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零汰

770年前に怡土城跡に築城 (2022/10/22 訪問)

怡土城を抜けると行き着く所は高祖城のうち、下ノ城と呼ばれるⅡ地区になります。Ⅰ~Ⅴ地区の5つに分かれているらしいのですがそうとも知らずに下ノ城(Ⅰ区)~上ノ城(Ⅱ区)~V区と廻りました。上ノ城とV区との間には高い切岸と堀切があり、石積も見ることが出来ます。V区は東側に300m程延びていて小さな曲輪や土塁を見ることが出来ます。

一旦城域に入って歩き続けると大まかな範囲は把握出来るのだが、帰宅後おさらいしてみると北側にⅢ・Ⅳ区がある。写真をみて思い出してみると確かに藪に埋もれた斜面があったのできっとそこの様です。報告書には堀切群や畝堀・小曲輪が存在しているらしいです。

参考:城郭放浪記さん・福岡県中近世報告書

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零汰

1250年前の遺構 (2022/10/22 訪問)

約1250年前に、朝鮮半島の備えの為に造られた古代城だそうです。

3年前から気になっていて高祖城との関連を調べながら機会を伺っていました。訪問ルートは把握出来たが訪問時間が曖昧でした。そこで行き着いたののはYAMAPアプリ、そこにルートが載っており大まかな時間も把握することが出来ました。登山アプリは情報の少ない山城のルートを調べる事が出来るので割と重宝しています。但し登山道が整備されている場所に限ります。

訪問参考データ:3時間35分:7.9km:累計高低差506m

マップ左上辺りにある高台寺公民館に駐車して、怡土城から高祖城に抜ける登山道を利用して高祖城からは一般道を歩いて戻りました。こちらは勾配も緩やかで歩き易いです。

望楼と呼ばれていて登山口より第五~第一まで残っていて、当時は建物があったようで基礎石が残っています。基礎石の残っている曲輪が五つ、尾根道で結ばれている曲輪群のイメージです。尾根道には所々石塁や石畳の名残と思わせるような跡が有り、左手には何本かの竪堀を見ることが出来ました。

第一~五の間に確認されているだけで2か所の陣(砦)となって高祖城の出城となって再利用されていたようです。第二望楼は高来寺砦、第一望楼は草野砦として望楼跡を使用していたそうです。2か所の存在は情報として持っていましたが、当日確認出来たのは草野砦だけでした。高来寺砦の正確な位置は帰宅後おさらい時間で知ったので見逃しています。(8~10の写真が草野砦)

総合的に考えると、尾根道にある石塁と石畳らしき名残と竪堀は高祖城築城の約770年前以降に施されたのかもしれません。興味を覚えたのは現在は望楼は五つだが、実は高祖城の位置まであと幾つか存在していて、築城時に飲み込まれて同一化されたのだろうという考察。文章を読む時はピンと来なかったが、自分の目で見て歩いてみるとすんなり理解出来て興奮してしまいます。(大土塁が高祖城域まで存在しているので高祖城の前身は怡土城だったと容易に想像できました。)

参考資料:城郭放浪記さん・福岡県中近世報告書

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POYO58

ここも難攻不落であったか… 山麓編 (2022/12/03 訪問)

皆さまお久しぶりです。1ヶ月ぶりの投稿となってしまいました。
この前の土曜日に敦賀へ行ってまいりました。ほんとはメタセコイヤと賤ヶ岳を巡る予定でしたが、賤ヶ岳のロープウェイがやっておらず、県を超えました。
国吉城は栗屋勝久が築城しました。もともとは土の山城で朝倉氏に何度も攻められた城です。朝倉氏の侵攻は10年にも及びましたが城は落ちませんでした。栗屋勝久は朝倉氏討伐を掲げていた織田信長に国吉城を招待します。ちなみにこの時は明智光秀や徳川家康、豊臣秀吉もいました。織田信長はこの城を大改築し、石垣を導入しました。それにより更に堅城になった国吉城を朝倉氏は攻めることができませんでした。その後、栗屋氏は大分へと移り、城は廃城となりました。

