芝村陣屋は織田長益の四男長政が元和元年(1615)に1万石を分知され陣屋を構えたのが始まりと
されています。
今は桜井市立織田小学校の敷地となっていますが、学校の周囲を囲む壁として
石垣が活用されているようです。
西側へ数百mほど行った先の慶田寺の山門として
陣屋南門が移築されているようです。
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2023/07/26 21:23
2023/07/26 21:06
コンパクトだけど土塁と堀切がしっかり残る。 (2023/07/15 訪問)
桜町中将城は織田信長次男、織田信雄によって築かれたと伝わります。
信雄の官位のひとつに左近衛権中将というものがあるので
これが城名の由来でしょうか。
城としてはコンパクトで陣城のような感じですね。
主郭を土塁で囲み南側に虎口を設け
北東西を深い堀切で囲ってあります。
南側にも郭が設けてあるようですが、多数の兵員は
北西の滝川雄利が守る滝川氏城に駐屯させていたのではないでしょうか。
民家のわき道を登って行った先にこの城があるのですが
はたから見ているとこんな城が雑木林の中にあるなんて
ちょっと思いつかないでしょう。
そういえば北側にあった標識に桜町中将城(雑木林)と書いてあったような
気がしますが、この城の登城方法としては南側から
民家のわき道を抜けてはいっていっくのが正解な気がします。
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2023/07/26 20:35
伊賀最大の単郭城郭はまさにグラウンド。 (2023/07/15 訪問)
滝川氏城は滝川三郎兵衛(雄利)によって築かれたと伝わります。
縄張りは余湖くんのお城のページから参考にさせていただきました。
縄張り通り周囲を高い土塁で囲まれていて
南側と西側には堀切があります。
馬出しは果樹園になっているようなので、誤解をさけるため
土塁は確認していません。
主郭はとにかく広く、平方形をしていて、まるでグラウンドのようです。
北東にネットがあるので球場としても使われているようですね。
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2023/07/26 20:13
小ぶりだが造りはしっかりしている服部半蔵のオヤジの城。 (2023/07/15 訪問)
千賀地氏城は服部氏族の一つ千賀地氏の城と伝わります。
石碑を見ると、あの服部半蔵ともかかわりがあるようですね。
基本的に主郭しかありませんが、小規模な割には造りがしっかりしています。
主郭の周囲を土塁で囲み北側の土塁は厚く物見も兼ていたものと思われます。
その北側は堀切で遮断、西の尾根上にも堀切が続いて西側から
攻めてくる敵を遮断しています。
服部半蔵正成の父、服部保長は当地に移り住んだ際に千賀地氏を名乗ったと
wikiには出ています。
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2023/07/26 19:25
伊賀上野城 おまけ (2023/07/15 訪問)
伊賀上野城の投稿では石垣が主体だったので
今回のおまけの投稿では木造模擬天守を主体に紹介させていただきます。
外観は三重天守、内部構造も三階ですがその分、天井が高いです。
模擬天守として十分な大きさがあるのですが
実際に外からながめてみると、五重の天守も見てみたかったな‥
と思ったりするのですが、ガイドさんが地元の篤志家が資材を投げうって‥みたいな
話を一生懸命してくれるのを聞いていると、これはこれで有りがたく
拝見させていただくか‥ といった気持にさせられます。
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2023/07/26 19:07
秀頼を 睨む上野の 高石垣 ・かるたの読み札 (2023/07/15 訪問)
短歌も一つ
忍びとは 生きて上野の 草となり 死して上野の 土になりけり
‥文法あってますかね。
上野城はもともとは伊賀国人衆の軍事的な拠点であった平楽寺が前身で
あの藤堂高虎が石垣を築いたことで有名な城です。
大阪の豊臣家を抑えるために築かれていたのですが
先に大阪夏の陣で豊臣家が滅んでしまったので、工事が中断し
城代屋敷が置かれたそうです。つまり未完の城なんですね。
今回、初めて下の方へ回って高石垣を見てみたのですが
樹木がうっそうとしすぎて、ちょっと残念な感じです。
石垣もいろいろ草が生えてきているのですが、遺構を傷つけないか
心配になります。
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2023/07/26 18:13
2023/07/26 18:01
2023/07/26 17:42
2023/07/26 17:26
2023/07/26 08:56
幻のお城です (2023/07/25 訪問)
今は、明治や昭和の改修工事だ、渡良瀬川の底に、沈んでしまった幻のお城です。
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2023/07/26 08:17
