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赤い城

こさわじょう (2022/08/21 訪問)

ショッピングセンターの駐車場から5分くらい歩きました。
主郭跡は畑になっている他、高用地で立入禁止。
フェンスが設置され、内側に説明板が立っています。
坂道を下っていくと坂の入口にも説明板がありました。
長尾景春の乱の際に金子氏が築いた城ですが扇谷上杉氏家臣の太田道灌によって攻め落とされました。
周囲は住宅地、遺構もほぼ残っていないようです。

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侍ホリタン

東海の100名城を訪ねて③ (2022/01/23 訪問)

本日、岡崎城、岐阜城に続いて3城目、現存12天守の一つ国宝犬山城です。名鉄犬山駅から徒歩10分、途中の犬山城下町にはお店が沢山あって賑わっています。ここも岐阜城と同じで天守からの眺めが素晴らしいです。

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侍ホリタン

東海の100名城を訪ねて② (2022/01/23 訪問)

本日、岡崎城に続いて2城目、斎藤道三公、織田信長公の居城岐阜城です。天守へのアクセスは名鉄岐阜駅、岐阜バス、金華山ロープウェーでバスもロープウェーもお城めぐりきっぷに含まれてます。山頂に聳え立つ天守も迫力ありますが、天守からの展望が素晴らしいです。今回はロープウェーでの登城になりましたが、登山道も整備されてる様なので次回は登山道での登城を目指します。

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源二郎

垂涎の搦手 (2022/09/11 訪問)

虎口虎口虎口!虎口だらけで幸せ!
井戸は看板などの案内がないため少しわかりにくいかもしれません。
ただ左に抜ける道があるので、山城に慣れている方はなんとなくで見つけられるかと思います。
本丸までは30分くらい、9月上旬で暑い日でしたが木々のおかげで涼しく登山できました。
搦手方面の堀切や竪堀はとてもわかりやすく魅力的なので必見です!!!絶対見てほしい!
(登山口の方の竪堀は藪がすごくて全くわからなかった泣)
次回は熊城もあわせて巡りたいなぁ。。これから熊城行かれる方!追加レビューお待ちしております😊

追記
ちなみに!登山口にも山頂にも諸々施設はありませんので、飲み物やトイレは事前準備必要です!

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侍ホリタン

東海の100名城を訪ねて① (2022/01/23 訪問)

名鉄のお城めぐりきっぷを使っての訪問です。名鉄1日乗り放題、お城の入場券、割引券等の付いたお得な切符です。興味のある方はWebで検索してみて下さい。切符は早朝でも有人の改札口で購入できます。本日1城目は徳川家康公出生の城、岡崎城です。名鉄岡崎公園前から徒歩10分弱の岡崎公園内にあります。

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POYO58

福井旅行part4 丸岡城 日本一古い天守はどれ? (2022/08/15 訪問)

福井城訪問後、福井駅のグリーンホテルで一泊泊まり、翌日、丸岡城に行きました。丸岡城は織田信長の家臣の柴田勝豊が築城しました。その後、豊臣家や徳川家がこの地を収め、最終的に本多氏がこの領地を収めました。

丸岡城といえば北陸唯一の現存天守で日本最古と呼ばれていますが、それについてはなかなかわかっていません。世界最古の天守は犬山城ともされていますが、犬山城の天守は織田信康が築城したものではなく、江戸時代に成瀬正成が築城した説があります。また、丸岡城も柴田勝豊が築城したと考えられていましたが、ほんの最近の調査では、江戸時代に本多氏が築城したという資料があり、何が正解なのかわかりません。

丸岡城は天守以外に一部石垣が残っていましたが、遺構は数少ないです。ちなみになぜ丸岡城が国宝では無いのか?実は丸岡城の天守は昭和時代に地震で倒壊しており、旧国宝で終わってしまったそうです。しかし今は重要文化財に指定されています。また丸岡城の天守は今国宝指定を目指しています。

