くげじょう

久下城

兵庫県丹波市

別名 : 玉巻城
旧国名 : 丹波

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①玉巻城案内板
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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:久下城 (2025/05/26 訪問)

黒田城から車で20分くらいで、案内板(35.084571、135.047607)を経由して、長慶院付近(35.086195、135.047298)に着きました。

久下氏は清和源氏の祖源満仲の弟・武末の孫である基直が武蔵国大里郡久下郷(埼玉県熊谷市久下)を本領としていました。
1180年(治承4年)頼朝が旗揚げをした時、大庭景親に属していた久下直光・重光父子は、頼朝のもとに馳せ参じます。
重光の代に源平の争乱で先行をあげ、1221年(承久3年)承久の乱の後に、恩賞として丹波粟作郷の地頭職に任じられ重光の孫・直高がこの地に移り住みました。
室町時代は丹波守護代をつとめた久下氏でしたが、1493年(明応2年)細川政元による「明応の政変」をきっかけに勢力を失います。
戦国末期には黒井城の赤井氏に従属しており、1579年(天正7年)の明智光秀を中心とした丹波攻略によって落城しました。

長慶院が改装工事中でした。長慶院は久下氏の菩提寺です。
長慶院裏の墓地で直登ルートを捜しましたが、自分には無理と判断して撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=豊地城へ車で向かいました。

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李牧

玉巻城跡の看板は立派なのに (2024/02/09 訪問)

福知山線谷川駅のすぐ西横の踏切に玉巻城跡の看板があります。
ただその先にはまったく案内なし。
突き当りの長慶院の裏手墓石群にも登城路は見当たりませんでした。
県道86を少し北上しJR線路沿いの踏切先に山への登り道があるのですが、
入り口は施錠されていて進入は不可能です。

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登城道、ありません (2023/01/22 訪問)

「城びと初投稿いただきます」(ぴーかるさん投稿からのぱくり)ですが、登城道はなく、急な斜面をクリアしても遺構はほとんどないので、皆さん、敬遠されてたのかも。
麓に福知山線に加古川線が接続する谷川駅があり、山深いですが、昔から交通の要衝であったと思われます。
東麓の長慶院の裏手斜面に久下氏の祖重光の五輪塔、時重の顕彰碑があり、そこまでは手入れされていますが、その上の斜面10mほどをすすきかき分け登ります(古城盛衰記さん指南)。鹿が通ったとおぼしき痕を行きました。すすきが終わると杉植林地で、下草はないですが、倒木や落ちた枝が直登を拒みます。
尾根まで登って、左手の緩い傾斜を行くと、二ノ丸、次いで、本丸です。本丸の向こうに馬場があって、本丸と馬場の間を画する浅い堀切が残っています。城域全体は、北東に口を開け気味にしたコの字型で馬場の先のコの字の先端が三の丸と。ほとんど自然地形のままで、急斜面を利用しただけの守りと見えます。
ちなみに久下氏は鎌倉時代からの名門。丹波守護代であったことも。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 久下氏
築城年 承久3年(1221)頃
主な城主 久下氏
遺構 曲輪、堀切、竪堀
住所 兵庫県丹波市山南町玉巻字八幡山