尼厳城から転戦。川中島古戦場史跡公園北駐車場(36.590128、138.186661)に駐車しました。
首塚 武田信玄と上杉謙信の一騎打ち像等を見学しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=牧之島城に向かいました。
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2023/05/17 03:11
2023/05/17 03:04
(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:尼厳城 (2023/04/22 訪問)
須田城から転戦。尼厳山奇妙山岩沢登山口(36.569740、138.227723)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、城主は東条氏で1460年(長禄4年)に英多庄中条を東条遠江守が知行していたそうです。
1550年(天文19年)武田氏が村上氏の砥石城を攻めたとき、寺尾城主の寺尾氏は村上氏に叛して武田氏に味方しましたが、東条氏は村上氏に従っており、村上義清と高梨正頼が寺尾城を攻め落としています。
1556年(弘治2年)武田氏は真田幸隆に尼巌城の攻略を命じ、高坂弾正の加勢もあって尼巌城は落城、東条氏は越後上杉氏を頼って落ちていきました。
尼巌城を手に入れた武田氏は西条治部少輔に尼巌城の普請を命じ、武田氏の拠点として海津城ができてるまで重用されました。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡して上杉氏がこの辺りを支配すると、東条遠江守信広が尼巌城主に返り咲きました。
1598年(慶長3年)上杉景勝が会津へ転封となると東条氏もこれに従って移っていきました。
尼巌城は松代町の東の尼巌山に築かれています。
主郭の東側面は急坂で、尾根近くの山腹に畝状竪堀群があります。
下山時、野生のカモシカに遭遇しました。5mくらい先にいたのですが、ビビって写真を撮り忘れました。
山頂まで登り37~38分くらいでした。70歳前のおじさんにはちょっときつかった。
山頂の主郭から西へ伸びた尾根に堀切で区画された曲輪があるようですが、一郭到達で満足したことと&時間の都合で行っていません。
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=牧之島城に行く途中、川中島古戦場に寄りました。
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2023/05/17 02:53
(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:須田城 (2023/04/22 訪問)
苅田城(大城)(城びと未登録 長野県小布施町)から転戦。臥竜公園駐車場入口(36.640664、138.314608)から進入して駐車後、テニスコート北側の登り口(36.642278、138.314778)に向かいました。
須田城は井上氏の一族である須田氏の居城です。
戦国時代には、須田氏は須田郷須田氏と、日滝大岩郷須田氏にわかれ、武田信玄が北信濃へと勢力を伸ばすと須田郷須田氏はこれに従い、一方の大岩郷須田氏は上杉謙信に従っています。
その後、武田氏滅亡後に起きた「天正壬午の乱」で上杉景勝が北信四郡を手に入れると、須田満親が海津城の城将となり、真田昌幸が上杉方に転じた際には交渉役をつとめています。
その後、1598年(慶長3年)に上杉氏の会津への国替えの命が下ると、これに抵抗し須田氏は海津城で自害して果てました。残された者は上杉氏と伴に会津へ移り、須田城は廃城となりました。
現在、城址は「臥龍公園」として整備されており、土塁や竪堀などの遺構がわずかに残っています。
主郭に向かう途中に堀直虎廟堂がありました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=尼厳城に向かいました。
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2023/05/16 23:17
お花見🌸 (2023/03/29 訪問)
同僚と小田原城公園にお花見に行ってきました。
小田急線でびゅーんと行ってまずは足湯。それからごはん。
御用米曲輪の整備状況が見たかったので北入口から入城しました。御用米曲輪はもう 10年くらい発掘調査と整備を行っていますが、北西土塁の断面図が大きく表示され、柵越しに中を覗いてみると復元もかなりすすんでいて、いよいよ完成間近という段階にきている様子でした。オープンが待ち遠しいです。
久しぶりに天守内にも入り、1時間くらいかけて館内をじっくり見学。再建天守城カードや行けなかった講演会の資料集をゲットしました。お天気もよくて見晴らしも最高でした😄
