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赤い城

比企能員館 埼玉県東松山市 (2022/09/11 訪問)

鎌倉殿の13人でお馴染み、比企能員の館跡です。
大河ドラマでは佐藤二朗さんの好演が光りました。
宗吾寺周辺が館跡とされ、境内には石碑もあります。
館跡を示す位置は少し離れた場所、霊園の奥にあります。
遺構はなくソーラーパネルが並んでいました。
今まで鎌倉時代はあまり興味も無かったのですが今年の大河でしっかりはまりました。
縁の城を再訪している感じです。

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ぴーかる

小野陣屋 (2022/09/11 訪問)

【小野陣屋】
<駐車場他>小野市立好古館駐車場入館前提で
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅5城目。小野藩の前史は山中城の戦いで討死した一柳直末の弟直盛が伊予西条と播磨加東郡を領していました。次男の直家に加東郡5000石を分地しましたが、間もなく直盛が死去したので伊予国の遺領2郡も分け与えられ28000石の大名となりました。直家は伊予の川之江藩を立藩し分地の小野には規模の小さい敷地陣屋を置きます。
 1642年に直家は嗣子が無く没したので小出家から末期養子を迎え2代目藩主一柳直次としますが当時は末期養子は認められなかったので伊予国の所領は没収され播磨国加東郡1万石が与えられます。直次は1653年に現在あった位置に小野陣屋を築きました。一柳家は小野藩主として明治まで続きます。
 現在陣屋跡は好古館と隣の小野小学校の場所となります。南側と東側の駅より台地状で歩道橋から見ると1段高くなっているのがわかります。好古館(有料)内の展示品で城に関する物は金鑵城や豊地城の出土品が展示されています。

<満足度>◆◇◇

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カルビン

公共交通機関の隙間 (2022/10/02 訪問)

4回目のワクチン接種も行い、油断は出来ないですが体力戻す為に歩く事を目的としてお城巡りを再開しております。

人混みがまだまだ怖いので、人出の少ない早朝出発で午前中に帰る・・・手段で訪問したのが未訪問だった源範頼館跡。
大河で頼朝(初代善児により暗殺)に亡き者にされる前に訪問したかったなぁ・・・

とはいえ、ここは公共交通機関での訪問が難しく。。。
マップを調べて先日ようやく2km弱はなれたところをバス(東松山-鴻巣)が通っているのを確認したので行ってきました。


東松山駅からバスで武蔵松山城を左手にスルーしつつ久保田バス停で降り、そこからゆっくり25分歩いて到着した息障院が伝源範頼館とされている場所になります。

遺構は山門手前左側の堀と思われる地形しか見当たりませんでしたが、解説や城碑が充実しておりました。
個人的には山門の凝った造りの彫刻がきになったかなぁ・・・と。


遺構がほぼ無いので見所も少なかったですが、この後鴻巣に向かい、ついでに源範頼の祖先となる(伝)源経基館も見学して帰宅しました。
(源経基館は投稿済なので今回はスルーします)


以前鎌倉殿の13人に関するネタ投稿してましたが、ここに来て結構なネタ仕入れているので、ぼちぼち投稿して行こうかなと思います。
(城びとに登録していない場所が多いのが勿体ないところですがorz)

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カズサン

結婚記念日登城と金婚参拝 (2022/10/01 訪問)

 結婚記念日50年当日、妻の希望で甲州シャインマスカットとシャインマスカットタルトを食べたいと甲州山梨入り、先に希望は南巨摩郡南部町道の駅なんぶで達成したので、未走行の中部横断道を走り武田神社へ金婚お礼参拝と同神社は武田氏館跡・躑躅ヶ埼館でも在り、13年振りに躑躅ヶ埼館を登城探訪しました。

