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トク

㉔【関ケ原の26人】(12)田中吉政 (田中吉政陣跡と柳川城(眞勝寺)) (2023/02/02 訪問)

(12人目)「田中吉政」の続きです。
「田中吉政陣跡」と関ケ原後の居城「柳川城」と墓所「眞勝寺」を訪れてきました。

田中吉政の陣は何と徳川家康最後の陣のすぐ横にあったので驚きました(写真①②)。井伊直政より家康に近い場所です。何故だかよくわかりませんでしたが、家康の方が後から入ってきたので、たまたまだったのでしょうか?

吉政は黒田長政・細川忠興らとともに石田三成を攻めます。そして、石田三成が敗走すると、吉政は家康から「三成を捕らえよ!」と命を受けます。そして小谷にて岩窟に隠れていた三成を捕らえました。しかし吉政は、あまりにやつれた三成の姿を見てすぐには家康の元へは届けず、ニラ粥(かゆ)を与えたりして回復するまで待ってあげたようです。その間、同じ近江の出身で気心の知れた同士、昔話や近江の話などをして語り明かしたとか・・・ そして三成は「捕まったのがそなたでよかった」と秀吉よりいただいた脇差を、この礼として吉政に授けました。吉政は縛るなどの荒い事はせず、丁重に家康の元へ送り届けたそうです。何か美しい男の物語だな~と思いました。

田中吉政はこの功績により、三河(岡崎)10万石から筑後(久留米・柳川)32万石へ加増転封となり立花宗茂がいた柳川城に入ります(写真③④⑤)。そしてまた得意の手腕を発揮! 今ある柳川の掘割・堀川は吉政が築きました(おかげで柳川は水郷と呼ばれるようになり川下りが有名になりました:写真⑥⑦)。その後、吉政は62才で病没し城下の眞勝寺に葬られました。そして子の忠政に嫡子なくわずか2代で田中家は断絶、その後は宗茂が再び旧領柳川へ復帰します。

私は眞勝寺の墓所の前に立ち考えてみました(写真⑧⑨⑩:墓は本堂の中)。吉政はなぜ東軍についたのでしょうか? 彼は文治派の武将、ゆえに本当は本意ではなく、回りにいた長政・正則・輝政などの諸将たちに押されて逆らう事もできず、不本意ながら成り行きでそうなってしまっただけなのではないでしょうか? ゆえに豊臣への思いを前面に出し、先頭に立って戦っていた三成の姿に、実はあこがれていたのかもしれません。そして今頃はあの世でまた三成と近江の話で盛り上がってるのかもしれませんね。

よって私は、この三成を丁重に扱った田中吉政に「好プレー賞」をあげたいと思います😊!

次は、(13人目)へ続きます。
 

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赤い城

佐久山小学校裏手の御殿山公園 (2023/02/19 訪問)

佐久山小学校裏手、御殿山公園周辺が城跡です。
公園の前に駐車場があります。
北側の曲輪周辺は公園として整備されており、歩きやすいです。
深い堀底道があり、北側の小学校方面に竪堀となり落ちます。
南の曲輪はバラ、ボタン園ですが冬なので花は無し。
こちらが主郭なのでしょうか。
見どころはこの曲輪を囲む空堀。
未整備で倒木も多いですがこの時季なら歩けます。
深さもかなりのものでした。
さらに東側へ続く動線も横堀となっていました。
那須泰隆が築城し佐久山氏を名乗ったのが始まり。
その後佐久山氏は滅亡しましたがその後福原氏が陣屋を構え、ここを居城としました。
花の咲く季節に公園散歩で訪れるのも良いと思います。

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首里城公園

「琉球の華みぐい~王国を彩る華々に、春の訪れを感じて~」 (2023/02/23 訪問)

期間中は歓会門前広場をブーゲンビレアやマリーゴールドなどで装飾し、カラフルなお花に囲まれたフォトスポットもご用意しています。2月~3月はお花いっぱいの首里城公園で過ごしてみませんか。

イベント「琉球の華みぐい~王国を彩る華々に、春の訪れを感じて~」
開催期間 2023/02/18(土)~2023/03/12(日)
開催時間 08: 30 ~ 18: 00
(開園時間は、無料区域8:30~18:00・有料区域9:00~17:30。入場券販売締切17:00)
会場 首里城公園
住所 那覇市首里金城町1丁目2
料金 入場料(有料区域):大人400円、高校生300円、小中学生160円