筑土八幡神社 (2023/06/09 訪問)
戦国期に上杉氏が築いたと伝わり、現在の筑土八幡神社が城跡とされますが、遺構は消滅しており、詳細は不明です。
JR飯田橋駅西口から神楽坂~三年坂を経て筑土八幡町の交差点へ。見上げるほどの石段の上が筑土八幡神社で、武蔵野台地の突端にあたる位置関係にお城っぽさを感じますが、築土城としての石碑も説明板もなく、筑土八幡神社由来にも上杉朝興が社壇を修飾した旨の記述はあるものの、城に関する内容は見られません。
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2023/07/26 07:14
2巡目の続日本100名城のスタンプラリー67城目 (2023/06/24 訪問)
6月25日の東京での研修に大人の休日俱楽部パスを利用することを思いつき、金曜日に上京、前泊して、土曜日の始発の東北新幹線で二戸駅に降り立ちました。本丸はまだ整備途上のようでしたが、二の丸はきれいな公園として整備されていました。安養寺が松の丸だと思っていたのですが、その奥に松の丸公園があり、深い空堀に囲まれていることを確認できたのは大きな収穫でした。
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2023/07/25 23:58
57【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と大坂城) (2022/07/20 訪問)
(22人目)「毛利輝元」の続きです。
輝元が関ケ原直前に入った「大坂城」を訪れてきました。
三成から要請を受けた輝元は、1600年7月17日西軍総大将として大坂城へ入ります。
9月15日関ケ原で敗戦が決した時、毛利輝元と毛利本隊はまだ大坂城に残っていました。そして南宮山にいた子の毛利秀元の軍とともに無傷でした。これに大坂に戻った立花宗茂・毛利元康・長宗我部盛親の軍勢を合わせれば総勢約6~8万、東軍とまだ互角の大軍勢とそれに何といっても大坂城には豊臣秀頼がいました。もし、このまま籠城し、再度決戦したらどうなっていたでしょうか? 東軍はほとんどが豊臣恩顧の大名、よって秀頼に弓を引く事はできません。さすれば勝機もあったかも? いや少なくとも有利な条件で和睦には持ち込めたはずです。
この時、本多忠勝と井伊直政が「輝元の本領は安堵する」書かれた家康の起請文を持ってきます。それを見た輝元は安易にそれを信じ、大坂城で再度決戦を叫ぶこれらの諸将を抑え何と広島に戻ってしまいました。
すると家康はそぐにその起請文を反故(ほご)にし、毛利120万石を召し上げ、周防長門36万石を吉川広家に与えようとします。家康にだまされたと気づいた広家はこれに驚き、自分に代わり周防長門は輝元に与え毛利家を存続させてほしいと嘆願、家康はそれを受け入れました。そして最終的に輝元は何も抵抗せずこの36万石への大減封を受け入れてしまいました。それはいったいなぜだったのでしょうか? これには諸説がありますが、真相はいまだ謎のままです。
私は大坂城の天守に立ち考えてみました(写真⑤)。家康には豊臣恩顧の大名が多く加わりました。それに比べ、自分には重臣であるはずの毛利の両川(吉川広家・小早川秀秋)からも裏切られてしまいました。本当はこの求心力の違いに、失望してしまっていたのではないでしょうか?・・・
次は、関ケ原後の居城「萩城」へ続きます。
【余談】大阪と串かつ
夜の道頓堀に出て見ました。しかしなぜか居酒屋という看板が見当たりません(おや🤔?)。不思議に思いましたが、よく見ると大阪ではどうも「串かつ屋=居酒屋」なのかもしれません。右も左も串かつ屋の看板だらけでした。そこである有名な串かつ屋に入ってみました。「二度付け禁止!」の人形がとてもおもしろかったです😊(写真⑨⑩)。
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2023/07/25 23:27
映画「忍びの国」で有名になった城。 (2023/07/15 訪問)
かつて伊賀の国人衆が織田信雄の築城途中の丸山城を攻めたことが天正伊賀の乱の
発端となり、織田信長の伊賀平定のきっかけとなりました。
最近では「忍びの国」という嵐の大野くん主演の映画にも出てきましたね。
北からも登城できるようなのですが、南からのルートが一番安全そうなので
南から攻めました。その際、近くにある公民館の駐車所を使用させていただいています。
南口から入ってすぐに、小さな神社のある郭のような場所があり、ここから北上すると
すぐに主郭にたどり着きます。主郭の中心は天守台になっているらしく
大きな城址碑が建っているのですが、ひどいヤブでまったく周囲の状況が判別できません。
足元も定かでなく危ないので、尾根上の郭を通過しながら西の下山口を目指します。
途中、堀切や土塁の遺構を目にしたのですが、それほど大きなものでもないようです。
西の丸の端が給水施設になっているようで、そこから道沿いに下山していきます。
下山途中、いくつか兵を駐屯できそうな扁平地がありました。
主郭部以外はそれほどヤブ化しておらず歩きやすいのですが
肝心の主郭があの状態なのは残念な所です。
自治体が草刈りをしてくれると助かるのですが‥
