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POYO58

瞬殺でしたね。。。 (2022/07/17 訪問)

にのまるさん、さすがです。っていうか実はにのまるさんの回答に書かれてあった漢字が何か全然わからなくて、逆に謎解きをされている気がしたのですが、漢字をバラバラにしたようですね。僕は頭が硬いのでそれには気づきませんでした。
さてサラッと新宮城を紹介したいと思います。新宮城は浅野氏によって築かれたお城です。歴史上でもそんなに有名ではないのですが、遺構が結構残っています。主な遺構は石垣ですね。切り込みはぎの隙間のない石垣が多く、枡形虎口もたくさんあります。また天然の要害でもあるので責めにくいお城だったと考えられます。場所的には和歌山県と三重県の境に近いのでややこしいですが、一応和歌山県唯一の続日本100名城です。
あと朝田辰兵衛さんの投稿にあったトイレですが、この新宮城には石垣のうえにトイレが立っています。最後の写真を参照。

イオさん、ご意見ありがとうございます。ハチ苦手本当に治したいですが、ちょっとスズメバチは無理ですね。イオさんの鎌刃城の投稿いいですね!観音寺城も素晴らしかったですが、イオさんの一日とことん〇〇城の企画が好きですね。どちらもかなりわかりやすかったです。観音寺城は体力不足で本丸に行かず下山してしまい、悲しかったですが、イオさんの投稿を見てまた行きたくなりました。鎌刃城もイオさんの堀切写真を見て行きたくなりましたねー。

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イオ

POYO58さん、くろもりさん

POYO58さん

お城クイズはすでににのまるさんが答えておられますので、山城の虫対策について。ありきたりな回答でしかありませんが、山城で虫との遭遇を避けるには冬場(晩秋から早春まで)に行くようにするのが一番かと。虫よけスプレーや蚊取り線香(パワー森林香がおすすめ)などの対策もありますが、完全に避けることはできませんし…。あとは長袖、長ズボン、手袋に帽子、首回りもタオルなどでガードして肌を露出しなければ、遭遇しても被害は避けられると思います。ハチが苦手であれば、服装は黒色系を避けるとかもありますが、スズメバチに遭遇したら即座に撤退! ですね。
それと、鎌刃城はヤマビル注意の山城なのでヤマビル対策も怠りなく(3月なら可能性は高くないとは思いますが)。私は車で行きましたが、公共交通機関利用なら米原駅からバスで「番場」下車が一般的なようです。


くろもりさん

昨年の江戸城登城時には、くろもりさんご紹介の「大江戸今昔めぐり」に大変助けられましたが、くろもりさんはもう城びとはご覧になってないのかな……とも思っていましたので、投稿が拝見できて喜んでおります。備中松山城の投稿……どんなだったっけ? と思って久々に読み返してみると、我ながらテンション高過ぎで呆れつつも、そうなってしまうほど見応え満載の城(と城下)だったよなぁ、と改めて。方谷先生との約束はまだ果たせていませんので、いずれ必ずや。
 

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野田福島の戦い (2018/10/10 訪問)

野田福島の戦いは、織田信長が1570年に三好三人衆の野田城を攻めた戦いですが、その後の何の発端になったのでしょうか?

文禄・慶長の役、石山合戦、応仁の乱の内どれですか?

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モト

多古城 深くて幅の広い空堀が一部残ってます。 (2023/02/12 訪問)

千葉の多古町の城跡です。
千葉氏のお城で、小高くなった台地の上に多古城の城跡があります。
深くて幅の広い空堀が一部残ってました。
光明寺を目指すと裏手の台地の上に空堀があります。
空堀の所に案内版がありました。

空堀に満足して帰ってしまったのですが、他に虎口や物見台跡が付近にあったよう。
残念、またの機会に行かなければと思います。

また、付近に多古藩陣屋跡がありましたのでそちらも合わせて行きました。
明治維新まで続いた歴史ある陣屋で、詳細は案内版をご参考に。
現在の小学校が跡地との事です。
陣屋跡の入り口に神社がありますが、その裏手にある石垣は当時の物なんだそうです。

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57century

大和豊田城 (2023/02/05 訪問)

初めて知った山城。

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todo94

献血前の攻城 (2023/01/04 訪問)

今回、青春18きっぷの残りでの行き先を三重にしたのは、四日市の献血ルームサンセリテでの献血のため。リニューアル情報を得ていこうと思っていたら、新型コロナウイルス感染症の所為でここまで延び延びになってしまいました。その献血前の攻城です。浜田城は都市公園として整備されていましたが、土塁などは残っていました。