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三浦の晃ちゃん

御城印は、注意が必要 (2023/02/22 訪問)

司馬遼太郎さんの小説「峠」の舞台のお城です。新政府軍に抵抗したからか、施設は、石垣や堀などを含めて、全くありません。ここまで、跡形もないところも少ないのではないでしょうか。本丸跡でと二の丸跡に石碑があります。また、御城印は、本丸のものと二の丸ののものがあり、売り場が別になっています。本丸用は、長岡駅改札を、出てすぐの、観光案内所にあります。二の丸用は、アオーレ長岡という別名のある市役所の二階にあります。

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小荷駄

河村城跡 (2023/02/04 訪問)

城跡は歴史公園として整備させており駐車場とトイレは北側と東側に二ヶ所有ります。城跡東側下には館跡もあり合わせて散策しました。数年前に来た時よりも更に整備が進んでおり足元も良く歩きやすく遺構も見やすくなっておりました。そして何より駐車場からすぐなので山城なのに楽々と散策出来ました。

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ぴーかる

多喜山城 (2023/02/04 訪問)

【多喜山城】
<駐車場他>日向山登山口駐車場を利用。
<交通手段>車

<見所>枡形・眺望
<満足度>多喜山城の築城者・築城主ともはっきりしませんが、在地土豪かあるいは織田信長が佐々木六角氏攻略の為に築いた城との説もあります。
 麓の登山口駐車場から山頂まで石の階段が通っています。721段と多いですが山城マスターの方なら有難い楽なもんです。城跡の遺構も山頂の主郭部分しかないようで、広い削平地に東と西の虎口、土塁枡形、石垣のほんの一部が残されています。北西方向の眺望が素晴らしいです。

<満足度>◆◆◇

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todo94

戸畑図書館と若戸大橋 (2023/01/28 訪問)

岩国城の城カードを手に入れるための西下で続100名城のスタンプは小倉城を狙っていたところ、にのまるさんの投稿を拝見して戸畑図書館前の記念石を見に行きたくなって急遽、赴くことにしました。黒田六端城の若松城は若戸大橋の直下あたりに存在していたとのことなので、小雪舞う冷え込みの中、若戸大橋にも脚を伸ばしてみました。

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赤い城

麓からも望める大堀切 (2023/02/18 訪問)

お丸山公園となっています。
麓には駐車場もあり、大手門が模擬ですが復元されています。
公園へ登って行くと途中の斜面に竪堀状のくぼみも見られます。
主郭と二郭、二郭と三郭の間には深い堀切が切られています。
まずは三郭へ、さらに先のスカイタワーが建つあたりが外郭で三郭との間には堀が切られています。
この堀は竪堀となって落ちていました。
この後二郭、主郭と戻って行きました。
主郭からは喜連川の街も見渡せます。
以前はスカイタワーや温泉施設で賑わっていたようですが東日本大震災で閉鎖とのこと。
桜の季節には綺麗な風景が見られそうです。

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にのまる

播磨灘を望む (2023/01/05 訪問)

一宮城登城を終えて路線バスで徳島駅に戻り、JR高徳線特急で引田駅へ。
いにしえの空気漂う町並みの中の讃州井筒屋敷で続100名城スタンプとパンフレットをいただいてから、城址の山容を仰ぎつつ引田港側登山口へ向かいました。

ところどころに岩盤のある遊歩道を進み、見晴らしのよい狼煙台跡を経て本丸へ。やがて見えてきた石垣は、現状から完成形を想像するのは難しかったですが、がっつりお守りするぞという風体が思い浮かびました。
ここから天守台までは70メートル。
「南の郭」「城山82.3m」の表示、祠、三角点。これらが本丸であることを示してくれているのだろうと思いつつ歩くとベンチのある展望所に出ました。遠くまで見渡せ、且つ港の様子も手に取るようにわかる一等地。本丸の説明板には天守台推定地とありましたが、遺物の発見により城内には瓦葺の礎石建物があったことが確認されているそうで、城下からも日夜仰ぎ見られていただろうなと想像できる場所でした。

