お待ちかねの鶴ヶ城(会津若松城)、、いや、ちょっと待って。その前に1箇所。小田山史跡。途中までは車で上がり、そこからは徒歩。地元のタクシー運転手さんは「初めて来ました」とのことで、ちょっと意外。重要な眺望が待っています。お時間あればぜひ。
悲劇の城のイメージはこの古写真に由来するところが大きいと思われます。会津戦争(1868)による甚大な被害とその後の荒廃を伝えています。
その名も轟くアームストロング砲。西軍はここ小田山の中腹から数千発もの野戦砲を打ち込んだといいます。直線距離にして2キロ弱。たしかによく見えます。高低差を利用した砲撃は、天守はじめ城内の建物に甚大な被害を与えました。
ちょっと脱線。遡ること200年あまり。この立地を嫌い、新城築城に動いた人物がいます。上杉家家宰・直江兼続。関ヶ原の煽りで「幻」に終わったプラン。それは別の機会に。
さて、この総攻撃で会津方は1ヶ月の籠城空しく降伏。いや、むしろ1ヶ月も持ち堪えたと言うべきでしょうか。いずれにせよ、築城史のターニングポイントがここにありそうです。つまり、とびっきりの飛び道具の前では天守や櫓といった高さのある構造物は無駄に標的になり、築材の破片などが飛散することでかえって悲惨な目に合うということ。となると、残された道は「土造り」への回帰。決戦の地、北海道・五稜郭が良い例かもしれません。
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