あらいじょう

新井城

神奈川県三浦市


旧国名 : 相模

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チェブ

ライオンとサル。 (2022/12/25 訪問)

「新井城」、薄暗くなってから攻めました。

築城時期は分かりません。
相模国の中央部を本拠地にしていた、三浦 道寸さん・義意さん父子。勢力拡大をする北条 早雲さんに追い込まれます。
最後、「新井城」に籠城し戦い滅亡しました。
地名の『油壷』の由来を、戦いで流れた血が油のようだった事を知った時は、ゾッとしました。

、、、なので、薄暗くなってからの「新井城」は駆け足です。
旧油壷マリンパーク、今は油壷温泉キャンプパークの駐車場を利用しました。
海岸に下りる道があります。
途中に道寸さんのお墓がありました。昼間なら木漏れ日が注ぐのでしょうが、『キー、キー』と、鳥かおサルが鳴いて不気味でした。
説明板だけパチリ。
海岸に出てパチリ。岩場がライオンの横顔に見えてきます。
この場に血が流れたかと思うと怖くなり、引き返しました。
駐車場近くに「新井城」の石碑と、義意さんのお墓があります。
遺構等々、見る余裕がありませんでした。
車で、周辺を調べたら『横堀海水浴場』があり、「新井城」の堀から名付けられたようです。
そして、もう一つ『胴網海水浴場』がありました。
首の無い胴が漁師の網にかかったんだとか。

心穏やかに遊べそうにない『油壷』の「新井城」でした。

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赤い城

油壷に臨む (2022/09/23 訪問)

京急油壺マリンパークは閉館、キャンプパークになっていました。
そこからすぐ、油壺湾に沿って遊歩道があります。
城跡は東大の臨海実験所となり通常は立入禁止です。
一部空堀を見ることができます。
遊歩道に沿った土塁も高さがあり、海側から攻めるのも困難ですね。
油壺は北条氏に滅ぼされた三浦氏一族の血で油を流したようになったことから名付けられたとのこと。
想像するだけでゾッとします。
帰り際ちょっと歩いてみると、朝市用の駐車場からフェンス越しに空堀を見ることができました。

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新ろくべえ

新井城に行ってきました (2020/03/09 訪問)

《新井城の戦いまでの背景》
 三浦親子(道寸、義意)最後の地である、新井城に行ってきました。
この城は、北条早雲の相模平定における最後の戦いがあった城です。
  

北条早雲は小田原城を落とした後、三浦半島一帯に勢力を持ち、
関東管領家とのかかわりの深い三浦氏を攻めるべく三浦半島へ向かいました。
 まず最初に1512年の永正の乱に乗じて、相模岡崎城を落城させ、
次に鎌倉と逗子の市境にある住吉城、そして最後にこの新井城を攻めました。
この戦いがいわゆる新井城の戦いです。
 
《三浦道寸と扇ガ谷上杉氏の関係》
 三浦道寸は、元々扇ガ谷上杉氏の出で、三浦氏に養子として、
三浦時高の新井城に行きました。
しかし時高に実子・高教が産まれると不和となってしまいます。
なので、一度 小田原城主である大森氏頼をたより、
その時元々の名前である義同(よしあつ)から、出家したあと道寸と名乗りました。
そして大森氏の力を借り、時高・高教父子を滅ぼして、
無理やり三浦家当主となりました。

《新井城の戦い》
 1512年、三浦氏の城を落城させながら三浦半島に侵攻した伊勢宗瑞(北条早雲)は、
ついに1513年(永正10年)道寸の本城である、新井城を攻めました。
宗瑞は、力攻めではなく兵糧攻めをしました。
 その時に上杉氏の侵攻を防ぐべく築かれたのが玉縄城です。
(玉縄城の投稿もしているので、ぜひ見て下さい!)
 北条軍は1513年9月29日、扇ガ谷上杉氏の援軍である、太田資康
(太田道灌の息子で、道寸の娘婿)をうち、ますます三浦軍を孤立させました。
しかし、さすがの北条軍も新井城には難攻し、1516年(永正13年)、兵糧がなくなり、
 息子の義意は潔く城外にでて討ち死に。道寸ほか一族も自害しました。
道寸の辞世の句は、
討つ者も 討たるるものも 土器(かわらけ)よ くだけた後は もとの土くれ
という、討つ者、討たれる者も砕け散るかわらけのようだ という意味の句です

《その後》
 落城後は、北条家の城となりました。
しかし豊臣家の北条討伐のより廃城となりました。




【城情報】
・形式       ❙平山城
・築城年      ❙鎌倉時代ごろ
・廃城年      ❙1590年(天正18年)
・築城者      ❙三浦氏
・最後の城主    ❙北条家
・廃城理由     ❙豊臣家が北条家を滅ぼし、使われなくなったため
・主な城主     ❙三浦氏→北条氏
・遺構       ❙ 曲輪、土塁、堀など
・主な建築物    ❙なし
・説明看板、石碑  ❙両方有
・駐車場、トイレ  ❙なし
・天守       ❙なし
・保存状態(自身判断)❙歴史的な意味では重要で、遺構もあるため良
          ❙普通
・備考       ❙・遺構は少ない
          ❙・遺構は東京大学の研究施設にある。
          ❙道寸祭りには見れる 

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T-Shionoya

新井城一般公開 (2022/05/29 訪問)

前回投稿した三崎城に続いては、同じく神奈川県三浦市の新井城に行ってきました。
道寸祭りに伴い、東大の臨海実験所内の遺構が一般公開される日でしたので。

三浦半島南部の西海岸、相模湾に突き出た小さな半島を城とした新井城。
北の小網代湾、南の油壷湾に挟まれた海抜約25mの断崖の上。
陸続きの東部は堀で分断され、普段は引橋が架けられていたようです。(内の引橋)

室町初期の築城と推測される三浦氏代々の本城で、伊勢宗瑞(北条早雲)の相模侵攻では三浦氏最後の砦となった城。
その堅固な地形ゆえに宗瑞は力攻めを避け、援軍を叩きつつ3年間の兵糧攻めで1516年に落としたとのこと。
現在は、本丸部分が東京大学の臨海実験所。二の丸部分は水族館から今年キャンプ施設に生まれ変わりました。

訪問時、止まった信号の標識を見ると引橋交差点。
その先が三浦半島南部へ入る1本の尾根で、そこが第1防衛ラインだったのでしょうか。(外の引橋)

一般公開は予想外に人が多く、終了間際に入城。
高やぐらの横で10分ぐらい三浦氏の説明を拝聴。
実験場を出て新井浜へ向かうと、城の周囲が鉄壁の崖であることを実感。
当時の城は自然地形が1番の防御施設だったのかなと感じた私の城巡りの128城目でした。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 佐原(三浦)氏
築城年 鎌倉時代後期
主な城主 三浦氏、後北条氏
廃城年 天正18年(1590)
遺構 曲輪、堀切、虎口、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 神奈川県三浦市三崎町小網代
問い合わせ先 三浦市教育部文化スポーツ課
問い合わせ先電話番号 046-882-1111