(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原の戦いの伏線となった「名護屋城」を訪れてきました。
ここに当時大坂に次ぐ日本第二の都市があり、20万以上の人口で賑わっていたとは、何度訪れても、やはり今のこののどかな風景からは想像がつきません。登城する前に登城口前にある県立名護屋城博物館をまず先に見学してきました(写真①)。ここでは、元寇から秀吉時代の名護屋城や朝鮮出兵の様子が詳しく展示解説されています。また黄金の茶室が昨年は期間限定でしたが、今では常時観覧できるようになっていました(写真②③)。この立派な博物館が何と無料で入れます。しかも複数人いればバーチャルVRを無料で借りる事ができ当時の名護屋城をVR体験する事ができます(身分証要)。名護屋城も入城無料です(気持ちだけ清掃協力金100円お願いしますとの事、代わりにパンフレットもらえます)。佐賀城本丸御殿も無料だったので、佐賀県は実に「がばい!」と改めて思いました。
城の大手門跡(写真④)から本丸まで大きな石垣が多々見えますが、その近くにごろごろところがっている無数の石があます。これは一国一城令で寺沢広高が破却した跡です。それが今でも残っています。あまりに石垣が立派すぎたからか、壊しきれず中途半端な破却で終わっているのがよくわかります。大手門を過ぎると太閤道(写真⑤)と東出丸(写真⑥)を通り、また破却できなかった石がゴロゴロ転がる三の丸を抜けると本丸に着きます(写真⑦)。ここには畳300畳分の大広間を持つ巨大な御殿がありました。そして天守台には五重六階の巨大な天守がそびえていました(写真⑧⑨)。
慶長の役では三成自ら軍目付として渡海、しかし各地で日本軍が敗戦しているのを真の当たりに見て、前線の小西行長に和睦の仲介を託し、戦を止めようと名護屋に戻り状況を秀吉に報告しますが、当然秀吉は納得せず、返って前線で戦っている諸将たち(武断派)の怒りを買う内容になってしまいます。そして秀吉死後、武断派の怒りは収まらず、三成襲撃事件へとつながり、三成は家康の仲介で佐和山に籠り蟄居の身へ・・・
私は天守台に立ち海を眺めて考えてみました。三成も名護屋城の天守からどんな思いでこの海を眺めていたのでしょうか? 家康は憎けれど、同じ秀吉の小姓として仕えた者同士と、この後に関ケ原で戦をする事になるとは、本望ではなかったのではないでしょうか? 結局ここが、今まで順風満帆だった三成の人生のターニングポイントの場所になってしまいました。
次は(名護屋城②)石田三成陣跡と、前回は呼子のイカを紹介しましたが、今回はこの名護屋での私のお気に入りの場所を御紹介します。
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