うとじょう

宇土城

熊本県宇土市

別名 : 城山、鶴ノ城、近世宇土城
旧国名 : 肥後

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todo94

14年ぶりの再訪 (2023/05/04 訪問)

14年前も宇土古城とセットで訪れていましたが、いままでポチっていませんでした。晴れて宇土城、初投稿です。前回は石垣と小西行長の銅像をチェックしてそそくさと退散してしまいましたが、今回はしっかりと一回りしてまいりました。

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しんしんちゃん

小西行長と加藤清正の築いた城跡。破城の跡は妄想で補う。 (2023/01/03 訪問)

宇土城は天正16年(1588)に肥後南半国の領主となった小西行長が
翌年から築城を始めたを伝わります。
関ヶ原の合戦の後、肥後の国一国の領主となった加藤清正が自分の隠居城とするため
普請を行ったとされています。今現在、現存している石垣は清正時代の物らしいです。
清正は隠居することなく没し、慶長17年、幕府の命により城は壊されました。
寛永14年(1637)の島原の乱の後、さらにこの城は徹底的に壊され今は本丸の
一部の石垣が奇跡的に残っています。これは破城の際のお目こぼしなのでしょうか。
城を破壊した人たちも命令でやったことなので、加藤清正の築いた見事な
石垣をすべて壊すのも忍びなかったかもしれません。
現地の城の絵から確認すると本丸の西側の墓地が二の丸。南の宅地が三の丸に
なりますが東の高校も堀の内にあり第四の郭の役を果たしていたと考えられます。
もしくは果たす予定だったのでしょう。北の広大な住宅地も家臣団や寺社、住民の家として
城の外郭として機能していたと思われます。
いまはバーチャルがはやりですが、やはり古城跡を巡るうえで欠かせない物は
想像(妄想)力でしょう。

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前ちゃん

行長に像 (2023/01/30 訪問)

学校の後方とだけ記憶して、徘徊。学校と墓地に挟まれてる

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トク

⑭【関ケ原の26人 】(8)小西行長 (小西行長と宇土城) (2022/12/01 訪問)

(8人目)は「小西行長」です。
関ケ原当時の居城、「宇土城」を訪れてきました。

宇土城訪問は2回目ですが・・・この行長の表情(写真①)を何度見ても無念さがひしひしと伝わってくるのは、この私だけでしょうか? 

小西行長は、堺の豪商の子に生まれ、宇喜多直家(秀家の父)に仕え、備中高松城攻めの間から秀吉に仕えました。水軍を統括する能力と交渉能力に優れ、秀吉の中国大返しが成功したのも、行長の海路からの輸送があったからだと伝えられています。秀吉からは、恩賞として小豆島1万石を与えられ、この頃に高山右近から薦められキリシタンとなります。その後、九州征伐で国人一揆(佐々成正の失態)を鎮めた功績で、宇土20万石に加増移封され、宇土城の築城を開始します。

宇土城築城に協力しない天草氏を攻め、天草地方も2万石で加増されました。しかし、その時見たのは、天草地方の農民の3/4がキリシタンであり、天草氏は滅ぼすもキリシタンや教会は保護します。これが、隣国熊本の加藤清正との火種の始まりとなりました(清正は教会の破壊を主張)。

朝鮮出兵の文禄の役では先鋒を務め、加藤清正と先陣争いをします。その一方で現地で和平交渉に奔走、しかし清正などの武断派から妨害されたり、秀吉から交渉条件を拒否されたりで成功しませんでした。同じ文治派の三成とはこの間に気心が合ったのかもしれません。そして慶長の役後、敗戦の責任を負わされた行長、この頃に恩賞もなく武断派の不平不満の矛先は三成と行長に向けられ、対立が決定的になったようです。

そして宇土城の築城半ばで関ケ原へ出陣、以前仕えた宇喜多(秀家)と共に先鋒を務め、西軍最前線に陣を構えます。


次は、(小西行長陣跡)へ続きます。
 

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城郭情報

分類・構造 平山城
天守構造 型式不明[3重/築年不明/解体]
築城主 小西行長
築城年 天正16年(1588)
主な改修者 加藤清正
主な城主 小西行長、加藤清正
廃城年 慶長17年(1612)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(宇土城跡)、市考古資料(慶長13年銘滴水瓦)
再建造物 石碑、説明板
住所 熊本県宇土市古城町
問い合わせ先 宇土市文化課文化財係
問い合わせ先電話番号 0964-23-0156