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よみがえってきた徳川御三家の居城 (2023/05/14 訪問)

「最強の城」という番組で、取り上げられたということを記念して、久しぶりに水戸城に向かいました。
JR水戸駅北口からまず水戸市立博物館へ
こちらでは、水戸城の全体模型をはじめ水戸城に関する資料も展示され、見応えたっぷりです。常設展は入場無料かつ写真撮影も可能という素晴らしい博物館でした!!
市立博物館から三の丸へ
旧茨城県庁前に、水戸城の巨大な空堀があります。空堀の土橋の端には、奇麗なバラの花が出迎えてくれました。
旧県庁舎の裏手から弘道館公園の北側に移動。
弘道館の北側にも空堀と土塁が残っています。土塁沿いに進み、大手門前へ、大手門は、新築の時に比べだいぶ黒くなってきており、風格が増してきていました!!
大手門をくぐり、二の丸へ。角櫓の通路も以前より綺麗に整備されていました。
角櫓では、水戸城の城門の門扉が展示されており、水戸城のパンフレットが置いてあります。
二の丸の北東側には、杉山門、南東側には、柵町坂下門も景観復元されています。
二の丸から本丸へ。幸運にも水郡線が空堀を通過する様子を見ることができました。列車と比べることで、より堀の深さのヤバさを感じることができました。
本城橋を渡り本丸へ。本丸は現在、水戸第一高校の敷地になっていますが、薬医門の見学の場合は、薬医門周辺の敷地に入ることができます。薬医門は、水戸城で唯一現存している建造物で、かなり重厚な門です。
本丸から本城橋を戻り、柵町坂下門を抜けて、JR水郡線沿いの道を通り、水戸駅に戻る途中に、水戸黄門生誕の地の碑があり、そこには水戸城御三階櫓が銅像化されていました!!

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にのまる

☆*: .。. o(≧▽≦)o .。.:*☆ (2023/04/05 訪問)

18きっぷ(4回目)で行きました。
中央本線長坂駅から北杜市民バスで旧JA大泉支店前下車です。
早朝5時半に家を出てから4時間の長旅。北杜市考古資料館はあいにく休館日でしたが、登城口(大手虎口)で満開の桜と大きな空堀に迎えられ気分上々↑↑です。

園路入口の案内に従って進みました。北斜面から東斜面にかけて帯曲輪と長大な空堀があり、さらに進むと竪堀が出現。搦手にも城外へ続く堀があります。
落ちていた(!?)説明板には「堀…堀…堀…また堀…そして堀……さらに堀」(意訳)とあり、堀造りに特化した城であったようです。これらの堀は防御のためというより兵を隠しながら移動させる通路だったと考えられているそうで、現在はかなり埋まっていますが、搦手の斜面の痕跡を見上げると往時の姿が浮かんできて、城兵の気分になってきます。
搦手から一旦外に出て西の出丸跡へ行きました。「城南」と「町屋」の境界標のあるこの道路も堀跡だったようで六郭、大手口へとつながっています。

搦手から再度戻って西帯郭へ。説明板に、現在二段に見える帯郭の上段がかつては二段構えで下段外側には土塁があったとあります。のちの時代に均されてしまったのは堅城ゆえの不便さからだろうかと考えると、遺構がないのはそれだけスゴイお城だったのかもしれないと想像でき、空想をめぐらすのが楽しくなってきます。

続いても帯郭。北側の四郭には食違い虎口がありますが土塁は低く防御性は感じられません。この四郭と南の五郭は縄張り図で見ると大きさや形状、配置がよく似ています。平時でも戦時でも、その場の状況に応じてフレキシブルに使える空間だったのではないかと想像してみました。
帯郭南側の二郭と三郭は土塁の内側に堀がつくられています。堀は土塁の外側が定石ですが、防御の役割をもつ帯郭が何重にも造成されているので、兵の移動のための通路を内側に掘って土塁を築く方が有効だと考えたのではないかと思いました。虎口付近のみ薬研堀なのは、せめてここぐらい何か仕掛けをつくろうよと誰かが言ったのか、実は箱堀だとバレないようにしたのか……な?