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にのまる

広かった。 (2022/01/04 訪問)

午前中に岡豊城に行ってからの移動でした。
スタンプはいざとなったら武田石油さんにおすがりできるとは言え展示室にも行きたいし、何より明るいうちに城館跡や見性寺を見たかったので、①13:00高知駅で忘れずにキャリーバッグを出す②13:13南風16号に乗る③14:30阿波池田で剣山8号に乗り換える④15:37石井で徳島線に乗り換える⑤16:03佐古で高徳線に乗り換えるをクリアして16:15に勝瑞駅に降り立った時にはミッションだらけの一日が予定通りこなせたことにただただ感謝の気持ちでいっぱいでした。(翌日も続くのだが。)
勝瑞城は想像力が試されるのではないかとドキドキでしたが、立体復元された濠や枯山水庭園、礎石建物立体表示、発掘写真付きの説明板などで広場を歩きながらイメージしたり遺物の発見場所を知ったりすることができ、また、展示室の解説も詳しくて、国史跡として大切に守られていることを感じました。
三好氏4代の墓のある見性寺へも何とか明るいうちに行けました。土塁が少し残っていましたが、この場所の発掘調査結果にびっくりでした。

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赤い城

バンブーパラダイス (2023/02/12 訪問)

この日は海城サミットで金谷城の特別公開。
その前に立ち寄って見ました。
国道297号線沿いに光福禅寺への案内板があります。
駐車場に車を停めて歩きました。
駐車場からすぐに土塁があり、お寺周辺は内曲輪とされます。
道路沿いに主郭方面に進むと道路脇に空堀があります。
結構深い、降りてみると藪は許せるけど不法投棄のゴミが。
残念です。
めげずに主郭方面に進むと碑が立っていました。
入口が分からずとりあえず直登して主郭に。
見事な竹藪です。
土塁も付いていました。
主郭は堀が囲んでいます。
後で調べると四の堀とのこと。
ここも見事な竹藪でした。
再び主郭に戻ると説明板が立っていました。
この側が虎口のようです
城域はもっと広いので次はじっくりと攻めて見たい城でした。

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にのまる

Re:お城クイズ

立木斤ウ呂土成

でよいでしょうか(*'▽'*)

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POYO58

お城クイズ

さあ、ではまいりましょう。
今回はこれです。これはどこでしょう? これは比較的簡単です。これは櫓台ですね。たぶんにのまるさんだったらすぐわかってしまうと思います。

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ぴーかる

英賀城 (2023/01/25 訪問)

【英賀城】
<駐車場他>駐車場はなし。津田公園駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>英賀城の築城は永享年間(1429~1441年)に赤松祐尚(嘉吉の乱当事者の赤松満祐の弟)によって築城されました。私の覚書には主な城主にその弟の赤松則友が英賀城主となっているので嘉吉の乱の後、ごたごた城主が変わったのでしょうか。戦国時代後半には三木氏の支配することとなります。三木氏は毛利氏に同盟して毛利の軍勢を上陸させます。これを小寺孝隆がたたくわけです(英賀合戦)。別所氏が離反して毛利氏に付いたことで支援したが三木城落城後に織田軍の猛攻を受けて落城しました。
 上記公園に駐車し徒歩で広辻口跡石碑⇒本丸跡石碑⇒井ノ上口跡石碑⇒河下口跡石碑⇒岡芝口跡石碑⇒英賀城跡公園模擬石垣・野中口跡石碑⇒山科口跡石碑⇒英賀神社土塁の順で巡った。全ての虎口跡を巡ってはいないが、行った内を巡るだけでもかなり時間を要したので相当な規模の城だったことを思わせた実体験。

<満足度>◆◇◇

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侍ホリタン

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねて、掛川城 (2022/07/18 訪問)

駿府城からの転戦です。
今川氏の重臣朝比奈 泰煕公の築城が始まりです。豊臣政権時代には山内一豊公が城主となり、一豊公により天守が築かれました。堅固な造りで「東海の名城」と呼ばれ、江戸時代には譜代大名が城主を務め、将軍上洛時の宿泊所としても使用されました。1854年安政の東海大地震により天守が倒壊、再建される事なく明治維新を迎えました。現在の天守は平成6年に木造で再建されたものです。二の丸にある掛川城御殿は、全国に4つしかない現存する城郭御殿の一つで貴重な建物です。
私が訪問した時には天守閣の修復工事のため、天守閣周辺に立ち入ることができませんでした(令和5年1月31日終了予定)。掛川城御殿には入場できました。