歴史館で御城印を買い、スタンプを押しました。資料館は子供50円、大人150円で入れます。また、ここは御城印帳も売ってますよ。
国吉城の主な遺構は堀、石垣、土塁です。
まず山麓には建物が置かれていたとされています。織田信長によって石垣が導入され、山麓には土塁と石垣、一部礎石がよく残っています。ただ石垣は発掘調査後、埋め立てられたため少ししか見えないです。でも見どころですよ。ただ歴史館の近くには廃城後に築かれた石垣がはっきり残っています。
では山を登っていきましょう♪ 続く

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朝田 辰兵衛

JR南多摩駅~京王稲城駅間は徒歩圏内。 (2022/11/27 訪問)

JR南多摩駅~京王稲城駅間を,キャリーバッグを転がしながら散策。大丸城からの転戦です。ちょっと坂道が気になりましたが,全然徒歩圏内。ここは,三沢川の水運で活躍したのかな…って想像しました。稲城中央橋と亀山橋の両方から三沢川を眺めました。

明日,パシフィコ横浜を攻城する予定です。高速バスが欠航にならなければ…。今回も前夜祭のみです。土日は久々に“18歳”になります。国府津越えや熱海越えが気楽なんで。けど,雨男ゆえか天気予報良くない…<泣>。

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いんげん丸虫

狭間城 栃木県那須塩原市 (2022/12/10 訪問)

那須塩原温泉街から箒川の対岸にある狭間(はざま)
城。1476年橘伊勢守(たちばないせのかみ) の出城
として築かれたようです。
主郭は断崖上にあり南面は崖で、箒川越に温泉宿が
見えます。北面に横堀が巡り、竪堀となって崖面に
落ちていきます。大きな平場もあり、石塁や石を
盛った塚がありますね。
1年位前までは那須塩原市のHPでも載ってました
が現在は出てないかな。平成9年には市指定史跡に
なってるらしく以前は訪れることが出来たのでしょ
うが今は訪問しにくいですね。
先人のHPに従い西の赤沢温泉旅館の方面から砂防
ダムを抜け山に侵入しました。数年前まで伐採作業
が行われてたらしく重機の跡と切株の多い平場を通
り、物見であったような小山、谷を抜け遺構に到達
します。遊歩道の跡もあり以前はハイキングコース
的だったのかもしれません。

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カズサン

徳川四天王酒井忠次生誕の城 (2022/12/11 訪問)

 来年の大河ドラマ「どうする家康」で活躍する酒井忠次生誕の城である井田城跡を西大平陣屋・大岡越前守陣屋の後に初登城しました、井田公園の東隣に在る城山公園が跡地に成ります。
 車は井田公園の北西に在る駐車場を利用。トイレは公園の西側に在り。

 井田公園の駐車場より木々がこんもりして城跡だなと分かります井田公園東端の道を南に行くと道の西側に切岸の様な土塁土手が在り目的の城山公園・井田城跡です、西側の土塁を廻り東側の土塁、南東角を廻って北東角の入口へ、城山稲荷の鳥居で入口、脇に城山集会場が建ち、赤い鳥列を潜って一段高い城山稲荷の社、櫓台に建つ櫓の様です、社下に立派な井田城跡の石碑、裏に碑文有り、写真撮り忘れました、その南隣に晴明白龍大神社と同大神の縁起石板、この石板には三河武士魂発祥の縁起が刻んで有りました、公園広場は遊戯器具も有り子供達の公園に成って居ます。

 古城盛衰記さんの情報に北東約300mの所に西光寺が在り井田野合戦の説明板が有ると、西光寺境内の井田野合戦説明板、千人塚を参拝見学して来ました。松平4代松平親忠が井田野合戦での敵味方亡くなった方々を葬った低い墳丘に南無阿弥陀仏の石塔を中心に数多の石塔が直列に並んでいます。

 歴史は、酒井氏代々の居城で、岡崎城の支城として築かれ、岡崎城と松平氏の菩提寺大樹寺を結ぶ直線上の中間点大樹寺寄りに在ります。松平親忠など家康の祖先が約100年に亘って周辺兵馬と戦った「井田野合戦」はこの城の周辺で繰り広げられた、家康の天下も祖先の奮闘、この間4回の合戦が有ったとあります。