遺構★★
建物★★★★
行きやすさ★★★★
全体★★★

攻城時間
約30分
入場券に資料館もついているのでぜひ行ってみてください。

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ヒロケン

築城の名人藤堂高虎公の縄張り (2022/08/17 訪問)

宇和島城は、宇和島の中心に位置する標高約80mの丘陵に築かれた梯郭式の平山城で、最上部に本丸が置かれ、それを二の丸、藤兵衛丸、代右衛門丸、長門丸が囲んでおり、三の丸には伊達秀宗公の時代、伏見城から移築された屋敷があったとされ、17の門と33の櫓があったとされています。
宇和島城は、築城の名人として名高い戦国武将、藤堂高虎公によって慶長元年から5年の歳月をかけて築城されました。かつては大半が海に面しており、地形をうまく利用した縄張りで堀も築かれていましたが、現在は埋め立てられています。
その後、慶長20年に伊達政宗公の長男、伊達秀宗公が宇和郡10万石を拝領して宇和島城へ入城、現在残る天守は、2代伊達宗利公が城を大改修し、藤堂高虎公が岩盤の上に築いた望楼型天守から、石垣造りの天守台を持つ層塔型天守に変え築いたものが現在に残っています。また、この時に多くの石垣や櫓を修築しており、現在の姿にしています。

海城としても名高い宇和島城へは10年振り2度目の訪問です。10年前は行ったことに満足してしまい、見逃していたところが多々あり、いつか再訪しようと狙っていました。
この城の見所は国指定の重要文化財に指定されている、現存の層塔型天守です。千鳥破風・唐破風を層ごとに変化をつけた屋根が優美さを醸し出しています。また、上り立ち門は搦手口にある現存の門、桑折氏武家長屋門は家老の桑折氏屋敷にあった長屋門を移築したもので見所の一つです。
そして何と言っても石垣です。古い時代に積まれた石垣と、新しい時代に積まれた石垣が時代の流れを象徴しており、守り抜いてきたその時代の先人達のことを思うと感慨深いものがあります。

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スミヤキ

霞ヶ城かすかな記憶 (2022/09/09 訪問)

最初に訪れたのが高校生時の夏休み(1987年8月)ですから、35年ぶりの山形城になります。微かに覚えているのが、お堀に囲まれた城跡だったことと最上義光公の騎馬像です。

この像は1977年(昭和52年)11月、あの「でん六豆」で有名な(株)でん六の創業者鈴木傳六氏が寄贈建立、騎馬の後ろ二本脚で重さ3トンもの銅像を支える山形鋳物の逸品です。個人的な感想ですが、仙台城の政宗像、千葉城の常胤像とこの義光像は、とにかく見栄えが良く、カッコいいです。必見です!

山形市では、この山形城を江戸時代初期、最も繁栄した出羽最上家57万石を復元すべく整備がすすめられています。絵図などを基に二ノ丸東大手門、本丸一文字門髙麗門及び枡形土塀が復元され、見学出来ます。この先も楽しみですね。お堀に関しては、400年以上その歴史を紡いできており、見応えがあります。

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首里城公園

首里城 登城記念 オリジナル「御城印」 好評発売中!

首里城公園では、ミュージアムショップ球陽(首里城公園有料区域内)で首里城への登城記念品としてオリジナルの「御城印」を販売しています。
また、首里城オリジナル「御城印帳」も販売中です。

首里城公園でしか手に入らない「御城印」「御城印帳」をご登城の記念にお求めください


首里城オリジナル「御城印」
販売所 ミュージアムショップ球陽(首里城公園有料区域内「女官居室」)
営業時間 9:00~17:30
※別途、入場料が必要です。
【価 格】
御城印:500円(税込)※御城印はお一人様3枚まで。
御城印帳:2,750円(税込)売上の一部は「首里城基金」及び「首里城未来基金」へ寄付させていただきます。