続いて化粧池に向かいました。約250メートルの下りです。道幅があまり広くないところもありこの時季でも下草が繁っていたので、夏場などは草の下に地面があるかストックや杖(登城口にありました)などで確認しながら歩いたほうがいいかもしれません。
化粧池は今なおその形状を留めており、茂みの中から石垣が覗いています。海が近くても飲料水やお姫様の“化粧”のための水の確保は別問題。苦労のあとがうかがえました。
ここまできたらそのまま引田鼻灯台へと突き進みます。化粧池から230メートル。今も昔も海の監視と航海の安全を守る大事な場所であることがわかりました。

灯台から東の丸を抜けて、上下二段の石垣が残るという北二の丸へ。上段の石垣はシートで覆われていましたが下段の石垣が見られただけで満足でした。この曲輪は大手門の近くで御殿があったと推測されるとのこと。建物はなくても残された石垣に充分に威厳が感じられました。
最後に80メートル先の北曲輪へ。ここは織豊期以前の土づくりの遺構と考えられているとのことでした。

ぐるっとまわって1時間。見学ポイントの一つ一つがその時代の息遣いを映し出しているように感じました。
ただ……、ほんの数時間前に一宮城で帰りのバスに乗るために300メートルダッシュをしたばかりなのに、ここでも時間配分を考えていなくて1時間に1本の特急に乗るために猛ダッシュ。登城口から駅までは10分で駆け抜けました。二度と無理。いやでもまたきっとやる。

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小城小次郎

砦という名に惑わされるが (2022/11/03 訪問)

砦という呼称に惑わされるが発掘成果を踏まえて復元整備された姿はどこからどう見ても方形館。長野氏の勢力範囲にあって長野氏一門の中に新波を名乗る人物も見られるようだ。隣接するお寺には大永銘の石造物もあるらしい。

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ぴーかる

青地城 (2023/02/04 訪問)

【青地城】
<駐車場他>小槻神社駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>土塁・堀切
<感想>現地説明板によると青地城は鎌倉時代中頃に近江守護佐々木定綱の孫基綱が青木氏の養子となり、その子の忠綱が青木城を築きました。戦国時代には佐々木六角氏に属していましたが織田信長の進攻により青木氏は城を放棄して廃城となったそうです。
 城跡主郭部分はおそらく志津小学校になっているようですが、南側の横堀と<35.002009, 135.976747>辺りから堀切に入ることができます。堀切は深さがあって土塁は高さがあり見応えあります。土塁を登ると、ちょうど城跡の南西隅にあたる場所が小学校のフェンス外側にあり、城跡碑が設けられています。何故か小学校の校舎側に城の説明板が向けられていて、少し身を入れて撮影させてもらいました。残る遺構は少ないですが深い堀切・高い土塁は見事です。

<満足度>◆◆◇

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カズサン

【三河・織田信長本陣】愛知県新城市 チョイ寄り (2023/02/12 訪問)

 岩津城跡を目指して新東名走行中に長篠設楽原PAにトイレ休憩、久し振りにPAに隣接してる織田信長戦地本陣跡にチョイ寄り登城しました。下り線PAからは気軽に寄る事が出来ます。
 茶臼山頂上には茶臼山稲荷神社、案内板、信長が詠んだ歌碑「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」が建ち、今回は南の帯曲輪かなと思われる曲輪の草が刈られて居り曲輪を確認する事が出来ました。
 また、長篠設楽原合戦の南東側は杉林の植林が深く望み様が有りませんが、PA側の登り口に長篠設楽原合戦の解説板が有りその解説の中に長篠設楽原合戦俯瞰図が掲載されて居りますので眺めて空想するのも宜しいのでは?
 新東名を走行下り線では気軽に訪ねる事の出来る「織田信長戦地本陣跡」です。

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朝田 辰兵衛

正解できて安堵しました…<笑>。 (2022/12/18 訪問)

赤い城さんのクイズ,難易度が高かったですが,2度目で正解できて安堵しました。
実は,こんなヒントいただいて,もし正解できなかったら「煮るなり焼くなり…」かと。
ン?「煮るなり焼くなり…」といったら「二宮…」。ということで「二宮城」。
なんとかつなげたこの言い回し,嵐ファンのにのまるさんに喜んでいただけたら幸いです…<笑>。