 武田神社参拝の後、東側の大手門跡側に廻り、発掘復元した大手ゾーンの復元石塁、説明板で三日月掘跡を想像俯瞰して見る、周囲が高土塁で囲み壮大さが有る、東曲輪・中曲輪を通り西曲輪へ、案内解説板に天守台と記載されてるが天守台跡に入る事が出来ない、西曲輪北奥に入り天守台らしき方向を見るが樹木が茂り良く分からない、西曲輪の南虎口、枡形、高土塁を観察、濠も良く残って水をたたえてる。
 車は神社南西の武田神社参拝者専用駐車場を利用、無料ですが駐車券を社務所で検印しないと出庫出来ない。
 50年に当たる結婚記念日金婚式当日武田神社でお礼参拝出来てありがたい。結婚前も城廻り50年経っても城旅よく付き合ってくれて居ます、感謝です。

 朝田辰兵衛さんへ
 先の台風15号静岡県豪雨被害に当たり当方へのご心配お気遣いを頂き有難うございます、西部の浜松市は山間部、谷間筋の中小河川で被害は有りましたが、当自宅周辺は中小河川から離れ微高地との条件で側溝の越水冠水で済みました。
 中々新潟の山城に出向けません、直峰城には何時行けるやら?と10月11月の好シーズンが狙いですが?
 城びと投稿引き続き楽しみ見て居ります。
 

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城巡り500城

栃尾城とペアで見学を! (2022/10/02 訪問)

きちんと整備され登りやすかったです栃尾城から与板城へその後本与板城へ最後に長岡市内の蔵王堂城見学がおすすめです!

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城巡り500城

ミニ春日山城かな? (2022/10/02 訪問)

栃尾城に行ってきました10月なので藪もありましたが広大な城跡を整備され地元の方も大変だとおもいます上杉謙信幼少の時過ごしたせいか春日山城にも似た様にも思います栃尾城は日本山城100名城かな??

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トク

昔を懐かしく思い出させてくれる城-(大分府内城) (2022/09/04 訪問)

大分府内城というと、豊後大友氏ゆかりの城と思われている方がいらっしゃるのではないかと思いますが、それは誤りで大友氏とは全く関係ありません。大友氏の本拠は約1km南東にある大友館であり、ここは大友氏が改易された後、1597(慶長2)年に豊臣秀吉の命で「福原直高」(石田三成の妹婿)が入り築城を始めました。しかし築城半ば、福原直高は関ケ原の戦いで大垣城の守備を任されましたが敗れて自害します。代わって、竹中半兵衛の従弟の子で、九州の関ケ原では黒田官兵衛の与力であった「竹中重利」が初代府内藩主となり、1602(慶長7)年に四重の天守を完成させました(時期的に見ておそらく望楼型と思われます)。その後の正保の絵図では白い層塔型で描かれているため、竹中氏またはその後に入った日根野氏が白漆喰の層塔型に改築したのか、わざと絵図には徳川をはばかってそう書いたのか、今でも謎に包まれています。そしてその後は大給松平氏が入り幕末まで居城としました。天守は松平期の1743(寛保3)年に火災で無くなり、その他の大部分は戦時中の大分空襲(1945年)で焼失しました。

今では回りは埋め立てられて当時の面影は全くありませんが、かつては東に大分川、北は別府湾に面した位置に立地されており、その大分川の水を内堀・外堀に引き込んでいました。よって、まるで水に浮かぶような形で北側の海と東側の川の間に突き出るように天守が立っていたため、悌郭式の縄張りとなっています。火災や空襲をまぬがれた人質櫓と宗門櫓が現存し、廊下橋は1995年に再建されました。

100名城スタンプとパンフレットは、大手門の軒下にポツンと置いてありました(特に案内所などはなく、無料で開放されている所なので、ご自由にどうぞといった感じです)。

【余談】私事ですいませんが・・
実は私は若い頃大分に住んでいたので、その時は何度も府内城を訪れました。当時は本丸に文化会館という大きなホールがあり、20才の時そこで成人式があったのを記憶しています(40年も前の話です(笑))。今ではホールは解体され、跡地は隣接する市役所の駐車場、その他の部分は大分城址公園として市民の憩いの場として開放されています。10月なると大分生活文化展が開催され多くの市民が集まります。大分名物の「だんご汁」や「椎茸飯」「吉野の鶏めし」などが(有料ですが)振舞われ、よくここで食べたのを憶えています。何かとても懐かしく感じました。

