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AJ

やっぱ土でしょ (2022/09/14 訪問)

お待ちかねの鶴ヶ城(会津若松城)、、いや、ちょっと待って。その前に1箇所。小田山史跡。途中までは車で上がり、そこからは徒歩。地元のタクシー運転手さんは「初めて来ました」とのことで、ちょっと意外。重要な眺望が待っています。お時間あればぜひ。

悲劇の城のイメージはこの古写真に由来するところが大きいと思われます。会津戦争(1868)による甚大な被害とその後の荒廃を伝えています。

その名も轟くアームストロング砲。西軍はここ小田山の中腹から数千発もの野戦砲を打ち込んだといいます。直線距離にして2キロ弱。たしかによく見えます。高低差を利用した砲撃は、天守はじめ城内の建物に甚大な被害を与えました。

ちょっと脱線。遡ること200年あまり。この立地を嫌い、新城築城に動いた人物がいます。上杉家家宰・直江兼続。関ヶ原の煽りで「幻」に終わったプラン。それは別の機会に。

さて、この総攻撃で会津方は1ヶ月の籠城空しく降伏。いや、むしろ1ヶ月も持ち堪えたと言うべきでしょうか。いずれにせよ、築城史のターニングポイントがここにありそうです。つまり、とびっきりの飛び道具の前では天守や櫓といった高さのある構造物は無駄に標的になり、築材の破片などが飛散することでかえって悲惨な目に合うということ。となると、残された道は「土造り」への回帰。決戦の地、北海道・五稜郭が良い例かもしれません。

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イオ

高野山散策 (2022/08/27 訪問)

5月には仕事ついでに高野山霊宝館の見学と、壇上伽藍から金剛峯寺まで歩きましたが、この日はその続きとして高野山をあちこち散策しました。8月も終わりだというのに下界は連日の猛暑だったこともあり、避暑を兼ねての訪問でしたが、さすがに標高900m近い山上だけあって半袖では肌寒いほどでした。

大門(重文)

高野山の総門にあたる巨大な楼門で、北側(大阪方面)から車で訪れた場合には最初に目にする高野山の建造物です。普段は脇を通り抜けるだけですが、南側に少し離れた駐車場に車を駐めて門の下に立ってみると、あまりの巨大さ壮麗さに改めて圧倒される思いでした。門の両脇に侍する金剛力士像も迫力があり、東大寺南大門の金剛力士像に次ぐ国内2番目の大きさなんだとか。

徳川家霊台(重文)

三代将軍・徳川家光が祖父・家康と父・秀忠の御霊を祀るために創建した霊屋で、同形の建物が左右に二つ並び、向かって右が家康霊屋、左が秀忠霊屋です。外観はそれぞれ細部に至るまで精緻な装飾が施され、内部は非公開ながら金銀蒔絵・極彩色飾金具で絢爛豪華に飾られているようです。

蓮華定院

鎌倉初期開創の寺院で、関ケ原の戦いの後、高野山に蟄居を命ぜられた真田昌幸・信繁父子が仮寓していたことで知られます(その後、九度山の真田庵へ)。大坂の陣の後には松代藩主となった真田信之と宿坊の契約を結び、真田家の高野山における菩提寺として六文銭と結び雁金を寺紋としています。寺内には昌幸が座したと伝わる上段の間(再建)や真田家墓所があり、信繁自筆の「焼酎所望状」や信之の「宿坊契約書」などが寺宝として伝えられていますが、宿坊の宿泊者以外は内部の見学はできないようなので、この日は周囲をひとめぐりしただけでした。近隣住民ではありますが、いつか泊まってみたいものです。

金剛三昧院

鎌倉初期に北条政子が源頼朝と実朝の菩提を弔うために建立した寺院で、中心地から少し離れた山腹にあるため、度重なる高野山の大火にも類焼することなく、創建時の姿を今に伝えています。この日は特別拝観として多宝塔(国宝)に安置されている快慶作と伝わる秘仏・五智如来坐像(重文)が公開されていました。また本坊では頼朝と政子の位牌、政子自筆の書状、北条義時・泰時の書状なども展示されていました(撮影不可)。昨年までならあまりピンとこなかったかもしれませんが、「鎌倉殿の13人」を毎週楽しみに観ている身にはなかなか感慨深いものがあります。その他、校倉造りの経蔵や四所明神社など重文指定の建造物や、本堂に祀られている運慶作で頼朝等身大の念持仏と伝わる愛染明王像など見どころ盛りだくさんのお寺です。

続いては、奥之院に向かいます。
 

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トク

祝!9/26 難攻不落!最強の城総選挙【第1位】!