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トク

㉓【関ケ原の26人】(12)田中吉政 (岡崎城大河ドラマ館) (2023/02/10 訪問)

(12人目)「田中吉政」の続きですがちょっと寄り道します。

せっかく岡崎城まで来て、カズさんら東軍諸将の方々のおすすめ記事もありましたので、思い切って「大河ドラマ館」へ潜入してみる事にしました(写真①②)。西軍の残党である事がばれぬよう、そろりと身を隠しながら入口付近まで近づいて行くと急に何やら殺気が! 振り返ると家康の銅像が私を鋭く見下ろしていました(写真③)(くせ者ではござりませぬ~何卒御容赦を~😭!)。そして九州弁をひたすら隠しながらチケットを購入し、いざ密かに潜入します😎!

中では、ドラマのこれまでのストーリーや登場人物が紹介され、使われた衣装や家康が大高城で身につけた金の鎧兜などが展示されていました(写真④⑤)。中でも関ケ原のコーナーは広くスペースが割かれていました(ばり銭をばかけとんしゃ~あごたるなあ🤔)。大型スクリーンに10分間の映像が流れ、その下の動くジオラマとともに、合戦の様子が家康の語りで解説されていました。(ここは撮影不可のため、写真でお伝えできないのが残念です)。大河ドラマ館の方々も、後半最大の山場はやはり関ケ原だと思ってこのようなものを作成されたのでしょうか・・・?(やっぱあげんしも関ケ原っち思うちょるげな🤔)

(ムフフ😎 こりゃ~ちかっぱよか展示ばい!😊)

次は、(田中吉政陣跡と柳川城)へ続きます。
 

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赤い城

熊野神社の裏手に (2023/02/18 訪問)

熊野神社に駐車場があります。
神社向かって左手から登って行きます。
この時季は藪もなく下草も刈ってあるので歩きやすいです。
本丸直下に堀があり、その東側には二重の堀切があります。
本丸下の堀は本丸を囲むようになっています。
西側は広めの堀があり、その外側にも堀のような地形がありました。
説明板や石碑もありませんが遺構は残っている城でした。

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小城小次郎

味わい深い見所が満載 (2022/10/16 訪問)

発掘された天守台と復元櫓群、更には博物館の開館と話題に事欠かない駿府城だが、植物に埋もれた人名刻印石やビルに埋もれた石垣や、地味にカラータイル表示されている大手礎石等、味わい深い見所が満載なのだ。

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ぴーかる

千石堀城 (2023/01/29 訪問)

【千石堀城】
<駐車場他>せんごくの社 里山駐車場<34.418059, 135.370135>十数台駐車可能
<交通手段>車

<見所>堀
<感想>千石堀城は石山合戦の後に根来寺の支城の一つとして根来衆によって築城されました。北東に近木川が流れており畠中城・積善寺城・千石堀城が近木川のすぐ南西側にあることから近木川が根来衆・雑賀衆の防衛ラインだったことがよく分かります。1585年豊臣秀吉軍の猛攻を受け(千石堀城の戦い)双方多数の死者を出して落城しました。
 城の範囲は三ノ丞山と呼ばれる南北2㎞が城跡と思われているが北側3分の1程から分断されていて(かつては堀切だったのを現代に削って道にしたか?)範囲はよく分からない。城跡入口から重機の通ったような広い道があったので不思議と思ったらやっぱり主郭の北側に大きなユンボが置いてあり、主郭西側が削られ改変されていました。主郭の東側は生き残っており2重の堀や傾斜のある曲輪が残っています。分断された南側にも行ってみました。切岸を登ると折れた石碑と説明板があります。尾根上を南に下っていくと堀切があって丘陵上ピークに竹林が整備された削平地があります。東側に牛神池があります。かつては城の一角ではあったかもしれませんが、瓦が落ちていたので近世にここに家があったかもしれません。

<満足度>◆◆◇

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カズサン

【尾張・浅野城】愛知県一宮市 浅野長政公宅跡 (2023/02/12 訪問)

 浅野長政公宅跡として浅野公園として整備されています、養父長勝、秀吉の妻寧々などの思いも詰まる屋敷跡庭園です。
 奥殿陣屋、岩津城跡を終えて高速の豊田東ICが数km程の距離で移動に大変便利、西に約60km程、一宮ICを降りて北へ3km程の所に浅野公園・浅野長政公宅跡が在ります。