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カズサン

【三河・岩津城】愛知県岡崎市 見応え有る松平3代信光築城山城 (2023/02/12 訪問)

 以前より気に成り登城予定に入れて居りました、城郭放浪記さんの令和5年1月登城履歴に載り岩津城が更新され、写真も追加更新されており拝見すると竹林、樹木の伐採整備が成され見学探訪し易く成ってる様に見受けましたので早速初登城しました。

 住所:愛知県岡崎市岩津町字東山
 駐車場:岩津天満宮乗用車駐車場利用(岡崎市岩津町東山52-4)(35°0'17"N 137°10'36"E)
 案内、情報、縄張図は城郭放浪さんとグーグルマップに依ります。

 駐車場が岩津天満宮の南真下でしたので、先ずは参拝させて頂きました、時期的に合格祈願参拝の家族お子さん連れが多く参拝されて居ました。岩津天満宮からは岩津城が下に低く見えます。
 
 登城口は天満宮下の鳥居から東名高速に架かる橋を西に渡り、北から登って来る道と交差して直ぐの山手に登城口があります、案内看板、縄張俯瞰図、ストックも準備されて居ます。比高は50mと出て居ましたが20m位、丁度降りてこられた方に伺うと比高50mは下の集落からの高さですと、岩津城を整備管理推進されている方の様でした、若干会話して情報を頂く。
 城郭放浪記さんの縄張図を見ながら探訪開始、横堀2を観ながら曲輪Ⅱへここは馬出の様、曲輪Ⅲを見渡して、主郭曲輪Ⅰの土橋へ結構長い、左右の空堀は深くて広い、主郭曲輪Ⅰの虎口と左右に土塁、左の西側土塁は高く城名石碑が建っている、主郭中央に岩津城の解説文がケースに入って掲示されている、また大きめ透明プラボトルに岩津城案内解説の1枚チラシが丸まって入ってる、1枚頂く。
 主郭北西側に曲輪Ⅳ、曲輪Ⅳ西から横堀1を見下ろす、曲輪Ⅳの西下に曲輪Ⅴ、南西下に集落が有りチラシの解説によると他集宅地に成って居るが元は岩津城の南西部城域だったそうです。横堀下辺りから別の登城口が有り集落に降りる。
 東面は東名高速と成り岩津天満宮に成ります。
 南東角の登城口からは比高も低く、竹林、樹木伐採整備されて大変見やすく歩き易く成って居ります、整備は3月末まで続くようです。

 歴史的には1400年代初頭、松平泰親(2代)、信光(3代)によって築城し三河の田園地帯進出を狙ったのでしょうか?信光は18松平の祖と成って居り松平繫栄の基を築いたようです。岩津城から安城城攻略進出、宗家安城松平氏へ。
 家康桶狭間合戦後の三河統一、本能寺の乱以後の秀吉との対立で岩津城は改修されて現在の城郭構造になったようです。(案内チラシによる)

 数年前より何時か登城へと思って居た願いが叶い、また素晴らしい山城を探訪出来、地元「岩津松平輝きの600年」推進懇話会さん、何時もの城郭放浪記さんに感謝申し上げます。
 写真は50枚くらい撮りましたが中々絞り切れませんが10枚投稿します。
 

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侍ホリタン

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねて、駿府城 (2022/07/18 訪問)

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねる旅、2日目は駿府城からです。
徳川家康公により1589年(天正期)に天守、二ノ丸まで完成していました。1607年(慶長期)に天下普請工事による拡張工事が行われ、三重の堀を持ち5層7階の新たな天守を持つ城に生まれ変わりました。将軍職を息子の秀忠公に譲った家康公は、大御所として駿府にて晩年を過ごす事になります。
現在、天守台跡の発掘調査現場を見学できます。明治時代に陸軍によって天守台が壊され堀も埋められて更地になっていましたが、発掘調査によって出現した、石垣、堀、新たな天守台(徳川家康公が征夷大将軍となった慶長期の天守台)を確認出来ます。慶長期の天守台は天正期の天守台を凌ぐ大きさで東西約61mx南北約68m、日本一大きなものであることがわかっています。

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タック

国宝5城制覇 (2023/02/09 訪問)