■御城印の特徴
題字:書をこよなく愛したことで知られる尚育王(第二尚氏王統第18代国王)の遺墨を参考にしています。
印影:琉球王国の統治組織である首里王府の公印『首里之印』を再現しています。
正殿(イラスト)の色:正令和の復元で使用される予定の久志間切弁柄の色をイメージしています。
 
■御城印帳のデザイン
御城印帳は琉球王国時代から伝わる紅型『苧麻白地鳳凰と扇牡丹文様両面紅型単子供衣装(ちょましろじほうおうとおうぎぼたんもんようりょうめんびんがたこどもいしょう』(一般財団法人沖縄美ら島財団所蔵)より、「鳳凰」と「牡丹」の文様を用いてデザインされいます。
「鳳凰」と「牡丹」
太平の世に現れると信じられていた鳳凰は、龍とともに国王を象徴する霊獣であり、王族が身につける衣裳や身の回りの工芸品にもよく使われ、左右一対で描かれています。
赤や黄色で描かれている牡丹の花は「富貴」の象徴であり、華やかな雰囲気を醸し出しています。
1つ1つのモチーフに琉球王国時代からの想いや願いが込められていると感じられるのではないでしょうか。


<お問合せ先:首里城公園 098-886-2020>

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赤い城

愛川中学校 (2022/08/21 訪問)

愛川中学校の辺りが城跡で中学校前の道路沿いに説明板が立っています。
中学校裏手には墓地がありますが狼煙台だったとも言われていて曲輪の跡のように見える場所もありました。
北条氏家臣の内藤氏が築いたとされ、三増峠の戦いで落城しました。
三増峠はすぐ近くですがこの日は立ち寄らず次に向かいました。

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にのまる

水ノ一門~六門 (2020/06/10 訪問)

ほの門の先は「水ノ門」の一門から六門が西小天守まで続きますが、その前に「姥ケ石」を確認しました。
築城にまつわる伝説は各地にさまざまありますが、それが実際のできごとではなかったとしても、伝説が生まれた背景や元になったできごと、語り継がれる理由はきっとあるはずで、その時代のリアルを知る重要な手掛かりとなるものだと思います。姥ケ石の伝説も築城石を集めることが大変だったということだけではなく、城下の人たちが強制されてではなく喜んで石を寄進していたことが想像できます。
お城が出来上がっていく姿を見ていた人たち―、近年では東京スカイツリーが完成に向けてどんどん高くなっていく様子をリアルタイムで見ていた記憶が新しいのですが、姫路城下の人たちも期待と驚きをもって見守り、また協力していたのだろうなと思いました。

水ノ一門は簡素な棟門ですが、油壁と天守台石垣に架かっているため独立した棟門とは受ける印象がかなり異なりました。
水ノ二門も棟門で、埋門の三の門がその先に見えます。天守群が近づくにつれ門は小さく密集していき、狭間が密になり、鏡石や存在感のある石が目立ってきた印象を受けました。
水ノ三門の階段を上がると、見学者としてはあとは整列して天守群へ進むだけ、という感じですが、侵攻者としてはまだまだぐるぐるまわらされるうえ、水ノ四門の埋門も待ち受けています。
そして遂に天守群への入り口、水ノ五門に到達しました。水ノ五門は大天守と西小天守を繋ぐ二階建ての渡櫓で、鉄格子の嵌められた窓と隠し狭間、そして全面鉄板の門が手招きしています。歓迎されている雰囲気は1ミクロンもありません。そして水ノ門のラスト、六門から天守エリアに入ります。

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モト

移築門があります。 (2022/09/16 訪問)

屋敷跡は小学校が建っていて遺構はないようです。
日本庭園の花田苑に移築門があります。
すごい立派です。
花田苑も寄って来ましたが開園中は門は開門。
閉園が近づくと閉門しました。
開いた門ももちろんなのですが閉じた門もカッコ良いです。