常盤木門から二の丸を通って銅門へ。住吉橋から馬屋曲輪を通って馬出門から退出し、新しくできた三の丸ホールに隣接する観光交流センターのcafeで休憩。水堀越しに桜と隅櫓と天守のいい感じの写真が撮れました。
最後に幸田口門土塁とういろう屋さんに寄って帰りました。楽しかったです\( ˆoˆ )/
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2023/05/16 22:31
㊳【関ケ原の26人】(17)本多忠勝 (本多忠勝 陣跡) (2022/12/01 訪問)
(17人目)は「本多忠勝」です。
関ケ原の「本多忠勝 陣跡」を訪れてきました。
東軍随一の勇猛果敢な武将で知られた本多忠勝ですが、兵の数はわずか500、ちょっと少ない気もしましたが、徳川秀忠と行動を共にしている長男の忠政に兵の大部分を預けていたためのようです。忠勝は軍監として参加し(つまり作戦参謀でかつ豊臣恩顧の大名の監視役)そのせいか最初はあまり目立った活躍はありませんでした。次男の忠朝に戦は任せ、自らは家康陣(桃配山)と前線の中間に陣を敷き、前線で戦う福島正則や背後にいる南宮山の毛利軍の監視をしていたようです。現在の忠勝の陣跡は、何やら民家の裏庭みたいな所にあり、見学していたら住民のおじさんらしき人からじーっと見られまれました(勝手に人の庭に入られていい迷惑なのかも?)。静かに見学しましょう。
本多忠勝は今まで57度合戦をし、一度も怪我をした事がなかったようです😲! 腕には死者を弔う大数珠を下げて今回も家康の前方を守りました。14才で大高城の戦いから家康に仕え、大河ドラマでは山田裕貴さんがもうすっかり人気者になっていますよね! 三方ヶ原では叔父の忠真が、「行け平八郎~! おまえはおまえの好きな殿を守れ~!」と叫んで盾となって亡くなっっていったシーンには、ちょっと泣けてしまいました😭~!
忠勝は数々の戦で功を上げましたが、特に「伊賀越え」では家康を最後まで守り抜き、無事岡崎まで帰還させました。家康にとっては最も頼りになるボディガード的な存在だった事でしょう。ここを「どうする家康」ではこの後どのように描かれるのか? 私は楽しみにしています😊!
関ケ原の戦いの終盤、島津義弘が猛スピードで自陣の前を横切ります(島津の退き口)。それを追う井伊直政と松平忠吉も目の前を駆け抜けます。それを見た忠勝は自らもその後を必死で追いかけます。しかし途中で愛馬が撃たれ、それ以上は追うのはやめてしまいました。代わりの馬で追おうと思えば追えたはずです。なのにやめてしまいました。それは何故だったのでしょうか?
私は本多忠勝の陣に立ち、島津義弘が横切ったという目の前の道を眺め、考えてみました。それはきっと、忠勝の心の中にあった「武士の情け」がそうさせたのではないでしょうか?・・・🤔
次は、忠勝の関ケ原後の居城「桑名城」に続きます。
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2023/05/16 22:10
源頼朝がここにいたのかもしれない (2023/01/03 訪問)
石橋山の合戦で敗れて安房に逃れた源頼朝を最初に庇護した安西景益の居館とされるお城で、それが本当であれば頼朝はこのお城に滞在していたことになる。遺構らしき遺構はないがそれがまた鎌倉時代っぽいと言えば言えなくもない。
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2023/05/16 21:30
鉄壁の三重横堀と高石垣 (2023/04/08 訪問)
【七郎城】
<駐車場他>駐車場はなし。登城口の横の墓地<34.521426, 132.623027>に1台駐車できそう。または橋の傍<34.520942, 132.622751>
<交通手段>車
<見所>横堀・堀切・石垣
<感想>第2弾安芸高田・北広島の山城攻めの旅1城目。七郎城は現地標記は古川城となっています。現地説明板には古川城は東にある萩原城(城びと未登録)の保砦であり本城の見張りの役割だったとされる。城主は代々三田氏が支配していたそうです。最後にこの城に居たのは天正年間(1573~1591年)に三田備前守元秀というもので子孫は帰農したようです。
先達の投稿記録の登城口近くの橋は新しく架け替えられて迂回する必要はありません。北麓の登城口から南に登って行くかんじで北の虎口っぽい場所に着きます。城跡の東向こう側の岩場の方がやや微高地になっているので主郭の東側に南北に走る長大な3重横堀があります。横堀土塁には石塁が残る箇所もあります。横堀は南側・西側まで回り込んで竪堀となって落ちています。とにかく圧巻の見応えで、「なんじゃこりゃぁーすごい‼」と声が漏れました。これまでの山城最強の横堀です。主郭の北側の大堀切からロープ伝いに登り西側の曲輪群に出ます。西側は斜面に沿って広がる横長に段曲輪があり、主郭の北側に堀切を挟んで3段連段曲輪があります。主郭の北西側下段に石積み虎口跡、主郭北西側の曲輪壁に高石垣が残っています。この辺りも見応え充分です。主郭は縦長で南奥が1段高く櫓台だったようです。