今後、天守などを含め元の姿に復元するための調査・研究が今なされているようです。是非復元した姿を見たいものです。
 

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T-Shionoya

館山城訪問 (2005/05/03 訪問)

過去のお城巡りの振り返り第20弾は、千葉県館山市の館山城。

館山平野の海岸線の北側にある富浦の水軍基地岡本城を居城としていた1580年代の里見氏。
反対の南端部には高の島湊があり、館山城は元々そこを抑えていたであろう支城。
安房丘陵から軽く飛び出た標高約70mの小さな山に築かれています。

館山湾を北の軍事と南の経済で支配した里見氏ですが、秀吉の小田原征伐後は本拠を館山城に変更。
しかし江戸初期に里見氏は伯耆国倉吉へ移封され、城は廃城となりました。

現在は城山公園として整備され、模擬天守は八犬伝の博物館。
山頂部の広場は昭和期に削平されたものだそうで、中腹の梅園付近が義康時代の館跡、孔雀園が忠義時代の館跡と推定されています。
また山麓西部には関ヶ原以降に掘られた鹿島堀の跡が見られるとのこと。

訪問時を写真で振り返ると、2つの博物館に寄りながら、パンフレットを参考に公園内を歩いた模様。
しかし思い出せるのは、駐車場から天守まで意外と坂が長かったということのみ。
公園の南エリアは堀切以外にも曲輪の名残があるようで、いま訪れたら当時より城を感じることができるかな?

※1枚目の写真は'11年の再訪問で撮影

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カズサン

【甲斐・南部氏館】山梨県南巨摩郡南部町 南部氏初代光行公の騎馬像設置 (2022/10/01 訪問)

 南部氏館跡は山梨県南巨摩郡南部町南部に在り、グーグルマップに史跡マーク南部氏館跡と掲載されて居ます。

 南部氏館跡登城は平成29年5月以来2度目です、今回は妻が新しく出来た「道の駅なんぶ」が静岡民放テレビ夕方の放映でシャインマスカットの産地販売とシャインマスカットを使用したジェラート「シャインマスカットタルト」を食べたいとの希望で、中部横断道が昨年、新東名新清水JCTと中央道双葉JCT間が完全開通して居り走破もして無く、中部横断道使用甲州金婚日帰り城廻りと洒落込みました。
 中部横断道南部ICを降りると直ぐに道の駅なんぶに繋がって居ます。勿論「シャインマスカットタルト」も食べ、シャインマスカットを土産に購入、宅急便で孫達にも送りました。

 南部町は南部氏発祥の地、甲斐源氏の祖である新羅三郎義光の後裔で加賀美遠光の三男光行がこの地の地名から南部光行を名乗ったのが始まり、光行は頼朝の奥州合戦に従軍し軍功を上げて奥州糖部(現在の青森県岩手県一部)の地を賜った、子孫は徐々に奥州に移住し勢力を拡大、南部藩として明治まで奥州有力大名として栄えた。
 
 南部三郎光行公の騎馬像は平成30年9月、道の駅なんぶ駐車場側に設置され、建物内に情報発信館「南部氏館」資料室が在ります、当日は10月3日まで整備工事中で見学出来ず、頼んで南部氏のパンフレットを頂く。以前から南部光行騎馬像を観たいと思って居り叶いました。
 南部光行公の騎馬像はもりおか歴史博物館所蔵の御代々御画像南部光行部分をもとに、乗馬については、南部馬に近いと言われてる木曽馬を採寸し、立体化しているとの事。「道の駅なんぶ」のシンボルとして設置されたとの事。
 
