みねじょう

峯城

三重県亀山市


旧国名 : 伊勢

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天守台に続く土塁 主郭より
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しんしんちゃん

山城の雰囲気を強く持っている平山城。売りは枡形虎口と天守台の高土塁。 (2023/06/25 訪問)

峯城は関盛忠の五男・峯政実によって築かれたと伝わります。
信長亡き後、織田氏の勢力争いに巻き込まれたびたび戦火にさらされますが
羽柴秀吉は数日でこの堅城を落としています。
信長存命のときは兵糧攻めやら水攻めばかりやっていたのに実は結構
力攻めも得意なのですね。なかなか小憎い御仁です。
峰城は比高も40m程度で平山城に分類されています。
主郭にはおそらく当主の館があったと推測されます。
よく山城と平山城の違いを高さで区別しようという風潮がありますが
私はそんな単純なものではないと思います。
平山城にはやはりある程度の居住性が必要なのではと考えます。
用途(詰めの城など)や地形、居住性や城の構造など比高が50m程度でも山城と呼んで
差し支えない城はけっこうあります。
小牧山城のように平山城とよばれながら山城の機構を持っている城もあります。
麓に居館がありますからね。平山城と山城の間に明確な区分は無く、その中間に
当たる城も多いので、実際に自分の眼で見て判断するしかないというのが私の持論です。

話はそれましたが峯城は平山城でありながら山城の雰囲気を非常に強く持っている城です。
北の入り口からはいり、かんざし井戸を見てから枡形虎口を抜け南に向かいます。
途中、いくつか郭がありますが日当たりの良い場所は草ぼうぼうで
見学には適しません。主郭の北の郭と西の郭は土塁も残っているので見ておいたほうが良いと
思います。さらに南下していくと主郭の北と西側を守る土塁が見えてきますがかなりの高さです。
この高い土塁の上に櫓台と天守台が配置されている珍しい構造です。
南側から回り込めば虎口をぬけ主郭から土塁を伝って天守台までたどり着けますが
私は天守台に直登しました。登ってから主郭へ降りていきますが
主郭はかなり広いです。ただ東側の防備が手薄なのが気になります。
ここにも土塁が欲しいところですね。


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ぴーかる

峯城 (2022/12/30 訪問)

【峯城】
<駐車場他>峯城北登城口からスロープを上がった所に駐車出来ます。私は柴崎公民館に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>曲輪・土塁・伝天守台跡
<感想>峯城の築城は正平年間(1346 - 1370年)に関盛政の5男関政実が峯氏を名乗り築いたといわれます。峯氏は以降6代続きましたが1574年、当主の峯盛祐が長島一向一揆で討死(関氏はこの時信長に従っていた。支族の峯氏も同様と思われる)すると後継者が幼小であったため、信長家臣の岡本良勝が峯城主となりました。1583年、柴田勝家に味方した滝川一益、その甥の滝川益重(一説にあの前田利益とされる人物)が攻めて落城しましたが、秀吉の包囲軍に兵糧攻めにされ奪い返され織田信雄の領地となります。小牧長久手合戦の前哨戦で再び秀吉軍に攻められて落城し1590年、岡本良勝の亀山城移封により廃城となったようです。
 北の登城口から墓地を通り入城しました。墓地辺りが北東の虎口的な感じになっています。墓地脇にかんざし井戸、墓地奥からが仕切り土塁があり曲輪になっています。送電線の鉄塔や綺麗に杉が植林された曲輪跡を過ぎると虎口があり通路側に高土塁のある段曲輪があります。屋敷跡といった感があります。次に伝天守台の西側下段の広い曲輪に出ます。曲輪南側虎口付近には仕切り土塁があり、段が石積みであったような石が多く落ちています。帯曲輪南東側の登城道?と合流して南側から主郭に入ります。主郭虎口も石積みであったようで石が多く落ちています。左手の土塁上スロープを登っていくと伝天守台に着き、ここも石積みであったようです。主郭は広い楕円状で土塁と曲輪の間に深い堀がある珍しい防御遺構があります。伝天守台のある土塁と主郭は空堀で仕切り、西側下段の曲輪と一体としていた形状だったろうと思われます。
 平山城表記となっていますが、北からの台地の南端に位置して周囲からは比高もあり、縄張りも山城の様相があります。しかし臨時制の詰城ではなく居住感を残した見ごたえある城跡でした。

