富岡城は寛永14年(1637)の天草・島原の乱の時に一揆軍の攻撃を受けました。
城は包囲されましたが、寺沢氏をはじめ城兵の必死の守りで一揆軍は撤退します。
その後、城主は変わり富岡城は幕府の援助で改修を受け、大手門や袋池百閒石垣が
築かれました。
その後、鈴木代官の天領時代を迎えます。
鈴木代官は領地が現状以上に高い石高に設定されていることを知ります。
当然、石高が高く設定されていると領民は重い年貢に苦しまなくてはいけません。
代官の訴えはなかなか聞き入れられないまま代官は亡くなります。
その後、石高が4万2千石から2万1千石に減らされたことから
代官の死因は自害であったとも言われています。
自らの死を持って幕府に訴えたのであれば、なんとも壮絶な話ではありますが
それで救われた領民たちは感謝し、神社を創建して祀ったとのことです。
二の丸には勝海舟と頼山陽の像があって、これがまた海をみつめていて
非常に恰好が良いです。(グーグルマップにも出ています)
頼山陽は江戸時代後期の歴史家・思想家・文学者で尊王攘夷の思想にも
大きな影響を与えた人とのこと。天草の景色に感動して「泊天草洋」という
漢詩を作った縁でここに銅像が設置されているようです。
勝海舟は長崎海軍伝習所の訓練中に観光丸で富岡に来航した縁があるようです。
富岡城から少し下ったところにアダム荒川殉教之地の碑とパネルがあります。
日本で最初の殉教者でローマ法王から「福者」に列せられました。
平成20年11月24日、日本初の列福式が長崎市で行われたそうです。
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