022/09/05 訪問)

続68城目。
JR小机駅から住宅地を抜けて徒歩10分程度で到着。
ちょっとした城址公園でした。竹林の並木道が風情があります。
城内は迷路でした。出口が分からず何度も道に迷いました。
スタンプは駅の近くの小机地区センターで押せます。
ちなみに車で行く方は要注意です。住宅街なので道は狭く駐車場も探すのに苦労するでしょう。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

金森城 (2022/09/04 訪問)

【金ヶ森城】
<駐車場他>駐車場はなし。金森霊園の前に暫し停めさせてもらった。
<交通手段>車

<感想>日帰り東近江ちょこ城巡りの旅1城目。滋賀県守山市金森の地は14世紀頃までに支配していた川那辺氏が浄土真宗(一向宗)に帰依し道場を開くようになります。現地石板碑によると、道西坊善従(川那辺矩厚)の時代(1399ー1488)には水濠をめぐらす寺内町が形成されて寺内町の初期形態があったといわれています。戦国の世には土塁・濠をめぐらす金森城として石山本願寺を攻める織田信長軍を牽制したとあります。
 戦国武将の金森長近(はじめ大畑可近)は美濃国の出生だが父の大畑定近が土岐氏の後継者争いに敗れてここに移住します。金森長近も18歳までここで暮らし織田信秀に仕官します。次代の信長にもそのまま仕えて立身したというわけです。
 現地は城びとポイントの金森御坊は非公開で門が開かれていません。Googleマップの善立寺の南側の金森城跡に石碑があります。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

火ノ島豊後守正宗

興国寺城 (2022/09/04 訪問)

続67城目。
JR原駅より徒歩30分かけて苦労して登城しました。
スタンプは奥の神社の横にありました。
無人でありワイヤーで固定されていなかったのでちょっと不用心な気がします。
城内は・・・・はっきり言って空き地です・・・・

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ671