(続き)
中の橋を渡ってすぐ左手の汗かき地蔵の隣にある姿見の井戸には、井戸を覗き込んで自分の姿が映らなければ三年以内に亡くなるという言い伝えがありますが……とりあえず三年は大丈夫のようでした。覚鑁坂を上って行くと右手奥に密厳堂があり、高野山から移って根来寺の開山となった覚鑁上人が祀られています。だから覚鑁坂なんですね。
覚鑁坂の先も参道沿いには多くの大名家の墓所が建ち並んでいますが、少し変わったところでは、高麗陣敵味方戦死者供養碑があります。島津義弘・忠恒父子が文禄・慶長の役での戦死者を敵味方を問わず供養するために建てたもので、まさに高野山に相応しい墓所です。
中の橋駐車場への分岐を過ぎたあたりで左手の脇道を上って行くと、崇源院(浅井三姉妹の江)の墓所があります。崇源院から寵愛されていた駿河大納言忠長が母の供養のために建立したもので、奥之院で最大の五輪塔のため一番石と呼ばれています。その隣は本多家(播磨姫路)の墓所で、崇源院と本多家の間には崇源院の娘であり本多忠刻の正室となった天樹院(千姫)の供養塔が建てられています。
参道に戻って少し行くと、加賀前田家二代利長の墓所があり、巨大な五輪塔は三番石と呼ばれています。さすがは加賀百万石ですね。参道の向かい側には利長夫人の墓所もあり、調べてみると正室の玉泉院(永姫)は織田信長の娘で、二人の間に子はなかったものの、夫婦仲は良好だったようで、400年を経た今も向かい合って並ぶ二つの墓所に何やら微笑ましい気持ちになりました。
さらに進んだ先の安芸浅野家墓所の五輪塔は二番石。42万石超の大藩というだけでなく、紀州徳川家の前の紀州藩主だった関係もあるでしょうか。浅野家墓所の裏手には尾張徳川家の墓所がありましたが、水戸徳川家の墓所はありません(または見つけられません)でした。また、浅野家墓所の斜め向かいには松平秀康及び同母霊屋があり、上杉謙信や井伊掃部頭の霊屋は木造でしたが、この霊屋は石造になっています。
松平秀康石廟の先で参道は左右に分岐します(御廟橋の手前で合流)。左側へ進み脇道を上って行くと豊臣家墓所に至り、秀吉をはじめ、大政所、秀長ら一族の五輪塔が建ち並んでいますが、敷地は広いものの五輪塔の大きさはそれほどでもありません。御廟橋の手前で左側の脇道に入ったところには織田信長の墓所がある……にはあるんですが、正直拍子抜けする大きさの五輪塔で、何故か筒井順慶と隣り合っています。考えてみれば、本能寺の変がなければ高野山を焼き払っていたであろう信長であっても、分け隔てなく供養されているのは凄いことなのかもしれません。また、分岐の右側参道沿いには浅野内匠頭と四十七士の墓所や、秀吉との交渉で高野山攻めを防ぎ、その後の興隆に努めた興山応其上人廟などがあります。
その他、中の橋から御廟橋までの間では、岡部家(泉州岸和田)、加藤家(伊予大洲)、里見家(羽州最上)、鳥居家(信州高遠)、小出家(丹波園部)、真田家(信州)、最上義光(羽州山形)、中川家(豊後岡)、浅野家(安芸)、根来家(泉州熊取)、毛利家(長州)、阿部対馬守、土井家(下総古河)、石川家(伊勢亀山)、戸沢家(羽州新庄)、水野家(備後福山)、堀家(越後村上)、亀田大隅守、松平(久松)家(伊予松山)、本多家(三河岡崎)、黒田家(筑前)、南部家(奥州)、松平忠政(美濃加納)、向井家(相模三浦)、稲葉家(豊後臼杵)、酒井家(羽前庄内)、松平家(肥前島原)、青山幸成(摂津尼崎)、脇坂家(播磨龍野)、西尾家(安房)、松平家(下総佐倉)、松平家(丹波篠山)などの墓所を確認しています。
御廟橋の先にも春日局の供養塔などいくつかの墓所がありますが、弘法大師のおわす聖域中の聖域のため写真撮影はできず、見て回るだけです。そして御廟でお大師さん(地元では親しみを込めてこう呼びます)に手を合わせて、奥之院を後にしました。
…ということで、いくつか見落としはあるものの、都合5時間で主なところはひと通り見ることができましたが、リーフレットに載っておらず現地に案内のない墓所でも、五輪塔に刻まれた文字を読んでみると(意外に読めます)まだまだ大名家の墓所はあるようで、とことんめぐり尽くそうと思ったら、本当にきりがなさそうです。何も5時間もかける必要はありませんが、行ったことのある城や馴染みのある大名家の名前に次々と遭遇できるのはなかなか面白い経験だと思いますので、これからの紅葉シーズンか、夏場に避暑を兼ねてぜひご訪問下さい。杉並木の参道沿いに苔むした墓碑が林立する光景は一見の価値ありです。
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