一郭は虎口が二か所。段差のある土塁が特徴です。三郭から一郭にかけての斜面は階段状だったそうですが、三郭の外側は西帯郭。一郭防衛の本気度が伝わってきます。
二郭・三郭の南虎口はスロープ状の堀に食違い虎口が設けられており、まっすぐ入らせないための仕掛けだということは一目瞭然なのですが、それだけではなく虎口から堀への出入りを迅速にするためのくふうでもあるとありました。シミュレーションしてみるとホントにすっと降りられて、辣腕設計者による一貫したテーマをもったデザイナー物件のすごさに最後まで感動させられ、気づけば3時間くらい滞在していました。

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チェブ

白い建物に白い石碑。 (2023/05/06 訪問)

鎌倉時代、宇都宮 泰貞さんが築いた「戸祭城」。

『とちぎテレビ』方面から侵攻すると、見つけにくいかもしれません。
住宅地の細い道に『十九夜堂』がありますが、お堂と言うよりも会館や集会場のような白い建物でした。
その白い建物の右手に、白い「戸祭中城跡」の石碑があります。
近くのお宅に立派な門があり、そちらばかり気にしていたら見逃しました。

戸祭とは、「宇都宮城」の西北の入口を祀ったと、ありました。土地を祭る、から名付けられたともあります。
白い「戸祭城」の石碑、右カーブの手前ですよ。

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赤い城

瞬殺御礼

朝田さん、瞬殺ありがとうございます!
ペリー来航の地ですね。
浦賀城眼下の港に黒船がやってきたとのこと。
また、勝海舟が断食を行った場所でもあります。

戦国時代には北条氏が里見氏に備えた城ですね。
本当に房総半島が目と鼻の先に見えます。

一応V字もあったので写真あげます。
Vと言うよりはUのような気もしますが。

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カズサン

日本城郭協会大賞受賞の幟旗がゆらゆら❣ (2023/05/16 訪問)

 久野城の本丸東面の樹木伐採その後の進捗確認に出かけ、駐車場には自衛隊の車が2台駐っており珍しいので隊員の方と若干会話し埼玉の朝霞?との事、車は輸送隊とか訓練で久野城に登ってるとの事、トイレ横のパンフレットを1枚頂き、即探訪へ、その時は気が付かなかったのですが、北から東、本丸へ、自衛隊の方が図上訓練中、二の丸、遠見、南の丸、西の丸と1巡して西の丸入口で「久野城址保存会・日本城郭協会大賞受賞」の幟旗が他の幟と一緒に風に揺られてる。
 ハッと気付き、城びとの【お城TOPICS】の記事で今年2023年第2回日本城郭協会大賞受賞を久野城址保存会が受けたと4月6日の発表、を思い出しました、駐車場のトイレ横の案内板傍に「久野城址保存会・日本城郭協会大賞受賞」の幟旗が揺れてるではありませんか、目的に向かってると周りが見えて無い時が有るのですね。
 久野城址保存会の皆さんおめでとうございます。お陰で探訪が楽しくさせて頂けます、ありがとうございます。

 【久野城址保存会のあゆみ】は駐車場トイレの側面に掲示されていますが、昭和52年11月発足、昭和54年10月久野城址袋井市指定史跡に認定、以後45周年の歩みです。
 久野城址も史跡に認定されたころは遺構が見やすく景観抜群でしたが長年の経過で樹木が育ち鬱蒼としてる所が多くなりました、昨年と今年で本丸の西と東の樹木伐採景観整備されましたが、まだまだ残っており且つ年数が経過すると樹木が茂りとのおいかっけこ、北側東側の本丸下段の裾野辺りの竹やぶ灌木の景観整備をお願いしたい、保存会発足当時の景観を一度見て見たい❣
 兎に角ありがとうございます。
 

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トク

㊴【関ケ原の26人】(17)本多忠勝 (本多忠勝と桑名城) (2022/12/01 訪問)

(17人目)「本多忠勝」の続きです。
関ケ原当時の居城は「大多喜城」でしたが、今回は関ケ原後の居城「桑名城」を訪れてきました。

本多忠勝は関ケ原の戦効で、従来の大多喜5万石に加え新たに桑名10万石が与えられ、1601年に長男の忠政とともに桑名城に入ります。そこで忠政に家督を譲りここで隠居しました(大多喜5万石は次男の忠朝が継ぎます)。そして4重6階の天守と51基の櫓が立ち、城下町もこの時整備され、桑名は城下町・宿場町として繁栄したそうです。