 住所:愛知県一宮市浅野八釼(浅野公園)
 駐車場:浅野公園駐車場12~13台可能、浅野公園手前の通り沿い北(35°17'46"N 136°49’40”E)

 城域は南東側南に張り出し、北側西に張り出し、北東は入角を周囲全周を水堀で覆ってる、大正6年に整備し水路は元堀跡の名残、水堀として整備もされる、公園としてツツジが植栽されて居り時期には綺麗に咲くでしょう、また藤棚も有り時期が待たれます。
 北側奥には小高く土が盛られて石碑が有り元屋敷が在ったそうです、その西側に寧々の歌碑(「たちばなを 庭のまがきに 眺むれば 雲井の花を 恋しくぞ思う」天正16年1588年4月後陽成天皇聚楽第行幸を後に偲んで詠だ和歌)、寧々の水なる井戸が在り掘り起こされた時に出てきた神石と共にまとまって整備されて居ます。
 更に西に長政公も好きだった囲碁の石碁盤も露出展示、夫々には解説板が付いています、西の隅に小山が有り傘亭(カラカサテイ)、この小山は狐山と呼ばれ、養老山脈、伊吹山が眺められる風光明媚な場所との事、更に西張出の南角に手植杉が有り浅野家の最終の藩は芸州広島藩ですが、最後の藩主浅野長勲(ナガコト)の手植杉と碑と一緒に在ります、他各界各氏の手植杉も有ります当時の海軍大将加藤友三郎後の総理大臣等。
 中心部は広場に成って居り見学時は子供達が遊んでいました、東側には一宮市浅野老人いこいの家、その南は寧々晩年の京都高台寺からの寄贈でシロヤブツバキ、ホンキリシマツツジが植わって居ます。

 城びと登録の濃尾平野には戦国武将の館、屋敷、城が多くありますが車で回れて、一に駐車場の心配があり未だに回り切れていません、そんな中数年前から城郭放浪記さん城郭案内写真館を眺めて居り、浅野城浅野長政屋敷がヒットして駐車場も有り、平城、高速道ICからも近いと、此処を拠点に濃尾平野の城々を廻ろうかと温めていた城跡でした。
 情報は城郭放浪記さんグーグルマップに依ります。
 

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todo94

岸岡山緑地 (2023/01/05 訪問)

近鉄千代崎駅から徒歩にてアプローチしました。古墳としての形状はとてもはっきりしているのですが、空堀となるとちょっと微妙な感じです。岸岡山緑地の南側のエリアも恐らく城地なのでしょうが、ちょっと踏み込んでみて遺構を見つけられそうな気配が感じられなかったのでこれにてこの日の攻城を完了といたしました。

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T-Shionoya

縄張図に刺激され栗橋城へ (2022/12/31 訪問)

個人的には、北条氏照が関宿城攻めの拠点とした小田原北条氏の支城というイメージがある茨城県五霞町の栗橋城。
ほとんど遺構がない認識でしたが、江戸期に書かれた縄張図に刺激され、昨年末に行ってきました。

今は権現堂川(元渡良瀬川・太日川)の東岸に位置する栗橋城。
河川工事前は対岸まで城郭の一部であったとも伝わり、川は今より西側を流れていたのでしょうか。
いずれにしろ川辺の微高地に築かれた城で、鎌倉街道中道の通り道でもあり、陸路と水運の要衝だったことでしょう。

古河公方設立の1500年代中頃から約100年間、その重臣の野田氏の居城。
その後、北条氏照の手に渡り、改修されたでしょうか。秀吉の小田原征伐後、しばらくして廃城となりました。

現在は北外郭の南部から東外郭付近の遺構を残すのみ。
訪問時は、中まで公開されている雰囲気ではなかったため、法宣寺から七曲りの堀を眺めるに留めました。

堀は写真以上に深く、向こう側(城内)は1段高い印象。
江戸期に描かれた「築城規範」を見ると、各虎口が馬出や桝形で守られた魅力的な城。
その仕掛けを直接見ることはできませんが、残る堀が嘗ての巧妙な城を今に伝えているような...
そんな周辺含め約2時間の栗橋城訪問が、私の城巡りの139城目でした。

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