あきつじょう

秋津城

奈良県吉野郡

別名 : 下市城
旧国名 : 大和

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①堀切
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:秋津城 (2024/09/29 訪問)

下市口駅から徒歩25分くらいで、説明板前(34.371915、135.791480)に着きました。

当地の看板によれば、秋津氏の居城で南北朝時代は南朝方として南朝を支えた一族でした。
1559年(永禄2年)に落城炎上したとのことですが、よく分かりません。

秋津城は八幡神社の裏山になり、城山と呼ばれています。
東側は墓地が広がっており改変もあるものと思われ、実際、郭の一部は墓地として現状利用されているようです。
石碑があるはずだと思い、ウロウロしてみましたが見つけられませんでしたが、堀切は確認しました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=今井城を目指す為、下市口駅から電車で五条駅に向かいました。

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しんちゃん

入り口は墓地の側にあり。 (2024/02/24 訪問)

秋津城は墓地の背後の城山と呼ばれる丘陵上の南側に築かれていました。曲輪は主に二段で高い方が主郭で、土塁が残っています。主郭の北側と南側に堀が付いているようで(ちょっと記憶が‥)比較的コンパクトな城址になっています。
墓地の背後の林に「トムとジェリー」のジェリーの巣穴のように入り口があいているので、そこをくぐって入っていきます。
城主の秋津守吉は南朝方の武将で、この秋津城も古郭を改修したもののようです。120年後の北山の変で秋津氏は北山村・川上村に出陣し戦死し、永禄2年(1559)に秋津城は落城したとされています。南にある一向宗寺院・願行寺が天正6年(1578)に織田信長の焼討ちを食らったさいに秋津城も落城したと考えられているので、この時は願行寺の曲輪として機能していたようです。
ちなみに城址碑と案内板は西側にある八幡神社のあたりにあるようですが、訪問していません。

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ぴーかる

秋津城 (2023/11/19 訪問)

【秋津城】
<駐車場他>北東側の「墓地のトイレ」がある墓地の駐車場を利用しました。
<交通手段>車

<見所>堀切・曲輪
<感想>秋津城の秋津氏は朝廷に奉仕し淳和天皇の代(823~833年)の時に吉野郡に封じられます。南北朝時代には南朝方に属して戦います。永禄2年(1559年)に戦いによって落城したようです。
 東側からのルートは墓地の最上まで行くと主郭か堀切を挟んだ北の広い削平地に入り込めます。主郭の方は墓地があります。主郭南に3~4段段曲輪があり土居がある曲輪もあります。主郭の北側に大堀切がありその北側は広い削平地になっていて土塁遺構が見られます。更に北に進んで竹林の方まで行くと竹林も段になっており、曲輪段かと思われます。最北は藪化していますが最北の東側に5~6mくらいの切岸とアーチ状に削った遺構があり下に曲輪が見えます。虎口または駒返しの遺構かと思います。

<満足度>◆◆◇

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秋津氏の城 (2023/10/05 訪問)

 秋津氏の城として伝わっています。説明板の近くから墓の中を登って行くと5分もかからないで主郭に行くことができます。主郭にも墓がありました。南側と北側に曲輪と思われる削平地が展開しています。帯曲輪らしき地形もありました。堀切と土塁を見ることができます。

近鉄吉野線下市口駅から徒歩約20分で行くことができます。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 秋津氏
築城年 不明
主な城主 秋津氏
遺構 曲輪、土橋、堀切
再建造物 石碑、説明板
住所 奈良県吉野郡下市町下市字本町