現在の桑名城跡は九華公園として整備され、市民の憩いの場となっていました(写真③④⑤)。桑名駅から長島温泉方面行のバスに乗り7分、九華公園入口に着くと、本多忠勝の像が出迎えてくれます(写真①②:忠勝様~! 迫力満点です)。天守は1701年に焼失、他の櫓も明治時代に焼き払われたため残っていませんが、唯一城の北側(三の丸)に、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が再現されていました。蟠龍とはすわっている龍の事で、航海の安全を願うという意味があるそうです。ここには、東海道「七里の渡し」があるので、その監視と安全を願って建てられたものと思われます。(写真⑥⑦⑧⑨)

桑名に入って隠居した忠勝は、関ケ原から10年後の1610年に享年63才で没したそうです。家康を守り抜く事に40年間命をかけた忠勝ですが、結局最後は家康より6年早く死んでしまいました。これも何か皮肉なものです。今の「どうする家康」の雰囲気からは想像がつきません🤔。

私はこの蟠龍櫓に立ち、七里の渡し(揖斐川・木曾川)を眺めてみました(写真⑩)。晩年をここ桑名で過ごした忠勝は、桑名城天守から同じようにこの景色を眺め、どのような思いで家康を守り抜いた40年間を振り返っていたのでしょうか? 自分が命をかけて守り抜いた男が天下を取ったのを見届け、きっと自分の人生に満足していたのではないでしょうか?・・・


ここ桑名城は「千姫」ゆかりの地でもあります。
次は話が関ケ原からちょっとそれますが、余談(千姫物語)へ続きます。
 

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美夢

【かるた】武田氏館の読み札

信玄公 武田氏館の 主祭神

味噌曲輪 武田氏館の 食糧庫

三葉の松に 金運 武田氏館


読み札のみの投稿です
一句目
武田神社では神として祀られている信玄公を詠んでみました


二句目
いつも食欲全開で旅をしています
変わった名前の曲輪に、ついつい目がいってしまいました(笑)

三句目
武田神社の珍しい、三葉の松は縁起物でもあり
黄金色に成る事から金運の御守りでもあります

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イオ

【かるた】一乗谷城の読み札

朝倉の 栄華伝える 一乗谷城

朝倉氏の五代にわたる栄華がそのまま地中に遺されていた一乗谷。山城のみで山麓の居館や城下町はまだちゃんと行けずにいますので、読み札のみで。


…ということで、登城済みの30/100城をひと通り投稿してみました。それにしても、かるた投稿のため写真を見返したりしていると、登城時の記憶がよみがえってきて再訪したくなりますね。100名城かるたも、遊んでいて(一人で眺めているだけでも)行ってみたくなるような良き品になりますことを。

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todo94

奥山荘城館遺跡 (2023/04/15 訪問)

既に「行った」をポチってしまっていましたが、山頂にはたどり着けていませんでした。今回、関澤神社から登城して、朝田辰兵衛さん投稿の「、」のない城の字の木板にたどり着くことができたので、本懐を遂げた思いでいっぱいです。

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織田晃司

駐車場は争奪戦 (2023/05/04 訪問)

コンパクトながら見ごたえのある城です。
登城口からの本丸の石垣の反対側にも石垣があります。見落としの無いように…
本丸から富士がきれいに見えます。

尚、登城口脇の駐車場は釣り客との争奪戦となります。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:高山城 (2023/04/23 訪問)

大富館(城びと未登録 岐阜県土岐市)からの転戦です。三の曲輪駐車場(35.355950、137.193664)に駐車し、大手登城口(35.356823、137.193895)に向かいました。

土岐高山城は遠山十八支城のひとつに数えられている城です。
1556年(弘治2年)、高山伊賀守光俊が亡くなると、武田信玄の命を受けた平井光行が高山へ兵を進め城主となりましたが、その子の平井頼母は織田信長に属しました。
そのため、1574年(天正2年)に武田勝頼によって攻められ落城しました。
その後は岩村城主・田丸直昌の支城となりましたが、「関ケ原の合戦」にて西軍方となり、東軍の妻木勢によって攻められ落城しています。
1615年(元和元年)の一国一城令により廃城となったようです。