 南部氏館跡の二回目の探訪は道の駅から国道52号線から富士川沿いに一本東の旧身延道を南東に約2km程ですが、中沢薬局南部店の所から東に村道富士川沿いを150m程南東行き裏から入る。車は手前の幅広エリアに路駐。
 南部氏館跡は私有地の様ですが、唯一残ってる井戸跡前に案内板と標柱が立って居ます、そこからは西の山側に菩提寺の妙浄寺、南部城山跡、その下に源義光を祀った新羅神社を遠望する事が出来ます、浄光寺には南部氏供養塔、発掘された墓石が有ります。(今回は訪ねて居ません)
 各史跡はグーグルマップを見て頂くと記載されて居ますのでご参考に、説明文は南部町教育委員会発行の「歴史文化公園 南部氏の郷」を引用抜粋して居ます。
 

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おぃしーぃ

良く残してくれました (2022/10/01 訪問)

横浜線中山駅から徒歩15分程、住宅地にある城址です。主郭がお寺になっていて、食違いの虎口、矢倉台跡が良く残っており、マニアには有名ですね。周囲も歩けば谷地形を良く利用した大堀切やら堡塁の様な矢倉台が良くわかります。
こんな小さなお城が、戦国の先駆けになった永享の乱の始まり地であり、北条氏にとっても小机城を中心にした鶴見川防衛ラインとして重要な役割を担ったという、深い歴史を秘めています。
神奈川県民の御城ファンを名乗るなら、発達した戦国末期の小机城と共に初期の地方領主クラスの見本として、ぜひ訪れるお城と思います。横浜市内は明治期以降いくつものお城が破壊されてきましたが、この奇跡的に残ったお城を味わいましょう。
なお、行き方は中山駅北口から線路沿いに歩くことをお勧めします。車は少ないし、後堅固がわかる田んぼが見えたら明治の橋台がある線路をくぐった目の前が搦め手です。横断歩道を渡って真っ直ぐ行けば搦め手からの登城ルート、おすすめは左の道からぐるっと回って大堀切の中から登城するルートです。

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朝田 辰兵衛

日在城(千葉県いすみ市) (2022/09/24 訪問)

【ひあり じょう】今回のJR外房線巡り最大の目的がココ。にのまるさんに「しりとり攻城」していただいた,有子山城アプローチ手札の城です。
有力な情報は2つ。城の北側に設置の石碑が,ストリートビューでも確認できる。そして,2018年9月24日に(等高線が最も密な)北側斜面から登城された「古城盛衰記」さんのレポート。
「古城盛衰記」さんのレポートでは,南西面で登城口を探せなく,北側斜面を…とあり,さらに南側(いすみ市若山1776の西側)から北に登って尾根を右に進むと,城跡の南西側に出ると思われる…と結論されてます。
私は,国土地理院の地図でシミュレーションして,いざ現地へ…。城址碑と北側斜面を確認。北側斜面は草木の繁茂で足元を確認できず。しかも,踏み込んだ足元に水があふれ出る状態。ここは無理せずに南側へ。南側登城口と思しき場所を発見し,さらに先の方を眺めていると,厳重にネットか柵かでふさがれているのが見えました。この斜面も,踏み込んだ足元に水があふれ出る状態…。少しだけ歩みを進めると,登城口に向かって左側住宅に居住の方が窓を開けて私の方を注視しておられました。
(これはラッキーと思い)私から声をかけ,「ここから上へは行けますか?」と。
回答は,上にはここから行くことができるが,もう10年以上,誰も登っていない。上からイノシシがしょっちゅう出てきて,防護ネットをしているとのこと。記憶の中では,ケータイの工事で業者の方が登ったのが最後と。
私が思うに,ケータイの基地局が山頂に見当たらないので,おそらく置局調査だろうと思います。基地局があれば,それに伴い道も整備されますので。また,義経の鵯越え的理論から言えば,「イノシシが降りれるということは,何かしら道がある」ということ。条件が整えば行ける…と思いました。
ただ,今回は足元が悪い中,イノシシが突進してきたら,運良く避けれても滑落のリスク大。イノシシの習性からしても,台風などの強風によって落ちた木の実を狙って出てくる一面があります。確実に登城口がわかったということを収穫材料として,引き揚げました。

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赤い城

期せずして連投に (2022/09/11 訪問)