花田苑もきれいな癒しの日本庭園です。
歴史は新しいようですが、こちらもおすすめなスポットです。
近くにはレイクタウンというとてつもなく大きなイオンモール もあります。
こちらも合わせていかがでしょう。

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モト

碑が建っておりました (2022/09/16 訪問)

遺構はないようですが碑が建ってました。
徳川家康、秀忠が鷹狩りに来た際の滞在所だったとの事です。

碑は川沿いにありました。
ナビで位置をセットして向いましたが目的地は住宅地の中、しかもやや細い道を通る事になります。
最初、その細い道を避けるように広い道からアクセスしました。
地図上では近くにある某薬局ストアに車を停めて徒歩で向かいました。
もう目的地は近いはず、しかし...
碑は、なんと川を挟んで対岸に(>人<;)
渡る橋は左右けっこう遠くに見えます。
こんな近くに目的地が見えるのに泳ぐわけにもいかず、改めて車に乗り細い道を通って辿り着いた私でございました。

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ぴーかる

後藤館 (2022/09/04 訪問)

【後藤館跡】
<駐車場他>館跡説明板前<35.087341, 136.149216>に駐車可能
<交通手段>車

<見所>土塁・門跡石垣
<感想>日帰り東近江ちょこ城巡りの旅5城目。後藤館跡は現地説明板によると、佐々木六角氏の重臣後藤氏の居館跡で後藤氏は室町時代前期にあらわれ代々六角氏の家老の位置にあった。後藤賢豊は六角義賢の信望を受け権勢をふるったが、1563年義賢の子義弼(義治)に誅殺された。これが観音寺騒動の発端となり六角氏は家臣団の信望を失い、織田信長に滅ぼされます。
 居館跡は100×120mの単郭構造で周囲に水堀と土塁を備えていたようです。現在は堀と土塁は東辺と北辺に残っており、西側中央辺りに石垣の門跡が残っています。館跡内部はさつまいも畑になっていて収穫間近な感じでした。東近江市観光協会/プラザ三方よしに御城印売ってます。

<満足度>◆◆◇

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もふもっふ

さすがは現存天守 (2021/09/13 訪問)

東北唯一の現存天守との事で丸岡駅からコミュニティバスで向かいました。
公共交通の便はあまりよくない印象です。タクシーも駅前にはほぼいませんでした。
なので核それぞれの交通機関の時間を調べておくことが重要です。

丸岡城は階段もかなり急激です。ロープが垂らしてあり捕まって上がる感じにります。
下りの方がかなり厳しかったです。
なので荷物はなるべく手に持たない恰好が必要です。

現存している天守なので昔の方が触っていた柱などがあると考えるとロマンがありました。
また霧や桜など周りの環境によって見え方がちがってくるとの事で、見え方がまた変わる様な印象でした。

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栃木西方城

西方城シンポジウムの絶賛準備中です!

ただ今、栃木市教育委員会事務局では、令和4年9月25日(日)に行われる「西方城シンポジウム」の準備をしています。
デスクが散らかっておりますが、温かい目で見ていただけると幸いです。

シンポジウムは現在も受付中で、市のホームページ、またはチラシのQRコードから事前申し込みができます。
まだ申し込まれていない方は勿論、すでに申し込まれた方は、ぜひ仲間を引き込んで連れてきてください!
当日、会場で皆さんとお会いできることを楽しみにしています。

栃木市ホームページ
https://www.city.tochigi.lg.jp/site/culture/52103.html

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カズサン

夏草茂る蒲原城 (2022/09/11 訪問)

