千代のむかしの 息吹そよぎし 大野城
四王寺山 大宰府防衛 大野城
山登り 絶景ご褒美 大野城
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2023/05/31 07:01
【かるた】大野城の読み札
千代のむかしの 息吹そよぎし 大野城
四王寺山 大宰府防衛 大野城
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2023/05/31 05:55
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:揖斐北方城 (2023/04/26 訪問)
相羽城からの転戦です。城山さくらの森公園空スペース(35.507211、136.534360)に駐車しました。
北方城は、建武・延元の頃に吉田休三入道によって築かれたと云われています。あとはよくわかりません。
公園になっていて、遺構らしきもの(山頂の公園が曲輪といえば曲輪)は見つけられず石碑があるのみ。
山頂は風強く寒かった。熱があるせいか寒気がします。気力では熱は下がりませんね。
攻城時間は5分くらいでした。
次の攻城先=揖斐城に向かう予定でしたが、風邪が悪化した為、本日の予定(揖斐城、小島城、菩提山城等)を全て中止し、ドラックストアで薬を買って、早めにホテルで休み、明日以降に備えました。
本日の予定分(揖斐城、小島城、菩提山城等)はいつかリベンジします。
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2023/05/31 05:51
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:相羽城 (2023/04/26 訪問)
軽海西城からの転戦です。神社北側公民館入口(35.456320、136.636801)から進入して駐車し、標柱(35.455549、136.636556)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、建暦・建保年間(1211~19年)に土岐二郎光俊によって築かれたと云われています。
光俊は土岐美濃守光衡の嫡子浅野判官光行の二男で、饗庭二郎と称し鎌倉北条方に属して承久の乱で討死したそうです。
饗庭氏は光俊の後、二郎太郎国綱、国頼、国信と続いたようですが、後に廃城となったようです。
天文年間(1532年〜55年)初期には長屋景興が垂井より移り、城を修築して美濃国守護土岐頼芸に仕えました。
1546年(天文15年)斎藤道三が相羽城を攻めましたが、この時は落城しなかったようです。
しかし、翌年土岐頼芸の籠もる大桑城が落城し頼芸は国外に逃れると、道三は再び相羽城に攻め寄せ城主景興と嫡子与五右衛門景直は奮戦むなしく討死したそうです。一説に景興は城を逃れて木曾屋に隠れて没したともいわれています。
現在の八幡神社境内は周囲より幾分高く、ここが本丸跡と伝えられており、標柱と石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=揖斐北方城に向かいます。
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2023/05/31 05:47
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:軽海西城 (2023/04/26 訪問)
北方城からの転戦です。標柱と説明板付近(35.429279、136.655305)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、1468年(応仁2年)以前に稲葉氏によって築かれたと云われています。 稲葉氏が数代ここを居城としましたが、その後西村勘九郎(斎藤道三)が居城したともいわれています。
1560年(永禄3年)池田恒興の家臣片桐俊元(半右衛門)が城を修築して居城としたそうです。
1589年(天正17年)一柳直末が大垣より移って60,000石を領しましたが、直末が豊臣秀吉による小田原征伐で戦死した後、城は廃城となりました。
その後、1640年(寛永17年)に城跡に菩提を弔うために円長坊が建てられ、宝暦年間(1751~64年)に円長寺となって現在に至るようです。
円長寺門前に「軽海西城跡」の標柱と由来説明板が建てられています。
周囲に土塁・堀の跡が残っているようですが、雨が降っているので捜しませんでした。
なお、かつて城の東方には軽海東城があり、加留美長勝、朝倉高清、安藤守宗(安藤守就の次男)などが拠ったとされるようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=相羽城に向かいます。
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2023/05/31 05:44
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:北方城 (2023/04/26 訪問)
黒野城からの転戦です。常誓寺参拝者専用駐車場入口(35.437312、136.691382)から進入して駐車しようとしましたが、手前の道路で工事中。
付近を車でウロウロして、説明板(35.437132、136.691643)前で路駐して、北方城の石碑と案内板の写真を撮ってすぐ撤退しました。
築城年代は定かではないようですが、明応年間(1492~1501年)に伊賀太郎衛門光就によって築かれたと云われています。
4代目城主の伊賀太郎衛門守就から安藤氏を名乗り、安藤守就に改名します。
守就は当初、土岐頼芸に仕えていましたが、美濃が斎藤道三によって奪取されると、道三の家臣として仕えました。稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されたそうです。
1556年(弘治2年)道三と斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力し、義龍の没後は斎藤龍興に仕えました。
1567年(永禄10年)織田信長の美濃侵攻に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕え、引き続き北方城城主となります。
しかし、1580年(天正8年)河渡城主であった実子安藤尚就が、甲斐の武田勝頼と内通したという罪により、信長によって織田氏から追放され、北方城城主は稲葉良通がなりました。
1582年(天正10年)本能寺の変で信長が明智光秀により討たれると、守就は子の安藤尚就と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みますが、稲葉良通に攻められ敗死し、北方城は廃城となりました。
北方城の跡地には、1668年(寛文8年)に北方陣屋が築かれ、美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)、旗本5,000石の陣屋となり、1868年(明治元年)まで存続します。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=軽海西城に向かいます。
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2023/05/31 00:19
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