「斐太歴史の里」に行き、職員?の気さくなご年配の女性から、東登山道から、北側に降りるルートが良いと教えてもらう。
他の口コミで東登山道から南に抜けるルートを見たので、そのように行きたいと言うと、南に降りたら駐車場が遠いよ!と言われ、確かに!
東登山道から、二ノ丸跡、三ノ丸跡がオススメの鑑賞スポットとのことでした。
オススメ通り東登山道から、北側に降りて来たら「無事に帰って来たね」と声を掛けてもらい、私たちの事を心配してくれていた様子でした。
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2023/05/08 01:39
本丸からの景色が最高 (2023/05/05 訪問)
「斐太歴史の里」に行き、職員?の気さくなご年配の女性から、東登山道から、北側に降りるルートが良いと教えてもらう。
他の口コミで東登山道から南に抜けるルートを見たので、そのように行きたいと言うと、南に降りたら駐車場が遠いよ!と言われ、確かに!
東登山道から、二ノ丸跡、三ノ丸跡がオススメの鑑賞スポットとのことでした。
オススメ通り東登山道から、北側に降りて来たら「無事に帰って来たね」と声を掛けてもらい、私たちの事を心配してくれていた様子でした。
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2023/05/07 22:53
天正壬午の乱と鳥居元忠 (2023/03/11 訪問)
田野の勝頼公廟所、景徳院を訪れたあと、甲斐大和から石和温泉に電車移動。
路線バスで御坂西小学校前下車、徒歩15分くらいでした。そこかしこに見る“御坂”の二文字に思い当たる節があり、バス路線検索。どうやら朝田さんが甲府から御坂城へ向かわれた路線の真ん中あたりを切り取った区間のようでした。
初見での印象は少し広めの居館跡でしたが、現地説明板の「天正10年の甲斐国争乱の時、御坂城の北条勢に対峙する徳川家康は、鳥居彦右衛門にこの城を修築させ、騎馬130、雑兵600をもって守らせたと伝えられる」の文言にようやく黒駒合戦と結びつき、桜の開花を待つグラウンドに緊張感を感じました。
高さのある土塁の上を一周。説明板にあった東屋(櫓台)の礎石は写真⑥。ごんぱち塚はお隣の敷地っぽかったので遠目に見るだけにとどめました。
御坂城……行きたい。
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2023/05/07 22:09
天球丸とは、何ぞや? (2023/04/07 訪問)
城郭の博物館とも称される鳥取城は、戦国期から江戸時代に掛けて様々な年代の遺構が見られます。戦国時代の山城(山上の丸)と麓の近世城郭(山下の丸)からなるお城でその中で唯一無二として有名なのが「巻石垣」と言われる球面石垣です。
1807年頃、天球丸と呼ばれる曲輪の石垣崩落を防止する目的で甲羅状のユニークな形状の石垣が補強、築き足されました。河川護岸などに使われている石積み技術を応用したものだそうです。球型の形状のせいなのか、どうしても可愛らしく見えてしまいますね。
この天球丸という曲輪の不思議な名称ですが、球面石垣が積まれたことで名付けられたものではなくて、関ヶ原の戦い後に鳥取城主となった池田直吉の姉、天球院が住んでいた事に由来しているそうです。
この天球院様、父が池田恒興、池田輝政の妹なのですが、戦国気質の女傑と呼ぶに相応しい、とても強い女性で数々の逸話が残っています。関ヶ原の戦いの最中、夫の対応に我慢ならず、離縁するのですが、その立ち振舞いと彼女に関係する人達の因果関係が複雑に絡んで面白い事に、興味のある方は、調べてみてね。私は天球院様に同情しますけど。
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2023/05/07 22:00
巨大な浮き城 (2023/05/05 訪問)
金沢城の2倍の広さをもつ難攻不落の城、今は球場や住宅地に変わり面影は薄れてしまったようです残念。
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2023/05/07 21:55
2023/05/07 21:46
2023/05/07 21:36
案内板と石碑 (2023/05/04 訪問)
遺構は見当たりませんでした。
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2023/05/07 21:35
2023/05/07 21:27
道の駅の裏山にある城址 (2023/05/05 訪問)
一向一揆の舞台の城。
鳥越城址の後に行きました!
