ここは昨年、由利本荘市内の城館探訪の際、時間切れで攻城を断念した場所。以来ずっと気になっていただけに、猛暑が続いていますが自身の夏休み初日の朝6時に由利本荘市矢島町を目指して出発、午前9時には城址に到着できました。
この城は由利十二頭のひとり大井氏が応仁年間(1467~1469)年に築城したといいます。関ヶ原合戦の後、由利郡は最上義光が領し、その臣楯岡氏が配されると慶長7(1602)年に楯岡満広が城主となります。最上家改易後の元和9(1623)年には常陸国行方郡に転封していた元由利十二頭のひとり打越光隆が矢島3000石の領主として配されます。寛永12(1635)年に打越氏が無嗣廃絶となると、寛永17(1640)年に讃岐国17万1800石の生駒高俊は家中不取締りで改易となり、堪忍領として矢島1万石で入部します。その後は維新まで13代229年間にわたって生駒氏の陣屋として続き、戊辰戦争に際して生駒氏は新政府側に付き庄内藩の攻撃を受けると陣屋に火を放って撤退し「落城」したといいます。
城域は西側から延びる比高70mほどの台地の東端に主曲輪を置き、北、東、南側は切り立った崖、西側の藩学日新堂の跡地が二ノ曲輪と思われます。主曲輪(現在矢島小学校地)と二ノ曲輪とは大手門跡前にある水掘で区画していますが、これは中世には空堀で、近世の陣屋時代の遺構かと思いました。
元禄年間に描かれた絵図をもとに明治4年に聞書きした家中絵図が城址にあり、曲輪の西側が武家屋敷地となっていたようです。大手門に向けて東西に城内大路、南北に山本大路があり、それぞれの両脇に亀小路を始め、鶴、桃、櫻、柏、橘、楊、松、梅、椿、桂の各小路があり100軒ほどの家中屋敷が描かれています。城址の南側には館町、田中町の町人町が東西に延び城下町を構成しており、こじんまりした城址とそれをとりまく城下町の風情には心が和みます。
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