三の曲輪手前に堀切跡の石碑(堀切は見当たらない)があり、三の曲輪駐車場、その奥が一の曲輪、二の曲輪。説明や展望台等整備されています。
三の曲輪を過ぎた所に、何やら「山の神」という看板が付いた岩がありましたが、謂れはよくわかりません。
一の曲輪手前の城門の横には石碑があります。
遺構らしきものは曲輪以外ありませんが、模擬物見台(桔梗櫓)と城門はそれなりです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=根本城を目指します。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:大富館(城びと未登録 岐阜県土岐市) (2023/04/23 訪問)

荒井城(城びと未登録 長野県松本市)から転戦。石碑前(35.365685、137.190830)路駐しました。

築上年代は定かではないようですが、源頼光の子頼国が大富に住み、後に美濃守護職となる土岐氏の源流となったようです。
南北朝時代に土岐頼貞が美濃守護職に任ぜら、以降約200年に渡って土岐氏が美濃の守護職を継承したそうです。

遺構はありません。小公園の一角に石碑がたっているだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高山城を目指します。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:荒井城(城びと未登録 長野県松本市) (2023/04/23 訪問)

渚城(城びと未登録 長野県松本市)から転戦。説明板付近(36.230916、137.950399)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 1489年(延徳元年)に小笠原氏一族の島立右近太夫貞永が修築して居城としたそうです。
島立右近は永正年間(1504年〜1521年)に小笠原氏の命によって深志城を築いて移りましたが、1523年(大永3年)に右近の孫の島立貞知のとき再びこの荒井城へ移ったそうです。
1550年(天文19年)武田氏の侵攻によって攻め落とされました。

宅地化などによって遺構は失われたようで、現在は土塁と思われる土盛りの上に社が祀られ、そこに説明板が設置されているだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大富館(城びと未登録 岐阜県土岐市)に向かう前に、一旦ホテルに戻り朝食をとりました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:渚城(城びと未登録 長野県松本市) (2023/04/23 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に歩いて、常徳寺説明板付近(36.231237、137.957452)に着きました。

応永年間(1394年~1428年)に小笠原長秀によって築かれました。
長秀は、信濃守護に補されたが国人に対して守護の権力強化を図ったため、国人達の反発を買い、1400年(応永7年)の大塔合戦へと発展、この合戦に大敗した結果、長秀は守護職を解かれ、1405年(応永12年)に家督を弟政康に譲ります。長秀は、合戦の敗北後に渚城(居館)を築いたと伝えられています。

渚城は、現在の常徳寺・内城公民館等の敷地を中心として、約百間四方の規模があったと推定されているそうです。
城の遺構などは何も残っていませんが、常徳寺の山門脇に城跡碑が立てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=荒井城(城びと未登録 長野県松本市)を目指します。

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じゅんじん

碑がありました (2023/05/05 訪問)

水道施設脇です。

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じゅんじん

中学校 (2023/05/05 訪問)

運動場下に説明板がありました。その後三増古戦場に行きました。信玄旗立松はよい眺めでした。

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美夢

【かるた】盛岡城の読み札

虎を飼う 南部家居城 盛岡城

盛岡城 菊と牡丹の 虎二匹

文豪の 碑めぐり学ぶ 盛岡城


読み札のみの投稿です
一句目&二句目
盛岡城では乱菊丸と牡丹丸という虎を二匹飼っていました
甲斐の虎は人ですが、盛岡城の虎はリアルなタイガー
この特徴を詠んでみたいと思いました


三句目
宮沢賢治、石川啄木、新渡戸稲造
文人達の石碑があり、歴史だけでなく
文学も学ぶ事が出来るという側面を詠んでみました

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にのまる

おめでとうございます🎊

赤い城さん、神奈川県制覇おめでとうございます🍾

神奈川県ではないですが、おすすめくださっている久米城にはぜひ行ってみたいです。昨日今日の暑さだとそろそろ山城オフシーズンかなぁとも思いますが…。

お祝いに殿潤をどうぞ😄

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カズサン

悠久の歴史が重層する長者屋敷遺跡 (2023/05/16 訪問)