加藤清正が築城した熊本城ですが、実際に戦が行われたのは、それから270年後の西南戦争の時ただ1度だけです。その時になぜ西郷隆盛が落とせなかったのか、それを「熊本城と西南戦争の遺跡を歩く(全6回)」で、私は実際に城とその周辺を歩き、ここが難攻不落と言われた由縁を調べ、投稿させていただきました。(合わせて熊本城の復興状況も)。それが何かほんの少しだけですが実を結んだというか、暑い中がんばって歩いた甲斐があったというか、そんな感じがしてとてもうれしかったです。(ただそれだけです。熊本城ファンの自分勝手なつぶやきです。申し訳ありませんでした.。皆さんもぜひ攻城して難攻不落ぶりを体験して下さい😊)。

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ぴーかる

三田城 (2022/09/11 訪問)

【三田城】
<駐車場他>旧九鬼家住宅資料館駐車場(裏手)またはコインP(SPARK)
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅2城目。三田城の築城は定かではなく諸説あります。江戸時代に入り志摩鳥羽藩(56000石)の九鬼家が家督騒動になりこの摂津三田藩(36000石)と丹波綾部藩(20000石)に分割される。摂津三田藩の初代藩主は九鬼久隆で九鬼守隆の五男、こちらが九鬼家の本家を継いだこととなったが陸地に追いやられ九鬼家水軍は無くなることとなる。九鬼家はそれぞれ藩主で維新まで存続します。
 資料館がまだ開館時間前だったのでコインPに駐車し藩校の外観→小学校前の石碑→有馬高校前の陣屋堀跡を撮影した。堀跡の土橋には少し石列がありました。堀の前に陣屋の縄張り図がありよく分かります。堀の一部しか残っていませんが少し雰囲気を味わえました。

今ちょうど私、白石一郎著「戦鬼たちの海」を読んでいて三田城はたまたまだったのですが、九鬼家の行く末がわかってしまいました。

<満足度>◆◇◇

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朝田 辰兵衛

搭乗便変更手続後,搭乗までの時間で。 (2022/09/19 訪問)

台風14号の影響により,搭乗便を変更すべく伊丹空港へ。無事に手続完了後,手ごろなお城を探したところ,池田城にたどり着きました。モノレールから阪急電車に乗り継いで池田駅へ。
周辺のショップは台風14号の接近で閉店時間を繰り上げ。池田城も例外ではなく,閉園時間を繰り上げてました。
怪しい風と雲で,櫓風展望休憩舎には立ち入りせず。風で倒壊したりして…などと考えてしまいました。

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モト

空堀、屈曲する虎口など見応えある遺構が見れます (2022/09/25 訪問)

密かな山城ブームな昨今ですが、ここはそこまで気張らなくても登れる程の山になります。
でも遺構は見応えある物ばっかりです。
駐車場もあります。
長徳寺の横にすぐ登城路があります。
登り始めて見える段々はどうやら細かい曲輪のようです。
しばらく竪堀を登って本丸を目指します。
途中確認できる屈曲する虎口や、見事な竪堀、土塁や土橋など見所がありすぎる遺構達です。
写真の枚数は限られてますが、その素晴らしい遺構をできる限りお伝えできればと思っております。
素晴らしさは、ぜひ一度行って確かめてみてください。
前にも書きましたが続々100名城があったら間違いなく選ばれるのではと思うくらいの素晴らしい城跡だと思います。

西方城跡シンポジウムに参加してまいりました!!
こういうシンポジウムへの参加はなかなかできなかったのですが、参加してみると面白いものですね。
特に興味を引いたのはやっぱり遺構の新しい発見などでした。
実は今回、シンポジウムの前に登城しましたが、参加してもう一回行きたくなってしまいました。
城跡へ今日も本気で行こうか迷っていた私でした。

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カズサン

南蛮造りの復興天守閣 (2004/08/13 訪問)

 岩国城の再建復興天守閣は元の天守台より、麓から観易いようにと南に50m程ずらして昭和37年建てられ、下階より張り出した南蛮造りと成って居ます、南蛮造り天守は小倉城、再建されれば高松城が有名所です。
 また錦川に架かる錦帯橋を入れて天守を撮るスポットが素晴らしい景観です。

 18年前の平成16年8月中旬鳥取盆帰省前に妻の希望を入れ、山口市湯田温泉一泊計画で、秋吉台、秋芳洞、萩城、松下村塾、津和野城城下町、瑠璃光寺五重塔、萩焼の物色と廻り旅の最終が岩国、錦帯橋、岩国城山頂の丸、麓のお土居陣屋跡、武家屋敷と訪ねました。