 さて来年の酒井忠次の大河ドラマどうする家康での活躍は如何でしょうか?楽しみな事です。
 

 
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー53城目 (2022/11/13 訪問)

朝霧に包まれていた会津盆地。そんな中、朝駆けしてきました。向羽黒ギャラリーに置いてあるスタンプは24時間捺印可。前回のスタンプラリーの時に麓から踏破しているので、今回は二の丸近くの駐車場から攻城。二の丸にいる時から霧が晴れはじめ青空が見えてきたので、かなりの期待を持ちつつ、本丸に向かいました。期待通り、生まれて初めての雲海を拝むことが出来ました。

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赤い城

うなぎ屋さん (2022/12/03 訪問)

南浦和駅から徒歩で20分。
幸楽園といううなぎ屋さんが城跡です。
遺構はありませんが高台に位置し、城の雰囲気はあるかもです。
看板に領ヶ谷城阯の文字がある他、庭の池のほとりに説明板が立っていました。
訪問時は朝だったのでうなぎ屋さんはまだ準備中。
次回行くことがあれば賞味したいです。

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にのまる

黒門は現役 (2022/11/27 訪問)

朝駆けしました。
廃藩置県後に胆沢県庁・小学校と移りかわり、現在は市役所と県の合同庁舎となっていますが、その流れがとても自然なことのように感じました。
武家屋敷資料館は開館(9時)前だったので入れませんでした。

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こげら

深谷城址と外濠跡 (2022/12/14 訪問)

中山道歩きの途中、深谷城址に立ち寄りました。
城址は市民公園として整備され、隣の富士淺間神社には外濠跡もありました。

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零汰

終活5:100城・続100、城郭巡り:サンヨウ 6日・最終 シリーズ終了

城郭巡りの人間は、100城・続100城を巡る事は義務なのか?5回目

22日は山口の古城ケ岳城を6:45にスタート、23日が雨だったのでこの日が最終となった。

11月22日(6日目)
1.古城ケ岳城・・・・・・・2時間10分:1.8km:累計高低差317m
2.築山館
3.障子ケ岳城・・・・・・・35分:1km:累計高低差108m
4.荒滝山城・・・・・・・・・2時間40分:3.5km:累計高低差449m
5.信田ノ丸城・・・・・・・1時間15分:2.6km:累計高低差229m
全て山口県、城びと登録の城

城関係の媒体を幾つか見て情報を集めているが、他の城好きの方のリアルの声が聞けるのはここの投稿だけ。3年前から頻繁に見るようになって勉強になる先輩方の投稿を見て、時には試したりとブレながら訪問をしていた。正続100城の投稿を見るたび、いつからか行く事は義務なのか?と考えるようになりバイク終活と称して春よりロンツーを兼ねて訪問するようになった。現在7割程度自分の目で確かめてみて一応の結論は出た。

今年訪問出来て本当に良かったと思っています。行っていなかったら未だに義務なのか?と考えていたでしょう。又、考え方が当初よりも少々変わっていったように思えます。なによりも数名の城好きの方と会えて刺激を貰ったりと副産物の方が多かったように思います。今では何やら吹っ切れた感があり、ブレ巾が狭くなった自覚が有ります。

義務の件、何故そう感じていたかが分かりません。割と早い段階で分からなくなりましたが、冠していた文言でしたので今日迄使ってます。城廻りに王道があるとするならば正続100城を訪問するのは間違いなく王道ではないでしょうか。そんな方は訪問した方がいいと思います。

以上、終活シリーズは終了です。

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イノちゃん

近所のお城 (2022/09/07 訪問)

スマホをiPhone機種変して城めぐりアプリをインストールして最初の行ったお城。
カメラを忘れたので、写真は次の機会に取っておきます。

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カズサン

【三河・西大平陣屋】愛知県岡崎市 大岡越前守陣屋 (2022/12/11 訪問)

