ふたみじょう

二見城

奈良県五條市


旧国名 : 大和

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しんちゃん

二見する? (2024/02/24 訪問)

二見には二度見する、振り返ってもう一度見る、みたいな意味もあるようです。じゃあ、その辺にセクスィ~なお姉さんが‥(いません!)
あついっすねー! 最近、あまりの暑さに言動が少し怪しくなって来ています。そう、全ては暑さのせい。
二見城は吉野川にせり出した台地の上に築かれていました。妙住寺のあたりが本丸跡で、南側は二の丸跡になります。妙住寺の御勝手口から入っていくと、吉野川が見え、城址跡としての雰囲気を味わうことが出来ます。
二見城の始まりは南北朝時代に南朝に味方した二見氏の居城とされています。戦国時代、筒井氏三家老の一人であった松倉重政が豊臣秀吉に仕え8千石を領し、慶長13年に1万石に加増され、現在の二見城を築いたとされています。
松倉重政は五條では良政を敷きましたが、大坂夏の陣の功績で肥前日野江に4万3千石で移封すると、石高に似合わない島原城を築いたり、領民から過酷な取り立てを行いました。また、キリシタンの弾圧を幕命により徹底したため、後の「島原の乱」の原因を作ったとも言われています。五條市では今でも名君「豊後様」として称えられ、江戸時代には「松倉祭り」が行われていたようです。島原との落差が半端じゃないっすね。




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ぴーかる

二見城 (2023/11/19 訪問)

【二見城】
<駐車場他>駐車場はなし。妙住寺前の道路脇に停車しました。
<交通手段>車

<感想>現地説明板によると二見城は中世この地域に勢力を持っていた二見氏の館を前身とし、慶長十三年(1608年)五條二見藩1万石余の城主として入封した松倉重政が改築したものである。松倉重政は大坂の陣の功績によって肥前国島原に転封となり程なく二見城は廃城となります。
 現地に遺構は残っておらず、妙住寺のある平坦地が当時の主要部分でありましたので、主郭であったろうと思われる場所を撮影しました。また旧街道沿いに松倉豊後守重政之碑があるのでそこにも寄ってみました。

<満足度>◆◇◇

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キンヤ

松倉重政が城主だった二見城と城下町の五條新町 (2023/08/13 訪問)

二見城は、1331〜1334年に二見氏によって築かれた館城を前身とし、江戸時代の1608年に大和五條藩1万石余りの城主として入った松倉重政が近世城郭に改築したとされます。
重政は、もとは戦国大名筒井氏の重臣として仕えていましたが筒井氏が改易された後、関ヶ原の戦いの功により徳川家康によって大名に取り立てられました。
大坂夏の陣の功績により、1616年に重政は肥前日野江藩4万3千石の大名として転封になった後、二見城は廃城となりました。

今は立派な説明板がありますが、残念ながら遺構は殆ど残されていません。
絵図を見ると本丸・二の丸は小規模で、東西に長い河岸段丘上に築かれた平城だったようです。
本丸は今は妙住寺の境内で、北側・東側は吉野川が流れ断崖となり、西側に埋められてますが堀跡があります。
二の丸は今は木材会社の敷地で、城風の土塀が建ち、周りより高くなっています。
本丸・二の丸は南東側から見ると、かなり高くなっており、西側の外郭も南側から見ると高くなっており、河岸段丘の地形が分かります。

二見城の北には、重要伝統的建造物群保存地区の五條新町があります。
中世からの町場の五條と、松倉重政によって新たに造成された新町の2つの地区からなり、二見城の城下町として整備されました。
江戸時代からの建物が多く残されており、風情のある良い町並みでした。
重要文化財の栗山家住宅は、1607年の棟札があり建築年代が分かる民家では日本最古だそうです
新町通り沿いにある新町松倉公園に重政を称える碑、西方寺に重政の墓碑があります。
重政は肥前国の島原では重税を課したりキリシタンを弾圧し悪評高いようですが、五條では雑税を免除し商人を集りやすくし、町をつくった殿様として慕われているようです。

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松倉重政 (2023/02/18 訪問)

 妙住寺付近が本丸であったようです。近くに案内板がありました。遺構は残っていないように思われます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 二見氏
築城年 元弘年間(1331〜1334)
主な改修者 松倉重政
主な城主 二見氏、松倉重政
廃城年 元和2年(1616)
遺構 堀跡
再建造物 模擬天守(ミニチュア)、説明板
住所 奈良県五條市二見5