 久野城の帰りに自宅へ経路途中にある、長者屋敷遺跡に寄ってみました。
 駐車場は長者屋敷遺跡の入り口に駐車可能です、3~4台は可能。

 長者屋敷遺跡は案内解説板によると、奈良時代初め頃(約1300年前)の官衙のような遺跡である事が、昭和44年の発掘調査で判明、方形構造で東西約100m、南北約80m、土塁が廻り内に堀が廻っている、南の虎口側には二重土塁は構える。
 長者屋敷遺跡周辺には銚子塚古墳、小銚子塚古墳が約200程北西に在り(約1600年前)、更に米塚古墳群が約800m北に在り(約1500年前)、また米塚古墳群の周辺の南と東に寺谷遺跡旧石器時代(1万5千年前、縄文時代に掛かる)、道東遺跡旧石器時代(2万8千年前)と歴史遺跡重層しています。
 天竜川の東側の河岸段丘磐田台地は天竜川とのつながりがあったのでしょうか?現在は一面茶畑に成っています、地質は砂利土です。
 
 案内解説板が3面あり写真掲載します、5月に半ばですが草は伸び人踏道は歩けますがやや茂って来ました。2年振りのちょい寄り探訪です。
 

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ぴーかる

日下津城 (2023/04/08 訪問)

【日下津城】
<駐車場他>登城口<34.605434, 132.729271>に1台程度停めれそうですが、転回が厳しそう。<34.606033, 132.733414>に車1台入れそうな箇所があるのでそこに停めました。
<交通手段>車

<見所>竪堀群・堀切・主郭石段・土橋
<感想>第2弾安芸高田・北広島の山城攻めの旅2城目。初投稿いただきます。日下津城は南北朝時代の1350年に毛利親衡によって築城されたとされます。当時は坂城という名称だったようで、その後毛利親衡の次男匡時(まさとき)が坂氏を名乗りこの地に土着しました。坂氏は親大内派だったようで1522年大内氏から離脱した毛利元就によって落城させられます。1524年坂氏は毛利元就が宗家を継いだことに不満を持ち毛利元就の異母弟の相合元綱を擁して家督相続に介入しますが逆に元就によって誅殺させられます。その後は日下津城は元就の執権志道氏の管轄になったようで、坂氏はのちに帰参して毛利家家臣として別家を立てます。
 初投稿なので詳細に。登城口は上記ポイントから奥に進み、山全体に獣柵があるので墓地への入口ゲート「開けたら閉める」の赤い札がある場所が開閉が楽なのでそこから入ります。左手に進み、後世?の石垣のある段を突っ切って山に入ると案内版があります。本丸へのルートと物見の段へ至るルートと2通りありますのでお好きな方を進んで選ばなかった方から下山すると1周できます。
 私は物見の段のルートから1周しましたが逆回りみたいになるので説明は本丸ルートから。本丸ルートは道が無いので沢を左手、右手を城跡の山を指針に緩やかに右回りに登って行くと畝状竪堀群が見えてきます。尾根上の道のある所まで登って右手が大手虎口、左手南側が堡塁・曲輪があり、先に土橋があります。土橋の先の谷には後世のものかは分かりませんが土留めの石垣があります。大手虎口に戻り、右手の谷側の3条ある連続竪堀群を進み井戸跡の帯曲輪、上の段が案内板「曲輪2」になります。主郭へは西方向へ回り込んで西下段の曲輪から入ります。主郭へ登る石段遺構があります。主郭は山頂部を水平に切り取ったようなまんまの地形で周囲の切岸が急峻で高いので迫力があります。主郭から西方向に4段舌状連郭があり、最西に箱堀の堀切があって物見の段の曲輪があります。この辺りの地形も見応えがあります。物見曲輪の北側は帯曲輪のようになっていますが、土居があるので私は埋まってしまった横堀ではないかと判断しました。物見曲輪の西側は竪堀と堀切になっています。下山ルートにも2条竪堀があります。
 山は植林整備されて迫力ある遺構が明瞭に残されており見応えがあります。未投稿だったのが不思議、1番槍で得をしました。

<満足度>◆◆◆

<グルメ>日下津城近くの「ラーメン長州」のとんかつラーメンをお勧め。とんかつONラーメンってミスマッチなような感じがしますが、中国地方では割合メジャーだとか。とんかつがカリッカリに揚げているので半分までとんかつとして、残り半分はスープが染みて衣旨し。メニューに無いですが、チャーハンのセットに出来ます。私、今回2回目リピーター。

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