こまつじょう

小松城

石川県小松市

別名 : 芦城、小松の浮城
旧国名 : 加賀

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三浦の晃ちゃん

天守台は、高校の敷地内 (2024/07/15 訪問)

三の丸は、芦城公園になっています。天守台は、小松高校の敷地内にあります。正門からは見えませんが、裏に回ると、確認できます。

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しんちゃん

天守台への昇降は鉄の階段で可能になった。 (2021/11/21 訪問)

小松城址は小松市の中枢に所在し、天守台と三の丸跡の芦城公園が残ります。
芦城公園はちょうど紅葉の盛りで、それだけでも楽しめます。天守台のほうは崩落の
危険があるとのことで、以前は立ち入り禁止になっていたようですが、今では鉄の階段で
ガッチリと補強されていつでも登れるようになっています。子供が登っても大丈夫なようにか
天守台の上には手すりが配されていますが、下側から見ても隠れて目立たないように
なっています。石垣の積み方も見事な切り込み接で加賀藩の技術の高さを感じます。
小松城の初見は永禄7年(1564)で永禄9年には朝倉義景が一向一揆の籠ったこの城を攻めた
と「宗滴雑談」に出ているそうです。天正7年、一向一揆の籠った小松城を柴田勝家が落とし
村上次郎右衛門頼勝が入ったとされます。後に、羽柴秀吉の命で丹羽五郎左衛門長重(長秀の長男)
が入ったとあります。もともと若狭国・加賀国123万石から松任4万石にまで減らされていたのですが、
8万石を加増され12万石の領主となります。この際・従三位・参議・加賀守に任官し、小松宰相と
呼ばれるようになります。丹羽長重は関ヶ原の前哨戦で前田利家に敗れ、一度失脚、小松城は
前田家の城として近代化がなされ、寛永16年(1639)加賀藩3代前田利常の隠居城と
なったとのことです。
加賀一国で金沢・小松の二城を保有していたのは異例のことであったとされています。

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刑部

巨大な浮き城 (2023/05/05 訪問)

金沢城の2倍の広さをもつ難攻不落の城、今は球場や住宅地に変わり面影は薄れてしまったようです残念。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:小松城 (2022/08/01 訪問)

御幸塚城からの転戦です。来生寺移築城門前(36.415156、136.453167)に駐車し移築城門確認後、小松城跡西側階段前(36.412341、136.443202)で本丸➡小松市立図書館駐車場(36.410110、136.446831)に移動して三の丸を攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)初期に若林長門守によって築かれたと云われています。
若林長門守は一向一揆の部将で、1579年(天正7年)柴田勝家によって攻撃され落城し、村上頼勝(義明)が城主となりました。
1598年(慶長3年)村上頼勝(義明)が越後国本庄に移封となり、丹羽長重が十二万石で松任城から入城しました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて西軍に与した丹羽長重は改易となりましたが、1603年(慶長8年)常陸国古渡に一万石で大名に復帰しましたた。
丹羽長重の代わりに前田利長の所領となり、城代として利長の義兄の前田長種が置かれました。
1615年(慶長20年)一国一城令により一旦廃城となりました。
しかし、1639年(寛永16年)加賀藩3代前田利常の隠居城として再び整備されました。
1658年(万治元年)利常が没し、以降明治まで城番が置かれ維持されました。

来生寺に鰻橋御門が移築され現存しています。
「県立小松高等学校」グランド西に本丸石垣、天守台石垣が残されています。
三の丸跡に芦城(ろじょう)公園があります。 
園内には小松城三の丸跡の石碑や前田利常像があるようですが、確認していません。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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城郭情報

分類・構造 梯郭式平城
天守構造 御三階櫓[3重3階/1639年頃築/破却]
築城主 若林長門
築城年 天正4年(1576)
主な改修者 前田利常
主な城主 若林長門、村上頼勝、丹羽長重、前田利常
遺構 曲輪、石垣、移築門
再建造物 石碑、説明板
住所 石川県小松市丸の内町
問い合わせ先 小松市文化創造課
問い合わせ先電話番号 0761-24-8130