 写真はサブのデジカメに残っていた写真を投稿します。最後の方に8月12日訪れた秋吉台、萩城跡、津和野城城下町の寸景を各一枚投稿します。
 

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AJ

俗とサザエと信仰と (2022/09/14 訪問)

「現代人は忙しい」--。動画や録画したテレビドラマの2倍速再生は当たり前。お遍路だって車や自転車で巡っちゃう。しかしそんな“時短カルチャー”は今に始まったことではなさそうです。江戸時代にも似たような知恵の使い方はされていたようで、その極め付きのような歴史・文化遺産が会津にあります。

旧正宗寺三匝堂。通称「さざえ堂」。飯盛山中腹にある、世界で唯一の木造の二重らせん構造のスロープを持つ六角三層のお堂、、、と構造については説明し尽くされているのでこの辺にしておいて、肝心の用途。

思い切り簡単に言うと、三十三観音参りのためのデパート。通常、巡礼というのは時間も金もかかります。これをワンストップで可能にし、庶民にとってより身近なものにするための建物。具体的には、スロープの内側に西国礼所の三十三観音像が祀られているため、螺旋を昇り降りして堂内を一巡すれば観音霊場を巡礼したと同じ霊験が得られるようになっています。

けしからん、というお叱りはあったかもしれません。ただ、今も各地に残る「観音講」と呼ばれる信仰上の集まりは、どちらかというと親睦会の色合いの強いもの。例えば、農家に嫁いだ若い女性にとっては同世代の人たちと出歩ける数少ない機会だったやに聞きます。そりゃ楽しいでしょうね。要は、また働くためのリフレッシュで、そのきっかけを作ってくれたのがちょっとした信仰だったのかもしれません。俗にまみれた聖。一番長続きするパターンだと思うわけです。

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小城小次郎

記録や伝承がしっかり残る小さなお城 (2022/05/14 訪問)

小さな城だが今川氏の前線基地として各地の戦線にここから派兵していたらしく、1永禄年間には徳川方に落とされてもいる。歴史のわからんお城が多い中、姫が入水する落城伝説まで残っているこのお城は特筆すべき存在なのかも。

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ぎりょう

中世城館から近世城郭へ (2022/09/09 訪問)

この城は中世から近世にわたって(15世紀前半~明治初期まで)活用された平山城である。城主は畠山氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏・加藤氏・丹羽氏(伊達氏から加藤氏時代は城代)と続いた。中世の土の城が蒲生氏時代に初めて石垣が築かれ、その後の上杉氏・加藤氏によって順次改変され高石垣を持つ三ノ丸が造成されたと云う。
復元された箕輪門は丹羽氏10万700石の居城にふさわしい趣が感じられる。山上の本丸も見事な石垣で復元されているが、帯曲輪下に古い時代の大石垣、さらに三ノ丸へ降りていく途中にはかつての城道や堀切、中世城館の雰囲気を残す切岸や曲輪跡が続く。
この地は奥州道中が通る交通の要衝でもあり、戊辰戦争時の慶応4年(1868)には西軍の攻撃によって落城している。城址には当時の家老や藩士の自刃の地も残されている。
また今年は10月8日からは菊人形まつりも開催される予定であり、訪問時も準備作業中だった。

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ぎりょう

戊辰戦争 二本松少年隊 (2022/09/09 訪問)

歴史好きな仲間と二本松・郡山方面を訪れた。昨年から戊辰戦争における東北諸藩の歴史を振りかえることも歴史探訪のテーマとしている。今回の二本松訪問は、二本松少年隊の墓に香を手向けることが第一の目的だった。
会津戦争での「白虎隊」の名はあまりにも有名だ。二本松少年隊の名も耳にしていたが二本松の場合は、奥羽越列藩同盟により正規軍が他国の戦場に出向き手薄になった国元を守るため志願した数え年13歳から17歳の少年たちが急ぎ各部隊に配属されたもので「白虎隊」のように正式な名称は無かったと云う。「二本松少年隊」は50年後の大正6年9月15日「戊辰戦没者50回忌法要」の際、かつて14歳で出陣した元隊士が「二本松戊辰少年隊記」を参列者に配布したことから呼ばれるようになったと云う。(「二本松の戊辰戦争」二本松教育委員会2021年3月)
この日は先ず今年4月にオープンした歴史観光施設「にほんまつ城報館」へ。こちらは二本松の歴史がとてもわかり易く展示されている。戊辰戦争についても詳細な資料が残されているが、かつて14歳で出陣した元少年隊士が後年、14歳の孫に自身が出陣した際の服装を着せて撮影した写真にこころを打たれた。顔も背丈も現在の小学校高学年のような少年が白い鉢巻きに脇差、手には槍を持つ姿で立っている。「このような幼い少年たちまで」としばしその場を離れることができなかった。
その後は少年隊士の墓がある大隣寺、少年隊が西軍と戦った大壇口古戦場などを訪れることができた。

