(21人目)「徳川家康」の続きです。
関ケ原二番目の陣(桃配山)を訪れてきました。
美濃赤坂の陣で野戦を仕掛けようとした家康ですが、島左近の不意打ちにあい、ここで戦をするは不利と判断、深夜に前日に調略され寝返っている南宮山麓の吉川広家の陣の前を悠々と行軍し夜明け前に関ケ原へ到着、桃配山に陣を敷きます。(写真①②)
ここ桃配山は(672年)壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)が陣を敷き、もらった桃を皆に配り、それで兵の士気が上がり勝利したという縁起のいい場所だったため、ここに陣を敷いたと言われています。
私はレンタルしたチャリで関ケ原駅からここまで20分かけてこぎました。ちょうど桃配山の登り口は工事中だったのでどこに止めようか迷っていたら、下のガソリンスタンドの店員さんが「店に止めていいよ!」と気軽に声をかけて下さいました(ありがとうございます)。
そのチャリをこいでいる途中で気づいたのですが(おそらく車だとわからない)、関ケ原の地形は平坦かと思っていましたが、西から東に向かってゆるやかに傾斜していました。つまり桃配山へは下り、また関ケ原中心部へ戻る時は上りでした(三成陣がある笹尾山と決戦地はさらに上り)。という事は家康にとっては攻めにくく三成にとっては守りやすい地形。そこまで三成は考えていたのでしょうか?
私は桃配山に立ち関ケ原を眺めてみました。家康は写真②の石に座り、写真③④の景色を見ていたと思われます。はるか向こうに黒田長政の陣(岡山)が小さく見えました。その左の少し隠れている所に石田三成の陣(笹尾山)があります。長政と三成の隊があのあたりで激突し、激戦が行われました。最初は一進一退が繰り返され、膠着状態だったようです。家康はここからその報告を受けるもよく見えません(確かによく見えない🤔)。 その南側(写真左側)の宇喜多・小西・島津・大谷らと対峙している、井伊・本多・藤堂・福島と心配な小早川の軍勢はさらに見えません。池田輝政や山内一豊が背後を守るも、その吉川広家が弁当?を食べていてくれたおかげで、毛利秀元も南宮山から下りてくる気配はありません。
状況がわからずイライラするも、背後から攻められる心配はないと確信した家康は、こう叫びます!
「いざ陣を前へ!」
もっと前に出て陣頭指揮をとる事を決意したのでした。
次は(家康最後の陣跡)へ続きます。
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