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2023/05/07 21:27
2023/05/07 21:22
2023/05/07 21:17
2023/05/07 21:11
2023/05/07 20:57
2023/05/07 20:47
2023/05/07 20:06
公園にある台場跡 (2023/05/05 訪問)
台場といえば海の近くと思って来ましたが結構離れてます、昔はもっと近くに海があったんでしょうね?
公園の池には亀がたくさん日向ぽっこ。
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2023/05/07 19:16
2023/05/07 19:12
江戸城の門2 (2023/04/29 訪問)
江戸城の門 前回の続き、正門から投稿させていただきます。
7、正門(西の丸大手門) 正門に続く正門石橋とその奥にある、正門鉄橋の二つの橋を総称して、二重橋と言われ撮影の定番となっています。
8、坂下門 この門は、宮殿のある西の丸造営後に造られた門です。老中安藤対馬守が水戸浪士の襲撃を受けた「坂下門外の変」の現場でもあります。
9、桔梗門 坂下門から蛤濠を沿って歩くと桔梗門に着きます。桜田門が外桜田門と呼ばれ、桔梗門は内桜田門と呼ばれました。
10、大手門 1607年藤堂高虎公によって建造され、江戸城修復に際し伊達政宗公が現在のような枡形の城門にしています。大手門の警備は極めてかたく、鉄砲30丁、弓10張などが常備され譜代10万石以上の大名が警備していたとされています。
11、平川門 この平川門は御三卿の登城門で大奥に最も近い門で大奥女中の通用門として使用されていたようです。この門は、当時のまま、高麗門・渡櫓門・枡形が残っており、この三つが残っているのは、大手門、桜田門、桔梗門と4箇所のみです。
今回、江戸城を4月8日と4月29日両日に訪ね、やっぱり「江戸城は素晴らしい」(*^▽^*)と感じました。城の規模・城の美しさ等、どれをとっても日本一だと感じました。(天守閣が残っていないのは残念ですが)
ただ、4回訪問した内、2回、5割で皇居外苑の警備にあたっているいる、警察官に注意を受けました。「柵内に入らないで下さい」と、夢中になり過ぎて、ついつい(>_<)、皆様もご注意ください。
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2023/05/07 19:10
2023/05/07 19:09
二塚城 (2023/04/02 訪問)
【二塚城】
<駐車場他>石碑の場所に車を寄せて駐車しました。
<交通手段>車
<感想>1泊2日北陸山城攻めの旅2日目6城目。この城跡は下調べせず行って、現地に説明板もなにも無く、よく意味の分からない碑があったので、後で調べて個人サイトの方のを引用しました。二塚城は太刀城ともいう。鎌倉時代後期に越中守護の北条時有(名越時有)(以下名越時有)によって築城され本城の放生津城の支城的役割の城だったようです。名越時有は後醍醐天皇が隠岐の島に配流された時に皇子である恒性皇子を二塚に幽閉します。後醍醐天皇が隠岐の島を脱出した際に反乱を恐れて名越時有は恒性皇子を殺害します。墓陵が城跡碑の南にあります。恒性皇子に従った皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通も首をはねられさらされます。現地の「三ヶ首」の碑はこのことかと思います。その後反幕府勢力が越中国に押し寄せてきて、名越時有は二塚城は放棄し放生津城へ撤退するも落城して自刃します。
現地の「鐘堀」は名越時有が梵鐘を2つ造らせ1つは城の時鐘、1つは寺に寄進したそうですが2つともなくなったそうです。後世に1つが二塚城の堀跡から発見されて南にある浄誓寺の釣り鐘になっているそうです。
前述の通りちょこ城と思い、ちゃちゃっと写真だけ撮ってしまいましたが、後から調べて血なまぐさい歴史がある城だったとは知らず、皇子の墓陵もお寺さんの鐘も見ずじまいでおしいことをしました。碑を3つもつくるなら、現地に説明板くらい欲しかった。
<満足度>◆◇◇
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