 城びと登録の城で東三河にぽっつんと1城未踏に成ってる雨山城を含めて、天気も良く三河未踏の城廻りと出掛けました、雨山城へは東名豊川ICからのアクセスが良さそうなので県道334線を北上、途中先の大雨で路線崩落区間が在り来春まで通行止めとの工事告知閉鎖されており、迂回路案内も有りましたが良く分からず、次の登城目的地である、西大平陣屋を目指しました。

 西大平陣屋住所:愛知県岡崎市大平町西上野95(グーグルマップを見て頂けれが史跡マークで表示されて居ます)
 駐車場は基本的になしですが、ナビ進行間違えて男川小学校南門前の駐車場に着き駐車利用(日曜日グラウンドゴルフシニアー方々が駐車していた)。

 男川小学校南門から小学校外周路地を北に回り込み陣屋裏の竹垣根を北、西、南に回って、西大平陣屋西に面した陣屋門立派な高麗門、門の右に西大平藩陣屋跡の看板が懸ってる、黒下見板張りの屋根付き土塀が西面と南面に構えてる、南面端に冠木門の南門が復元されて居る。(ネットのウィキペディアを調べると2010年2月高麗門、土塀の復元、2013年4月西大平藩陣屋跡看板設置と出て居ました)

 10年前ごろから大岡越前守陣屋・西大平藩陣屋の高麗門、黒下見板張り土塀の写真が城郭放浪記さんなどで見受けられていましたので是非一度探訪したいと思って居りました。
 内部には案内板、領地を表した円形地図公園、井戸跡、大岡稲荷社、北隅にトイレ完備、北と東は竹垣根。

 歴史は皆さんご存知の南町奉行大岡越前守忠相の西大平藩を旗本から1万石の大名に取り立てられ寛延元年(1748年)立藩、この地を治めるにあたり陣屋を置いた、この後忠相は大名に成って3年後の宝暦3年(1751年)に死去、大岡家が7代引継ぎ明治を迎える。
 大岡家は定府大名で江戸常駐、当陣屋には郡代1人、郡奉行1人、代官2人、手代3人、郷足軽4、5人程度であった。(案内板抜粋)
 
 情報源は城郭放浪記さん古城盛衰記さんウィキペディアさんグーグルマップに依ります。
 

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岩崎城

企画展「激戦!岩崎城の戦い 若き英雄・丹羽氏重」

岩崎城の戦いで池田軍を足止めし、長久手の戦いでの家康の勝利を導いた丹羽氏重。
そんな氏重の行動や活躍にスポットライトを当てて、
岩崎城の戦いの全貌を紹介します。
丹羽家の史料を中心に展示、小牧・長久手の戦いの解説も行います。

【開催期間】2022年12月10日(土)~2023年1月15日(日)

期間限定で丹羽氏重の武将印も頒布しています!(2023年1月31日まで)

詳しくはこちら http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/kikaku.html

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ぴちょまる

赤穂城 (2022/11/25 訪問)

徳川の世になってから築城されたとされる。
五稜郭へ至る前段階という印象を受ける本丸の形状。
それはそうとして、ずいぶんと飛行機雲が多く、空にアクセントを加えてくれるので
写真を撮るのが楽しかった。

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朝田 辰兵衛

犬を擬人化??? (2022/11/27 訪問)

宅地造成工事で消滅。「犬のひとり歩きはいけません」というパネルが目を引きます。「犬のひとり歩き」という表現に初めて出会い,ツボりました。しかも,個人の作成ではないので,とても笑撃でした。

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トク

「秋月城」の紅葉と「黒田長興」 (2022/11/24 訪問)

城人特集で「紅葉が美しい城(西日本編)」に紹介されていた「秋月城」を訪れてきました。

ちょうど紅葉が見頃を迎えそうな時期だったので、平日にもかかわらず、多くの人が訪れていました。紹介の内容にあった黒門と紅葉のコントラストは確かにすばらしく、しばらく見とれてしまいました(写真①)。

秋月は、秋月氏が鎌倉時代より約400年治めた地でしたが、江戸時代に入り福岡藩黒田家の所領となり、黒田長政は三男の長興(ながおき)に5万石で分け与えます。そして長興は幕府に願い出て秋月藩を立藩し、その秋月氏の館跡に秋月城を築城しました(天守は無く、館と周りを門と石垣と堀で囲んだ城でした)。