横堀だけで縄張りの半分くらいの面積を占めた特異な城跡で石積み・高石垣も残っていてかなりの見応え、先達がお一人しかいないのが不思議。超お勧めの城跡です。
<満足度>◆◆◆
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2023/05/16 21:07
2023/05/16 20:09
ありがとうございます。
朝田さん、ご助言と地理院地図のご紹介、ありがとうございます。
私のテキトーぶり、バレバレでしたね💦
いつか御坂城に行ける日が来たら、下調べも充電もしっかりしていこうと思います( ̄^ ̄)ゞ
小学生の時以来の地図記号の勉強も😱
↓お礼にアンパンマン@高岡城です。
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2023/05/16 19:50
伊東氏四十八城の一つ (2023/01/07 訪問)
港町の町中から山に入っていく道を登っていきます。
小さなお堂があるところが登り口で道は少しわかりにくいです。
途中で石垣のある郭があるのですが藪がひどくて先に進めません。
一瞬だけ自分の位置がわかる国土地理院のアプリを使って別ルートを探し進みます。
本丸らしき扁平地にたどり着くと周囲を土塁で囲ってあります。
その日はそこで引き返したのですが 尾根伝いに南に行くと
狼ヶ鼻の展望台まで行けるようです。
四苦八苦して登ったのであまり良い写真がありません。
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2023/05/16 19:34
南郷城音頭 曲付きで聞いてみたい (2023/01/07 訪問)
車で本廓まで上がってくることが出来ます。
城主(地主)さんのご厚意で本廓に車を止めることが出来ます。
散策していると南郷城音頭の看板がありました。
なかなか楽しい城主さんの用です。
石垣は当時からのものでしょうか?
好天もあり眺望は最高です。
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2023/05/16 18:15
2023/05/16 15:33
武田信虎築城国境の城 (2023/05/04 訪問)
日帰り甲州路城探訪の5城目先達城に初登城、能見城から七里岩ライン県道17号線を道なりに約20km弱、長野県に約1km程入った道沿いに常昌寺が在りここが先達城址、東門前に広い駐車場が有ります。
駐車場の東前に案内解説板、城名碑が有り、常昌寺本堂が1郭、余湖図コレクションさんの俯瞰図によって探訪し曲輪名は余湖図コレクションさん俯瞰図による。1郭北に一段上がって墓場、更に北に2郭と鳳凰山大権現社も鎮座し沢に落ち込んでいる、1郭の南に3郭、4郭と続き、各郭の西は鹿之沢川に落ち込み急峻な崖と成っている。
1郭より甲斐駒ヶ岳がよく見えて、駒ケ岳の左横に小山の様に顔を出してる日本第二の北岳が望める。地元の方に聞いて初めて北岳拝顔?記憶に残ります。
案内板によると、武田信虎(信玄の父)が享禄元年(1528年)8月諏訪攻略の兵を国境付近に進め、小東の新五郎屋敷を城に取立てと「神使御頭之日記」に記載。地元の伝承によれば、ここ鳳凰山常昌寺の敷地には武田信玄の家臣、多田淡路守常昌の居館があった。常昌は長篠・設楽原合戦で討死。常昌寺は多田淡路守常昌の名に因んだものなのでしょう。(詳細は投稿の先達城址案内板を見てください)
甲州から少し長野県富士見町に入り込みましたが、日帰り甲州路城探訪の5城目国境の城先達城で当日分は終了、先達城址からは中央道小淵沢ICまで2km程で着き、後は便利なもので中央道、中部横断道、新東名の高速利用、この間は渋滞もなくスムーズに浜松へ帰れ往復約400km程の城旅でした。
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2023/05/16 12:27
【かるた】白石城の読み札と絵札 と思いきやただの俳句投稿... (2023/04/02 訪問)
白石の 白(城)を染めゆく 花の雲
白石城のシンボルである純白の天守を桜がピンクに染める様子をイメージし、白い天守を連想させる白と城、絵札の曇り空と桜が雲のように辺り一面満開に花開く様子を掛けました。
結構名作が出来たと思ったのですが、まさかの100名城限定かつ城名をいれなければいけませんでした。色々な人が詠んでいて楽しそうだなと思って何もみずにやってたらやっちまった...(ちゃんと読んでなかった自分が悪い)
でも自分的には名作なのでただの俳句ですが、一応投稿させてください\(_ _)
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2023/05/16 11:11
第1回歴史講座のお知らせ
2023年度の第1回歴史講座は、
「池田家家臣 大陽寺左平次!」です。
岩崎城の戦いにおいて長久手城主加藤景常と一騎打ちを行った大陽寺左平次。
彼はどのような人物であったのか解説します。
講座後には、岩崎城刀劇隊 大陽寺左平次とのミニトークショーを行います!
