大垣市から上石津町にかけては関ケ原の戦いにおける「島津の退き口」の舞台となった地であり、あちこちにあるゆかりの史跡をめぐってみました(上石津郷土資料館でガイドマップが配布されています)。実際には上石津町から関ケ原へと退却ルートを逆にたどっていますが、ここでは時系列に沿って投稿します。
島津義弘陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原)
関ケ原の戦いにおいて西軍総崩れにより戦場に孤立した島津義弘隊は、敗走する西軍諸隊で溢れる後方の北国脇往還でなく、敵中を突破して前方の伊勢街道から退却することを決意。福島正則隊を突破し、徳川家康本陣をかすめて、前代未聞の前進退却を敢行しました。
烏頭坂(岐阜県大垣市牧田)
井伊直政・松平忠吉隊の激しい追撃に対して、烏頭坂で副将の島津豊久が捨て奸(本隊を逃がすために小部隊が全滅覚悟で留まって追手を足止めする決死の戦術)により迎撃し、義弘本隊は逃れたものの、豊久はこの地で討死したとも、重傷を負って伊勢西街道を逃れたとも伝わります。道路沿いに烏頭坂の説明板が、坂の上に島津中務大輔豊久之碑が建てられています。
琳光寺(岐阜県大垣市牧田)
なおも追いすがる井伊直政・松平忠吉隊に対し、牧田上野で家老の長寿院盛淳が捨て奸を行い、盛淳は義弘から賜った陣羽織を身に付け「我こそは義弘也」と名乗りを上げ身代わりとなって討死しました。牧田の琳光寺には長寿院盛淳の墓の説明板、宝暦治水の際にこの地を訪れた薩摩藩士が盛淳を偲んで刻んだ五輪塔と子孫が建てた顕彰碑があります。また、大垣市役所牧田支所の南東隅にも盛淳の顕彰碑が建てられています。
白拍子谷(岐阜県大垣市上石津町上多良)
烏頭坂を逃れた豊久は勝地峠で追撃を振り切って白拍子谷に隠れましたが、傷は重く、退却の足手まといにならないようこの地で自刃したと伝わります。谷の入口付近に白拍子谷の石碑と説明板が建てられています。
瑠璃光寺・島津豊久の墓(岐阜県大垣市上石津町上多良)
豊久の亡骸は薬師寺(現在の瑠璃光寺)で手厚く葬られ、裏手の森(カンリンヤブ)に五輪塔が建てられました。現在も瑠璃光寺は豊久の菩提寺として位牌が祀られ、カンリンヤブの五輪塔は豊久の墓所として島津塚と呼ばれています。
そして、島津豊久や長寿院盛淳らの勇戦により伊勢東街道を逃れた島津義弘は、駒野峠から五僧峠を越えて近江に抜け(諸説あります)、多大な犠牲を払いつつも薩摩への帰国を果たしました。
…それにしても、敵中突破やら捨て奸やら壮絶極まりない「島津の退き口」ですが、捨て奸も各々自発的なものだったと云われますし、
島津義弘はこの人のためなら命も惜しくないと思わせるだけのものを持った将だったんだなぁ、と改めて。してみると、鬼島津と恐れられた義弘隊の精強さは、義弘自身の勇猛さはもちろんながら、根底にこの結束力あればこそだったのかもしれませんね。
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