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シェル

これが真のお台場 (2022/02/17 訪問)

ゆりかもめ お台場海浜公園駅から歩きで第三台場までは15分。マリンハウスまでは5分程度です。
りんかい線の東京テレポート駅から第三台場までは、テレポートブリッジを渡り、徒歩30分ほどです。
続100名城スタンプは、マリンハウス内観光案内所で押印。
マリンハウスにパンフレットも置いてありました。
マリンハウスから歩きで第三台場へ
(けっこう距離がありますが、舗装された歩道が整備されています。砂浜経由でも行けますが、歩きにくいです。)
思ったより土塁が高く立派でした。
砲台はモニュメントらしく、当時のものではありませんが、砲台の雰囲気を味わうことができました!!

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赤い城

阿曽沼城 栃木県佐野市 (2022/08/28 訪問)

浅沼八幡宮が城跡です。
単郭の城だったとのこと。
周辺は住宅地になっていて遺構は八幡宮背後に空堀と土塁が残るのみです。
源頼朝家臣の阿曽沼広綱によって築かれた城です。
阿曽沼広綱は源平合戦でも活躍した鎌倉幕府の御家人でした。
広綱は鶴岡八幡宮より分祀し、城内に八幡宮を建立しました。
ここにも鎌倉殿の13人の幟が立っていました。

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POYO58

長野旅行PART上田城 西櫓と本丸を散策 (2022/08/18 訪問)

南大手門と南櫓、北櫓の見学を終えて、ついに県宝に指定されている西櫓に足を運びました。前回も言ったように、南櫓と北櫓は現存と言われながらも移築復元であるようですが、西櫓は一度も動かされずに当時のもののまま現在まで残っています。残念ながら中に入ることはできませんが、近くまで見ることができます。北櫓と南櫓とは変わらない形をしていて、南櫓や北櫓はこの西櫓を模したのかなと考えていました。
西櫓を終えた後、眞田神社の隣にある本丸跡に行きました。今は草原が広がっているだけですが、一部土塁や建物跡が残っています。本丸には石碑が立っていました。また西の丸には上田城唯一の水堀が残っていました。上田城は水堀に囲まれていたようですが、水堀が残っているのはこの西の丸だけでした。

ちなみに皆さんは上田城に天守閣が立っていたと思いますか?実は今それが謎になっています。天守閣が立っていたと考えられる礎石や天守台は見つかっていません。ただ諏訪原城や小諸城や松本城にはあんなに立派な天守が立っていたのになぜここには立っていないのかは不思議です。発掘調査で瓦などは見つかっているのですが、それが天守に使われていたものかはわかっておらず、謎となったままです。最新の情報を待ちたいと思います。

さて次は上田城の水堀跡に行きます。続く

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カズサン

伊豆出身伊東氏の城 (2004/10/16 訪問)

 飫肥城は曾我兄弟仇討ちで有名に成った工藤祐経の子祐時が鎌倉期日向国地頭職と成り伊東氏を名乗り支配を始めたのが始まりの様です、室町期には伊東48城と支城網を広げほぼ日向一国を支配に収めていたが島津氏との抗争は絶えず、国境の城飫肥城をめぐる攻防戦で伊東氏が勝ち取り義祐の次男祐兵が城主になるも島津氏の勢力拡大は続き戦での大敗も有り、日向を離れ豊後に逃れた。
 窮状を秀吉に大友宗麟と共に訴え、秀吉九州征伐島津征伐の軍にいち早く加わり島津征伐後、祐兵がその功により故地であった飫肥5万石に封じられた。関ヶ原も東軍に付き所領安堵、江戸期明治まで飫肥藩の治める所となった。

 18年前の平成16年10月中旬、鹿児島出張の空き時間にレンタカーで出掛け、車は観光駐車場利用。
 今回の飫肥城探訪は二度目の様な記憶ですが、駐車場近くの茶店で昼食そばを頂き、寅さんの飫肥ロケの写真が掲示して有り女将さんと寅さんの話をしたり。
 