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2023/07/25 22:42
季節が良ければ最高の気分で散策できる城。 (2023/07/15 訪問)
采女城は三重郡地頭職、後藤氏の城で、後藤采女正藤勝の時に織田信長の軍勢に
攻められ城主は討死、千奈美姫も井戸に身投げして父の後を追ったと伝わります‥
そんな可哀そうな伝説の残る采女城ですが
整備の良く行き届いている、素晴らしい山城(平山城)で、各郭の間は堀切で仕切られ
各郭には土塁が残っています。
季節が良ければ散策していて最高の気分を味わえるのですが、今回訪問したのが7月半ば
しかも記録的な猛暑とあって、なかなかきっつい‥
主郭を中心に各郭が配置してあって、南東に八郭、北側に二郭と三郭と続き
それぞれの郭はかなり大きな堀切で仕切られていますが
木橋がかけられていたりして移動にはそれほど苦労しません。
三の郭から四郭に移動できるのですが、その道中の北側には土塁が配されています。
主郭に戻って南西部の五郭に向かいますが周囲にロープが張ってあって
立ち入りを制限しています。
その中に入り込んで南西に向かえば六郭、七郭に至るはずなのですが
今回は五の郭までで探索を終了しました。
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2023/07/25 22:01
主郭部の鵜森神社の周辺に土塁が残る (2023/07/15 訪問)
浜田城は現在、鵜の森公園となっていて、東側にある鵜森神社の周辺には
土塁が残っていて冠木門が備え付けてあります。
南側にある池はかつての堀の名残で、南西部には茶室・泗翠庵
北西部には土塁のような土盛があります。
かつては、田原忠秀によって築かれ、二代 田原元綱の時に、織田信長家臣
滝川一益によって攻められ、浜田城は落城、元綱は討死し
その息子の重綱は生き延び、織田信雄に仕えましたが
小牧・長久手の戦いで討死して田原家は滅んだとされます。
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2023/07/25 21:33
線路越しに土盛と看板が見える。 (2023/07/15 訪問)
久々の登録になります。先日、奈良、大阪など4日間の近畿遠征をしてきたのですが
予想外の猛暑で、奈良、三重の山城めぐりと大阪城を2時間ほど散策したのとで
体力をかなり削りました。
後半は大阪市街のポチ城(すぐに回れて、簡単にポチれるのでポチ城)が多かったので
なんとか乗り切れましたが、この時期の山城めぐりはちょっと厳しいですね。
茂福城は線路の南側に土塁らしき土盛が残り城址碑や石碑が立っています。
この部分は主郭の北西角にあたり、中心部は宅地になっているようです。
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2023/07/25 08:28
とことん江戸城(JR飯田橋駅) (2023/06/09 訪問)
この日は日帰り出張。雨予報でもあり、前週(6月2日)のような豪雨で新幹線が遅れても困るので、1時間ほど早めに家を出たら定刻通りに着いてしまい、その分、飯田橋駅周辺を散策しました。
前回、牛込門を訪れたのは早朝で、開館時間前だったためJR飯田橋駅西口の史跡展望テラスには上がれず、総武線ホームにある外堀の堰の説明板なども未確認でしたので、今回はその辺を見てやろうとJR飯田橋駅に降り立つと、目の前にそびえる牛込門枡形の石垣! 地上から見ても大きく感じましたが、外堀跡を走る総武線のホームから見ると倍以上の高さがあります。飯田橋駅なんてこれまでに数え切れないくらい通過しているはずなんですが…意識していないと気付かないものですね。ホームの北側からは北隅の枡形石垣の下部分も覗いています。また、ホームの移設工事に伴う発掘調査では、牛込濠の水位を調整する堰の一部とされる石敷が確認されています。石敷はホームの下に埋め戻されていますが、ホームの舗装の色を変えて石敷の位置がわかるよう表示されています(説明板もあります)。
ホームから改札を出て、西口2階の史跡展望テラスへ。あいにくの雨で眺望はききませんでしたが、説明板と見比べながら牛込門を上から見ることで枡形の構造がよくわかるようになっています。また、北隅の枡形石垣からのびる土塁も上から眺められますが、まだ整備工事中のようでした。ただ、昨年よりは工事は進んでいる様子なので、いずれ開放されるのが楽しみです。
…と、前回に見学した西口1階駅前広場の江戸城外堀跡の解説コーナーとあわせて、JR飯田橋駅だけでもなかなか見どころがありますので、ちょっとした時間ができた方にはおすすめです。
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2023/07/25 07:06
リベンジその2 (2023/06/11 訪問)
目黒学院前の道は一度歩いたことはあるのですが、まさかここが目黒氏館だったとは。標柱なり説明板なり何らかの表示があればよかったのですが。学校の門扉の上の金色の飾りは槍先を模しているようにも感じられました。
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