 駿府城を終えて北東に道のり約30km程の蒲原城へ、今年の2月富士市未踏の城を初登城後、予備の登城を蒲原城と小島陣屋を抑えて居たのですが小島陣屋で終ってしまい、9月とは言えまだ夏の季節、草が茂り心配でしたが、蒲原城址駐車場に車を駐めて登城しました。
 心配の通り草が茂り、本郭北曲輪(善福寺曲輪)と北曲輪の北、東側の腰曲輪は草が大いに茂り探訪断念、本郭南曲輪は草茂るも何とかかき分けて鎮座する神社、北端で北曲輪を見下ろすが、草に覆われ良く分からない状態、同場所は富士山を仰ぐベストポジションですが、今日も雲に隠れて稜線が見えるだけ。
 登城路は台風11号後の長雨で湿って居り、蜘蛛の巣、やぶ蚊、ぶよが飛び、ストックで蜘蛛の巣を払い、防虫ネットを車に備えて居ながら持ってこず、草以上にてこずりました。山城は冬が良い!
 
 前回は平成28年3月23日で草も刈られてベストのタイミング、しかし富士山は霞んで見えるが写真写りは今一でした、蒲原城の登城は冬場から桜の頃が良いようです。絶景の富士山、駿河湾が見所で桜が有れば最高です。

 

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AJ

二本松悲録 (2022/09/13 訪問)

人の頭というのは存外重いらしい。負傷後に自害した隊長の首だけ持って退却しようとしたが1人では運べない。仕方なく2人で髪を持ってぶら下げて逃げたーー。

12-17歳で編成された約60人の「二本松少年隊」は会津の白虎隊同様、戊辰戦争の悲劇として今なお語り継がれています。北上する新政府軍を白河で食い止めるため、増援要請に応じた二本松藩。その結果、自分達の城内は致命的な人員不足に。そこで自ら参戦の意志を告げたのが子供たちでした。

親はしんどかったに違いありません。二本松城入り口に置かれた少年たちの銅像は有名ですが、実はその脇にもうひとつ。大人の陣羽織を縫い上げて子供用に丈を合わせる母親の像があることはあまり知られていません。

さて、肝心の城はというと、さすが元祖「100名城」というべき平山城。見応え、歩き応え十分。攻めにくさという点では、歩きながらふと伊予松山を思い出しましたが、それもそのはず。小田原後、蒲生氏の次に二本松に入ったのが加藤家だったのです。城は室町期から改修と拡大が繰り返されたため、遺構はバラバラで年代特定できないものも含まれます。そんな中、最も古いとされるのが本丸周辺。

95年に復元された本丸石垣は、北に天守台を備えています。ただ、天守そのものが存在したという記録はありません。もともとこの石垣は、直木賞受賞作「塞王の盾」で知名度が増した近江の石工集団・穴太衆が積んだもの(一部職人が蒲生の国替えに帯同)。復元作業でもその技術が伝承されているのがわかります。

とにかく一番古い遺構をお望みとあらば、本丸下南面の大石垣がおすすめ。大形の野面石(未加工の自然石)と粗割石を使った壁はかなりの威圧感。近くには今も湧き出している井戸。と、ここまで見せられると当然「籠城」オプションが頭に浮かびますが、実際にはそうなりませんでした。歴史の綾というやつでしょうか。

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赤い城

国道沿いの公園 (2022/08/21 訪問)

国道412号線沿いに山中陣屋跡公園があります。
駐車場もありますがやや入りにくいですかね。
公開には石碑が立ちますが遺構らしいものはなさそうです。
周囲を流れる水路が堀跡でしょうか。
荻野川西岸に位置し、荻野中山藩の藩庁となりました。
陣屋裏門が福伝寺に移築されているそうですが行ってません。

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小城小次郎

大祝の詰めの城として (2022/05/01 訪問)

諏訪大社上社前宮は諏訪の神が最初に降り立った地であり諏訪大祝(おおほうり)が精進潔斎した地でもあった。前宮の隣にあった干沢城はそんな大祝の詰めの城で周辺には町屋も栄えていたが、武田氏侵攻で全てを失ったようだ。

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