高校生の時に松本城を訪れ、何年もたった今年、ついに松江城を訪れ国宝にしていされている5つの城すべてを訪れた記念すべき城。
天守の美しさと裏腹に内部は守るための仕掛けが豊富にあり非常に楽しめます。

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トク

㉑【関ケ原の26人】(12)田中吉政 (田中吉政と岡崎城 [二十七曲り]) (2023/02/10 訪問)

(12人目)は「田中吉政」です。
関ケ原当時の居城があった「岡崎」を訪れてきました。

しかし今の岡崎は家康ブームの真っただ中! このような状況の岡崎で吉政の痕跡を探している私は空気が読めない人間なのでしょうか? しかしそんな中で吉政の痕跡を見つけました! それは「二十七曲り」です(写真①-⑤)。

1590年に秀吉の命により岡崎5万石(後に加増10万石)の城主となった吉政は、岡崎の北にあった東海道を城下を通るように変更し、その道に二十七の曲がり角を設け東側に武家屋敷を配置し攻めにくい城郭都市に改造していました。吉政は総石垣にして天守を構築し、川の流れを変え、北には堀を配置し、街全体を総構えににしたようです(写真⑥⑦)。

またその一方で反対側の西側には商人や職人を住まわせ、矢作川に橋をかけ城下を通る東海道の人の往来を盛んにするなどし経済も発展させました。吉政は豊臣秀次の家老時代にも八幡山城の町割を行い、そこに安土の商人を招き入れ近江八幡を城郭都市にしています。そういう行政手腕にはどうやら長けた人物だったようです。

よって岡崎を有名にしたのは家康ですが、城下町発展の基礎を築いたのは吉政という事になるのでしょうか? 家康の時は三河統一(一向一揆)や今川との戦でそれどころではなかったのかもしれませんね。

次は(岡崎城)へ入り吉政の痕跡をもう少し探してみようかと思います。

【余談】八丁味噌
岡崎の街を歩くと、右も左も「八丁味噌」の看板だらけ。家康もこよなく愛したと聞いたので、途中でお腹もすいたし「八丁味噌ラーメン」の店に入り食べてみました。(なかなかこくと香りがあり美味でした😊)(写真⑧)
 

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小城小次郎

土の城の美の極致か (2022/09/25 訪問)

一迫川を臨む絶壁上に東西に長く曲輪を連ね、北西には二重の横堀を構えるその姿には土の城の美の極致との呼び声も。奥州藤原氏時代の伝承を持つが最終形は葛西・大崎一揆時代らしい。いずれにしてもここは激戦地だったのだろう。

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todo94

小さな城山 (2023/01/04 訪問)

近鉄富田駅から徒歩でアプローチしました。近鉄線沿いに土塁よりも小さな小丘があり、城址碑、説明板が整っています。城址碑は目立っていませんし、説明板も「城山の梛の木はご神木」の方が目立っている感じです。この場所は城の主郭の北西郭に当たるとのことです。

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赤い城

田間城 千葉県東金市 (2023/02/11 訪問)

東金駅から徒歩で15分くらい。
田間神社背後に位置します。
東金城と同じく酒井氏の城です。
神社左手から登って行きます。登城路も付いているので歩きやすくなっています。
登城路を進むと竪堀を見上げ、さらに行くと門の跡があり、その上が主郭のようです。
主郭と副郭の間に堀が切られ、奥に神社と標柱がありました。
見どころはこの先。
副郭に沿って進むと竪堀や横堀を見ることができます。
この時季でもやや藪かな。
西側の物見台にも竪堀が切られていました。
東金城が今のところ不完全燃焼なので訪れた際には立ち寄って頂きたい城です。

宗春さん、金谷城の海城サミットいらしてたのですね。
私も参加しました。
下の横堀や堀切が気になりました。
いつか歩ける日が来てほしい。
眺望もよくいい物見せていただきました。
レポートは後日。

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朝田 辰兵衛

越後はしんしんと雪が… (2022/12/18 訪問)

18きっぷの2日目。越後帰還日。キャリーバッグを引きずりながらスタート。駅のアナウンスで手鼻をくじかれました。某芸人が語っていた“関東最強の埼京線”が,上下線運転見合わせのハプニング。山手線方向に向かうのを断念しました。
結局,JR茅ヶ崎駅から相模線で西へ向かうことにしました。前日に見ておきたかった梶原景時館へと。
この時,越後はしんしんと雪が降り始めており,3日間降り続きました。長岡市や柏崎市では,国道で車両が立ち往生。
自宅着は日付が変わっていました…。

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