米どころとして名高い宮城県北大崎地方も稲刈りがすすみ、新米が出まわる季節になりました。この夏から始めた古代東北の城柵遺跡訪問の五ヶ所目として「名生館官衙遺跡」を訪ねました。この遺跡は「名生館」の名が示す通り、中世にこの地方を治めた奥州探題、斯波大崎氏の拠点の一つ名生城があった場所でもあります。名生城としてはこれまでに数度訪問しており、この欄に投稿済です。これまでは中世城館としての縄張りや遺構の確認が目的でしたが、今回は古代城柵をイメージしての訪問です。
ここは7世紀末から平安期まで使われた「玉造柵」に比定される古代城柵です。昭和55年の発掘調査では四面庇付き瓦葺き建物の遺跡も見つかっており、その瓦の製造された年代が多賀城跡のものより古く、多賀城創建(今年は多賀城創建1300年です)以前からこの地方が律令政府の支配にあったことを物語っています。
大崎地方の北西部、標高40m、比高10mの丘陵に位置し、東西700m、南北1100mの広さで、古代城柵としての規模は大きいといえるでしょう。古代東北蝦夷の三十八年戦争時代には征討軍の中継基地としても利用されたようです。宮沢遺跡(宮城県大崎市)は北東に9.4km、伊治城(宮城県栗原市)は北に30km、蝦夷の拠点胆沢(岩手県奥州市)までは北に82kmあります。
周辺はいま、民家や田畑となり、官衙としての遺構はありません。農家さんの倉庫脇にある説明板の推定復元図を見、政庁跡の平場から遥か北方を望み当時の威容を思うばかり。
東北自動車道古川ICから4km(9分)
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