うとじょう

宇土城

熊本県宇土市

別名 : 城山、鶴ノ城、近世宇土城
旧国名 : 肥後

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くっしー

小西行長のお城 (2022/05/05 訪問)

現在は公園になっていて小西行長像がたっています。
関ケ原の戦いで負けなければどのように残っていたのでしょうね。
想像図みたいな街並みがそのまま残っていたんですかね。
でも西軍が勝ってたら、あの素晴らしい熊本城はなかったかなと思うとちょっと複雑です。

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トク

小西行長の無念が伝わる城 (2022/01/30 訪問)

宇土城は、かつては三重五階の天守がそびえる小西行長の居城でした。
熊本城の宇土櫓は、この天守が移築されたとこれまで言われてきましたが、近年の調査結果ではどうも違うらしいとの事です。
行長は、ここに緑川の水を引込んだ運河を作り、水堀や船着場、さらに城下には武家屋敷や商人町(町割り)などの、当時の博多に匹敵いやそれ以上の大きな総構えの城下町を形成しようとしていたのかもしれません。しかし、その志なかばで関ケ原の戦いに敗れ、京都四条河原で石田三成とともに斬首の刑となりその生涯を閉じてしまいます。勝って宇土の地に戻り、さぞかしその理想を完成させたかった事でしょう。行長の銅像を見ていると、その無念さが伝わってくるような気がしました。 
今の宇土は小さな町ですが、もし西軍が勝っていたら、ここは九州で最も栄えた地になっていたかも?・・・ そんな事を、想像をしながら、この地を巡ってきました。

宇土城へのアクセス: JR鹿児島本線 宇土(うと)駅から産交バス松橋(まつばせ)行きに乗り、本町一丁目(宇土高校入口)で下車、徒歩10分程です(車では本丸下まで行けます)。

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カズサン

小西行長の宇土城を初探訪 (2013/08/17 訪問)

 大分県の日出城を終えて高速道で宇土城を目指す、宇土高校と宇土古城辺りにナビを定めて走行するが宇土古城の手前まで行き引き返し城跡らしき森を目当てに近づき案内板に従い細い道を北から南に進むと案内板、トイレ、駐車場に辿り着くが更に南に曲がり込み広い駐車場に辿り着きそこを利用。
 本丸の西は二の丸で現在広い墓地霊園に成ってる、広い駐車場は霊園利用者の駐車場かもしれない。

 初登城の宇土城本丸の西側に登城階段が有り本丸に登る、本丸話結構広い公園として整備されて居り、東側に小西行長が太刀を前に立て持ってる立像が建立されてる、側に案内板、周囲は崖で落ち込んでるが往時は石垣で覆われてたのだろうか?降りて本丸の周囲を散策、西側は崖と下部は石垣近年の復元石垣の様です、二の丸跡現墓地の間に堀跡、南から東に廻り東隣は宇土高校、夏草に覆われていますが崖土塁下は石垣が積まれ近年の石垣復元の様子、二の丸、三の丸現高校を西から南、東を囲むように外堀が有ったらしいが確認せず、今回の投稿でグーグルマップ航空写真で確認すると新しく出来た外周道路との間に堀らしき痕跡と見えるものがある。
 
 宇土城は市指定史跡、宇土古城は国指定史跡保存の扱いに大きな違いがあるがひっそりと小西行長を偲ぶには丁度良いのかも、芭蕉の句「夏草や 兵どもが 夢の跡」がピッタリです。
 歴史的には秀吉の九州征伐後肥後は佐々成政に与えられるが国一揆で肥後が混乱応援を得て鎮めるも責任を取らされ佐々成政は切腹、後肥後は北半分を加藤清正、南半分を小西行長に与えられ夫々20万石ほどの太守です、立派な城が完成するのでしょうが、其の後小田原征伐、朝鮮出兵、関ヶ原は西軍で敗退、斬首された。
 この間10年ちょっと秀吉の配下として多忙を極め宇土城築城に手間を掛ける時間も少なく、廃城、一国一城令で織豊系の石垣大城郭として残らなかったのでしょう? このまま大事に保存整備をお願いして、初登城で大感謝です。

 この後、八代城に移動します。

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小西行長 (2021/07/22 訪問)

主郭が公園として整備され小西行長の像が立っています。石垣、堀が残っています。

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城郭情報

分類・構造 平山城
天守構造 型式不明[3重/築年不明/解体]
築城主 小西行長
築城年 天正16年(1588)
主な改修者 加藤清正
主な城主 小西行長、加藤清正
廃城年 慶長17年(1612)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(宇土城跡)、市考古資料(慶長13年銘滴水瓦)
再建造物 石碑、説明板
住所 熊本県宇土市古城町
問い合わせ先 宇土市文化課文化財係
問い合わせ先電話番号 0964-23-0156