(12人目)「田中吉政」の続きです。
「田中吉政陣跡」と関ケ原後の居城「柳川城」と墓所「眞勝寺」を訪れてきました。
田中吉政の陣は何と徳川家康最後の陣のすぐ横にあったので驚きました(写真①②)。井伊直政より家康に近い場所です。何故だかよくわかりませんでしたが、家康の方が後から入ってきたので、たまたまだったのでしょうか?
吉政は黒田長政・細川忠興らとともに石田三成を攻めます。そして、石田三成が敗走すると、吉政は家康から「三成を捕らえよ!」と命を受けます。そして小谷にて岩窟に隠れていた三成を捕らえました。しかし吉政は、あまりにやつれた三成の姿を見てすぐには家康の元へは届けず、ニラ粥(かゆ)を与えたりして回復するまで待ってあげたようです。その間、同じ近江の出身で気心の知れた同士、昔話や近江の話などをして語り明かしたとか・・・ そして三成は「捕まったのがそなたでよかった」と秀吉よりいただいた脇差を、この礼として吉政に授けました。吉政は縛るなどの荒い事はせず、丁重に家康の元へ送り届けたそうです。何か美しい男の物語だな~と思いました。
田中吉政はこの功績により、三河(岡崎)10万石から筑後(久留米・柳川)32万石へ加増転封となり立花宗茂がいた柳川城に入ります(写真③④⑤)。そしてまた得意の手腕を発揮! 今ある柳川の掘割・堀川は吉政が築きました(おかげで柳川は水郷と呼ばれるようになり川下りが有名になりました:写真⑥⑦)。その後、吉政は62才で病没し城下の眞勝寺に葬られました。そして子の忠政に嫡子なくわずか2代で田中家は断絶、その後は宗茂が再び旧領柳川へ復帰します。
私は眞勝寺の墓所の前に立ち考えてみました(写真⑧⑨⑩:墓は本堂の中)。吉政はなぜ東軍についたのでしょうか? 彼は文治派の武将、ゆえに本当は本意ではなく、回りにいた長政・正則・輝政などの諸将たちに押されて逆らう事もできず、不本意ながら成り行きでそうなってしまっただけなのではないでしょうか? ゆえに豊臣への思いを前面に出し、先頭に立って戦っていた三成の姿に、実はあこがれていたのかもしれません。そして今頃はあの世でまた三成と近江の話で盛り上がってるのかもしれませんね。
よって私は、この三成を丁重に扱った田中吉政に「好プレー賞」をあげたいと思います😊!
次は、(13人目)へ続きます。
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