前回投稿してからどなたも投稿されてなく連投になってしまいました。
民家の敷地になっています。
民家の前に説明板も立っています。
裏山に少し入らせていただくと堀と土塁を見ることができました。
武士の鑑、畠山重忠の家臣、本田親恒の居館です。
この民家も本田氏の子孫の方がお住まいのようです。

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侍ホリタン

2022春の特別公開「トの櫓、搦手周辺」 (2022/03/09 訪問)

姫路城では毎年春と冬に期間限定の特別公開を行っていて、普段公開されていない所を見学出来ます。ただし別途料金が必要で公開場所入り口で支払う事になります。

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マダム卑弥呼 

ついに来た。戦国武将最大の有名人 (2022/10/01 訪問)

二回目の小谷城。、今回は大手門から歩きました。資料館では2時間くらいで帰ってこれますよって言われたけど帰ったのは
11時から15時(お昼ご飯の30分や休憩時間含む)までかかりました。山城としてもかなり高く、(今回は行っていないが、大嶽城址の所の標高は500mちかくの495m)資料館で見た観音寺城より高いとみて、驚きました。そりゃ疲れるわ。
完全な体調ではないとはいえ、小谷城へ行きたいと思うようになったきっかけ(二回目とは言え)はやはり浅井長政の城を見たかったこと、あとは朝倉との関係性はどうだったんだろうということ(信長を裏切って市と別れる選択をした長政の心情)とか色々考えていました。資料館ではあまりいい内容のものは残っておらず(おそらく資料で言えば安土の考古学博物館の方がいいかも)二つ目の部屋ではVTRが流れていてきちんと見ることができませんでした。(邪魔になるのが嫌なので) とにもかくにも山城最後の戦いとしては戦国時代に一番有名な場所だし、娘たちのその後もとても劇的な人生だったので、歴史の面白さをかんじずにはおれません。
残念なことは登城口にあった寄付の箱に小銭を用意して持って行けばよかったと思ったことですねぇ。1000円札入れようと思ったけど完全に小銭用だったのであきらめました。たまってる小銭を入れて持って行けばよかった(苦笑)

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赤い城

多摩ニュータウン (2022/09/04 訪問)

南武線の南多摩駅から徒歩で数分。
多摩ニュータウン造成時に遺構は消滅、説明板が立っているだけです。
近くの普門庵や大麻乃豆乃天神社付近にも曲輪があったとされているもののこの辺りにも明確な遺構はなさそうです。
本丸は説明板から少し登った住宅地の辺りのようです。
多摩川渡河点監視のための物見の城だったようです。

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城とマスク

首里城復元へ (2022/09/29 訪問)

いよいよ復元工事が始まる首里城を見学しました、完成したらまた訪れたいです。マスクはラゴーシャン製フルフェイスタイプを被りました。

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きほ

タワーから見下ろす城 (2017/08/16 訪問)

五稜郭タワーからの眺望は、張り出した5つの稜堡が美しい星型を確認することができます。
2010年には箱館奉行所が復元されています。
稜堡式五稜郭は国内では他には信濃国の龍岡城しか存在しない貴重なものです。

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一重山 (2022/10/01 訪問)

 しなの鉄道線屋代駅の背後の山が城址です。北側登城口から登城しました。尾根を上がっていくため緩やかな傾斜で道も整備されていて登りやすいです。堀切により各曲輪が形成されていますが、一部は土取りで失われています。堀切や竪堀は浅くなっていると思いますが、武者隠しの土塁などもあり楽しむことができました。ただ城郭放浪記さんのHPによると主郭背後の水道施設と墓地になっている所は5重の堀切があったとのこと、見てみたかったですね。主郭西側には石積みが残っています。

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古殿稲荷社 (2022/10/01 訪問)

 篠ノ井駅から徒歩10分くらいで、わずかに残る土塁と案内板へ行くことができます。

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神主屋敷 (2022/10/01 訪問)

  資料を見ると貴重な建物であったことがわかります。火災で焼けてしまい残念です。

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