<満足度>◆◆◇

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佐久間正勝 (2022/10/06 訪問)

 北登城口より登城して南の森側出入口から帰ってきました。入口に未調査、未整備の遺跡であり気を付けて通るようにと注意喚起されています。北側入口を進むと、すぐに「かんざし井戸」があります。土塁、空堀、切岸など遺構が見られますが、確かに未整備なでもったいと思いました。しかも順路を進んでも、気が付くとズボンには「ひっつき虫」が多く付いていました(笑)。天守台と伝えられる付近には案内板にあるように石積みの痕跡がありました。

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pascal

羽柴秀吉との激戦地 (2015/03/14 訪問)

 秀吉の天下取りの過程で、激戦地となった伊勢の峯城です。


【アクセス(車)】
 R306の星田橋東詰交差点(点滅信号)から橋を渡って入ります。
城址の東麓にある柴崎集落の最初の建物が柴崎公民館で、城址見学者はここに車を停めて良いそうです。
公民館脇の道を西の城山に向けまっすぐ歩いて行くと、自然と搦手道から登城する形になります。
案内看板は充実しているので、迷う事もありません。


【城の歴史】
 峯城は関氏の分家:峯氏の居城として貞治6年(1367)に築城されました。
峯氏は近郷24ヶ村を支配し、兵力は600名とされています。
 永禄の織田信長の伊勢侵攻で神戸信孝の配下に組み込まれた峯氏は、長島一向一揆との戦いに駆り出され、当主の盛祐が討死にした事で断絶してしまいます。
跡には信孝の家臣:岡本宗憲が城主として入りました。

 本能寺~清須会議を経て、亀山城の関盛信が秀吉に寝返り、岡本宗憲もこれに倣うと、峯城は滝川一益の軍に攻められ、奪われてしまいます。
一益は甥の滝川益重を城主とし、3千の兵を与えて守らせますが、冬になると近江から羽柴秀吉が大軍を率いて攻め込んで来ます。
(滝川益重は前田利益(慶次郎)の実父です)
 周辺の諸城が早々に開城する中、羽柴秀長、秀次、筒井順慶が攻める峯城は4月まで抵抗を続けたので、秀吉方諸将は開城を見届けるとすぐさま、賤ケ岳に向かったと言います。

 峯城は秀吉に同盟した織田信雄の臣:佐久間正勝が城主になりましたが、翌天正12年(1584)に入ると信雄は徳川家康と組んで、秀吉と敵対する状況になります。
3月、秀吉は北勢に再び侵攻し、亀山城の関盛信を調略すると峯城を囲みます。
攻城側は蒲生氏郷、滝川一益、関盛信などで、勝手知ったる峯城をわずか数日の攻撃で落城させ、佐久間正勝らは尾張に逃げ去りました。

 大軍相手に三度の攻防戦と落城を経た峯城はその後再度岡本宗憲に与えられますが、天正18年(1590)に宗憲には亀山城(新城)の築城が命ぜられ、そのまま居城も移転したため峯城は廃城となりました。


【見どころ】

 県の史跡ですが、整備は進んでおらず、まだ大半が山に埋もれた城址です。
日本城郭体系の縄張り図にも主郭部分しか記されていませんが、近年に調査が進んで、思いの外規模の大きな城であった事が判って来ました。
 主郭の遺構は明瞭で、“伝天守台”とされる土壇には鉢巻石垣の名残りも有りますから、本当に天守が有ったかも。
3千の兵で4ヶ月籠城した城ですから、それなりの規模感と防備は有った筈ですが、藪の中でそれを見極めるにはかなりの知見が必要なので、現在のところ“上級者向けの城”かも知れませんね。
 

【感想】
 見学のための整備は、主に地元の有志の方がやられている様ですが、『地元の声』としては、訪城する人の数がやり甲斐に直結している様です。
秀吉方の付城の跡も特定されているので、併せて訪れると戦場の臨場感を感じられる城址です。

 

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 峯政実
築城年 正平年間(1346〜1370)
主な城主 峯氏、岡本氏、滝川益重、佐久間正勝
廃城年 天正18年(1590)
遺構 曲輪、天守台、櫓台、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(峯城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 三重県亀山市川崎町森4155
問い合わせ先 三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護室
問い合わせ先電話番号 059-224-2999