 探訪は大手通りから大手門を潜り、大手門桝形、本丸外枡形、本丸に入り、松の丸はパス、元本丸跡、裏門の搦手、本丸内部は小学校に成って居る、本丸東虎口と土塀の裏側副柱を観察撮影、東虎口の東側には出隅の様な櫓台が東虎口を狙ってる、大手門から豫章館に入り見学、武家屋敷通り、鯉の泳いでる遊水用水を眺めて、飫肥武家屋敷の特徴飫肥石塀と上に築地が載ってる景色が建物と共に伝統的建造物群で趣風情が有り落ち付いた良い景観です。
 この後二度ほど訪ねています。
 

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「五十子陣」。 (2022/09/19 訪問)

埼玉県本庄市にある「五十子陣」。『いかっこ じん』と読みます。
1457年~58年に山内上杉 房顕さんが築きました。
この頃、古河公方 足利 成氏さんVS関東管領 山内上杉 房顕さんの『享徳の乱』や長尾家の『長尾 景春の乱』関連の本を読むと「五十子陣」が登場します。
『陣』とありますが、ざっくり20年位、断続的に戦ってますので、館かお城の様な役割だったのではないかと思います。

国道17号沿いに『てんぐ茶屋』というレストラン、お隣に使われてない建物があります。この事務所だったか、お店だったのか分からない建物の裏に「五十子陣」の説明板があります。
建物の間に写真②の案内板がありました。
説明板や案内板は、新しい感じがしました。
が、裏の公園は草木が元気に育ち、説明板まで行けません。
なぜか、象さんの像が、、、写真③です。

因みに、「五十子陣」に向かう信号待ちで『血洗島』の地名と『渋沢栄一記念館→』を見つけました。
大河ドラマ『青天を衝け』ではお馴染みだった、血洗島だに~。(笑)
この日の目的が、お城攻めではなかったので寄りませんでしたが、何処に行っても先人達の足跡に出会える事を再確認した「五十子陣」攻めでした。

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赤い城

宇都宮城の支城 (2022/08/28 訪問)

入口に駐車場があり2〜3台駐めることができます。
そこから遊歩道がついていてよく整備されています。
単郭で周りを土塁と堀が囲んでいます。堀は二重で外側は一部残っています。
雨の後だったので内堀は一部水堀のようになっていました。
郭内は広く、周りを囲む土塁の隅は櫓台のようになっています。
宇都宮城南側の支城でした。
近くにはグリムの森もあります。
興味のある方はセットで。

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三浦の晃ちゃん

お堀に映る三重櫓 (2022/09/24 訪問)

16時半頃、現地に着きました。スタンプは、門のところで、ゲットできたのです、御城印は、16時までの販売だったので。買えませんでした。お堀に映る櫓の写真が撮れたのがうれしかったです。

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にのまる

西の丸 (2022/06/10 訪問)

菱の門近くの中村重遠大佐顕彰碑に感謝の一礼をして鷺山の西の丸へ行きました。
左手雁木の上にある武者溜り。柵の向こうへは行けませんが、西の丸の警護とともに天守に向かう敵を背後から狙う役割を担っていたそうです。ここから見る天守もかっこいいです。
300メートルの百間廊下の見学は最終入場時間が迫っていたのでゆっくりじっくりというわけにはいきませんでしたが、誰もいない静かな櫓の中をそろりそろりと歩きました。
鉄板張りの格子窓から差し込む柔らかな光と影、洗練された意匠から伝わる凛とした空気、雅やかな暮らしの残り香、長局の慎ましさ、長い年月の間に削られた漆喰の誇らしさ、櫓間の隙間の妙、頑丈な扉や石垣、石落としから伝わる緊張感…。
大天守から見下ろした姿からは想像のできなかったさまざまなものが目に飛び込んできました。

〜見学を終えて〜
姫路城が“好きなお城ランキング”で常に上位にランクインするのは、見学者に対する懐の深さの故ではないかと思いました。
歴史を全て押さえてから来るべきとか、遺構の見方はこうだとか、ここは必ず見るべきとか、少なくとも姫路城自身は全く思っていないに違いないと思いました。興味の度合いや知識の多寡、訪問の目的はひとりひとり異なります。物理的に見学が叶わない場合もあります。そこに優劣や順位はありません。他人と同じ感想を持たなくても構わない。
ファンもマニアもそのどちらでもない人も平等に受け入れてくれる度量があるからたくさんの人に愛されているのだと感じました。

おわり。

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坂元神社 (2022/09/23 訪問)

 坂元駅から徒歩約15分で、本丸跡の坂元神社に行くことできます。途中、移築された大手門等があります。神社の西側には見事な空堀がありました。土塁も少しですが残っています。

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