実は長政は、長男の忠之の性格が傲慢わがままである事を憂い、もし忠之と黒田本家に何かあった場合に備え、黒田の家名が絶える事のないように、布石としてこうした対応をとったようです。そして長政死後、忠之は福岡藩を継ぎますが、その予感は見事的中! 忠之は勝手に軍船を作り幕府転覆まで計画、福岡藩存続の最大危機となった事件「黒田騒動」を起こします。しかし結局は、家老の栗山大膳が切腹覚悟で単身江戸に赴き幕府に直接嘆願、この結果、徳川家光は福岡藩と黒田家の存続を許し騒動は収まりました。

その後、島原の乱が勃発。幕府より秋月藩にも出陣命令が下ります。長興は2,000の兵で秋月城より出陣します。門の前の杉の馬場とその広場に軍勢が整列し、ここで出陣式があったようです(写真③④)。そしてこの島原の乱での長興と秋月藩の活躍を描いた出陣屏風・陣図屏風と、長興が着用した鎧兜などが隣接する秋月博物館(写真⑤)に展示されていました。

黒門と紅葉をくぐった先には、長興を祀った垂裕神社(すいようじんじゃ)があり(写真⑥)、館跡は、現在は秋月中学校の敷地になっていました(写真⑦:何と今どき珍しいレトロな木造校舎でした)。現在の杉の馬場には土産屋や露天が並び(写真⑧⑨)、確かに「筑前の小京都」と呼ばれるだけあって、落ち着いたたたずまいの街並みでした。私は、黒田長興の時代を空想しながら、ゆっくり楽しく散策させていただく事ができました(写真⑩:城下町散策MAP)。

〈アクセス〉
甘木鉄道または西鉄甘木線「甘木駅」下車、駅前からバス「秋月行き」で20分です。
 

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にのまる

えさし藤原の郷 (2022/11/26 訪問)

約3年前に平泉館(柳之御所)に行った際に立ち寄った伽羅御所跡でその存在を知り、いつか行きたいと思っていた念願が叶いました。うれしいです。
伽羅御所のほか、午前中に行ったばかりの豊田館、政庁、金色堂、各城柵などなど閉園時間ギリギリまで見てまわりました。ドラマのロケ地もそうだったのかー!と懐かしんだり、ホントに楽しくて、何度でも行きたいです。今度は「ガイドでポン」でスタンプラリーをしたいな。

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小城小次郎

「館」のイメージとは (2022/06/25 訪問)

三浦和田氏の一族である、中条氏の本拠だったところで、国史跡・奥山荘城館の中核をなす。「館」の持つイメージに惑わされてつい単郭方形の館だと思い込んでしまうが、少なくとも二重の堀に囲まれた「城」だったようだ。

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にのまる

館山史跡公園 (2022/11/26 訪問)

豊田館から移動しました。
旧後藤家住宅(写真⑨)へ寄ったあと館山史跡公園を目指して歩いていると「源義経公供養塔入口」の案内が。スルーすることができずに坂を下ってみました(写真⑧)
戻って夢乃橋を渡って岩谷堂城址(館山史跡公園)に到着です。土塁や空堀が残されており、ちょうど整備の方が入っておられました。藤原経清・清衡親子を顕彰する二清院の安らぎを感じる佇まいに、かの時代のさまざまなできごとを思いました。

今回の一泊二日の小旅行で行きたかったのはお城よりえさし藤原の郷と中尊寺でした。えさし藤原の郷は岩谷堂城からすぐ近くに見下ろせます。夢乃橋を戻ったところの広場から一気に下れる遊歩道があるようでしたが通行止めだったため、先ほど通った義経公供養塔の前の坂を下り、人首川沿いを夢乃橋を潜って行きました。こちら側(麓)から見ても遊歩道は通行禁止でした。

※夢乃橋は冬季(12月~3月)は通行止めです。
えさし藤原の郷の写真をたくさん撮ったので続きます!

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