(26人目)井伊直政の続き㉓です。
関ケ原当時の居城「高崎城」を訪れてきました。
直政は1598年家康の命で、箕輪城から中仙道と三国街道の分岐で交通の要所である和田城に移ります。直政この時38才。そしてその時、懇意としていた白庵和尚からの進言で、和田の地を「高崎」と改名し、和田城を改修した高崎城の築城を開始します。その際に、白庵和尚や箕郷の領民たちも皆で高崎へ移住したようです。やはり直政は領民からも慕われていたという事ですね。しかし、わずか2年で直政は築城途中に佐和山城へ国替えとなったため、その後の1619年に入った安藤重信とその安藤氏三代にわたり、高崎城は完成されていったと伝わっています。現在はその安藤氏時代の乾櫓や東門などが移築され、石垣や堀などが残り、当時の面影が残っていました。(写真①-⑥)
そしてtodo94さんオススメの、高崎市役所21Fの展望台に上ってみました。眼下には音楽堂と乾櫓(写真⑧)や、高崎駅と市街地(写真⑨)、そして遠く箕輪城がある箕郷と榛名山までがよく見えました(写真⑦)。とても絶景で感動しました。いい場所を紹介していただき有難うございます。でもあまりの高さに、高所恐怖症の私は途中で足がすくんで動けなくなってしまいました(😱ひぇ~高い!笑)。
関ケ原での直政の赤備えの軍勢は、大部分がここ高崎の兵であったとされています。武田が滅びてから10年、小牧長久手や小田原で活躍した武田の旧臣たちもさすがにもう高齢化し(笑)、高崎へ移ったのを機に、赤備え隊も若返りを図ったようです。そしてこの年(1598年)に豊臣秀吉が死去し、石田三成を中心とした豊臣恩顧の大名たちの不穏な動きが始まります。直政は重臣たちに、この若き赤備えの軍勢を迫り来る決戦に向けて猛訓練をするように命じ、自らは伏見の家康の元に留まり、情報収集と西軍諸将の調略に専念していったようです。
次は(伏見城)直政の調略へ続きます。
(写真⑩)は、高崎駅で買った「峠の釜めし」駅弁です。おいしかったです😊。
+ 続きを読む