トークショーからの参加もできます。
ぜひお気軽にご参加ください!
※講座は一回ごとに募集いたしますので、お好きな講座にのみご参加いただけます。
募集期間等はその都度ご案内します。
募集期間:6月3日(土)~17日(土)
開催日時:6月18日(日)13:30~15:00
ミニトークショー 15:10~15:40
場所 :岩崎城歴史記念館2F 多目的ホール
対象:どなたでも(日進市内在住・在勤・在学の方を優先)
講師 :当館館長 村田 信彦
定員 :30名(先着順)
参加費:無料
申込方法:期日までに当館へお電話にて申し込みください。
お問い合わせ 岩崎城歴史記念館
〒470-0131 日進市岩崎町市場67番地
Tel 0561-73-8825 Email n-iwasakijo@mf.ccnw.ne.jp
HP http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/
開館時間 9:00~17:00 休館日/月曜日(祝日の場合は開館)、12月28日から1月4日
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2023/05/16 08:05
【かるた】小谷城の読み札と絵札
浅井氏の 悲哀ただよう 小谷城
遺構も大いに堪能しましたが、浅井長政とお市の方、三姉妹の悲劇の歴史を知るだけに、悲哀を感じつつの城めぐりでもありました。
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2023/05/16 07:39
【かるた】箕輪城の読み札
上州の黄班 護る 箕輪城
四天王 井伊直政の 箕輪城
箕輪城 10万坪の 大要塞
北関東 要の堅城 箕輪城
読み札のみの投稿です
歴史もあり、規模も大きく場所も重要拠点で名将もいらした箕輪城
この魅力をどう伝えようかとあれこれ悩みながら詠みました
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2023/05/16 07:11
2023/05/16 02:58
(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:苅田城(大城)(城びと未登録 長野県小布施町) (2023/04/22 訪問)
苅田城(小城)(城びと未登録 長野県小布施町)から徒歩で転戦。車は鳳雲閣付近の空スペース(36.698828、138.333675)に置いたまま攻城しました。
築城年代は定かではないようですが、城主は苅田式部太夫繁雅とも伝えられています。
永禄年間(1558年〜1570年)頃までは高梨氏の勢力下にあったそうです。
苅田城は岩松院の北側に東の山から西へ伸びた尾根に築かれており、大城と小城からなる山城です。
苅主田城(大城)は小城から急峻な地形を登った先にある東西に長く伸びた尾根に築かれています。
一郭には東西それぞれに堀切があります。
登山道は小城を経由して大城へ登ることになります。
下山寺、ロープをつかみにいって落葉に足を取られ転倒。(今回の遠征はよく転びます)
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=須田城に向かいました。
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2023/05/16 02:50
(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:苅田城(小城)(城びと未登録 長野県小布施町) (2023/04/22 訪問)
岩松院館(城びと未登録 長野県小布施町)から徒歩で転戦。車は鳳雲閣付近の空スペース(36.698828、138.333675)に置いたまま攻城しました。
築城年代は定かではないようですが、城主は苅田式部太夫繁雅とも伝えられています。
永禄年間(1558年〜1570年)頃までは高梨氏の勢力下にあったそうです。
苅田城は岩松院の北側に東の山から西へ伸びた尾根に築かれており、大城と小城からなる山城です。
苅田城(小城)は比高50m程の尾根の先端にある単郭の城で、東に堀切、北西尾根側にも堀切があります。
曲輪は石積によって固められています。岩松院からの登り口は石積の通路が最後は階段となっています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=苅田城(大城)(城びと未登録 長野県小布施町)へ徒歩で向かいました。
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