井伊の本拠地です。
初日の出にお勧め。
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2024/03/14 23:25
2023/01/23 16:35
築城時期を再考 (2023/01/02 訪問)
まず南北朝時代に活用された城である事は疑いようがない。この城を難しくしているのは主曲輪西面の連続横堀。しかも石垣まで積んであるため、小牧長久手戦後の徳川による対豊臣に備えた遺構である説がある。個人的には、立地条件他を考えても小牧長久手時は疑問。三方原合戦後の武田方駐屯時説もあるが、圧勝後に対徳川に対してこれだけの遺構築造はこれまた疑問。私は、長篠合戦前後の徳川による対武田ではないかと考える。ただ石垣だけは…「いつ?誰が?何のために?」 逆に謎が深まった。
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2021/11/03 17:11
2021/07/19 07:21
JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:三岳城 (2021/07/01 訪問)
JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の6城目は三岳城です。
柿本城から転戦。神社駐車場(34.8502379、137.6936493)に駐車しました。
三岳城は南北朝時代に井伊谷領主・井伊道政によって築かれた城です。「井伊城」とも呼ばれ、井伊谷に勢力を誇った井伊氏の詰めの城でした。
1339年(暦応2年)には、井伊道政(または井伊行直)が後醍醐天皇の皇子・宗良親王とともに三岳城に入って、南朝方の拠点となりましたが、籠城中に後醍醐天皇が崩御しています。
1340年(興国元年)北朝・足利尊氏勢の高師泰・高師冬・高師兼・仁木義長の大軍に攻められて三岳城が落城すると、井伊道政と宗良親王は大平城へ逃れましたが、その大平城も落城しています。
戦国時代初期の井伊家は遠江守護・斯波義達に従っており、1510年(永正7年)には今川氏親の忍者が三岳城にあった井伊次良の陣所を焼いています。
1514年(永正11年)に引馬城主・大河内貞綱が尾張の斯波義達と結んで反今川の兵を挙げた際、井伊直盛はこれに呼応して籠城しましたが、今川氏の武将・朝比奈泰以(泰煕)の猛攻を受けて落城し、今川氏に降りました。
その後は奥平貞昌が城番として入っています。その後、徳川氏と武田氏による遠江攻防戦の際には両氏によって改修され利用されました。
現在は三の丸跡に三岳神社があり、そこから本丸にのぼれます。
三岳神社に広い駐車場有り。結構きつい登りですが、急斜面を登ると絶景が広がります。
雨が本格的に降る前に、二の城へは行かず下山しました。一脚棒を杖代わりに攻城しましたが、杖がないと雨でぬれた落葉と岩で3回は転んでいました。
攻城時間は50分くらいでした。
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分類・構造 | 山城 |
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築城主 | 井伊道政 |
築城年 | 南北朝時代 |
主な城主 | 井伊氏、斯波氏、今川氏 |
遺構 | 曲輪、帯曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)、枡形 |
指定文化財 | 国史跡(三岳城跡) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 静岡県浜松市北区引佐町三岳字城山 |
問い合わせ先 | 浜松市役所生活文化部文化財課 |
問い合わせ先電話番号 | 053-457-2466 |